令和元年7月14日(日)「空手」日々木陽稲
「タクシーでいいのに」と渋る可恋の手を引いて、わたしは駅に向かった。
小雨が舞い、相変わらず肌寒い日々が続いていて、可恋の提案に魅力を感じたものの、さすがにタクシーはない。
「ふたりで五千円越えるのよ」とわたしはスマホのアプリを見せる。
これから向かう東京の高校までのタクシーの片道料金が表示されている。
可恋なら「私が出すよ」と言いかねないが、昨日調べておいた「電車なら千円かからない」というわたしの言葉に眉間に皺を寄せていた。
「二回も乗り換えあるのよ……」と可恋がぶつぶつと文句を言う。
「可恋って電車嫌いなの?」
そんなに嫌がることなのかと思い聞いてみる。
「あんまり乗ったことはないかなあ」
「引っ越して来る前も?」
可恋が頷く。
「もしかして、ひとりで乗れない?」
あの何でも完璧にこなす可恋がひとりで電車に乗れないとしたら大事件だ。
「乗ろうと思えば乗れると思うけど、乗りたいとは思わない」
可恋は少し言い訳がましく返答した。
まさか本当にひとりで電車に乗れなかったとは。
わたしが驚いた顔を見せたせいで、「路線や乗り換えが面倒で覚えてないだけよ。電車の種類も路線や鉄道会社によって違うのだから、必要な時に調べれば十分じゃない」と可恋がうそぶく。
「いまがその必要な時でしょ?」というわたしの問いかけには、「ひぃなに任せるから問題ない」と即答された。
実は、わたしもひとりでは電車に乗ったことがない。
それは常にお姉ちゃんや純ちゃんと一緒にいるからだ。
純ちゃんと一緒の時はわたしが主導権を握るから、ひとりでだって乗れると思っている。
今日もわたしが可恋を案内してあげないと。
「任せて!」とわたしは胸を張った。
駅に着いて切符を買う段階で早くも駅員さんに尋ねることになってしまったけど、無事に可恋を目的地まで導けるはずだ。
1時間を越える電車での移動はさすがに疲れた。
「ご苦労様。高校に着いたら休むといいよ」と可恋に慰労される。
「大丈夫だよ。向こうじゃ見学するだけだし」と返答する。
高校の女子空手部に可恋の知り合いがいて、その見学および指導が目的だと聞いている。
わたしの役割は可恋を高校の最寄り駅まで案内することで半分終わったと言えるだろう。
可恋はその知り合いに駅に到着したことを伝え、地図アプリを見て高校へ向かう。
「電車が苦手なだけで、方向音痴じゃないのね?」
「そうだね。東西南北なんかは一度確認したら、その後少々移動しても分かる自信はあるよ」
迷子の可恋というイメージがわかないので、これはこれで可恋らしいがなんとも極端だ。
可恋は確かな足取りで進む。
すぐに高校が見えてきた。
その正門には道着姿の女性がひとり立っていた。
まだわずかに小雨模様だったが、傘をさしていない。
日曜なので人の気配がほとんどない中で、かなり目立っている。
「こんにちは、お久しぶりです」
「こんにちはー、わざわざ来てくれてありがとうね、可恋ちゃん」
高校生にしては小柄な女性で、とても気さくな雰囲気があった。
「こちら日々木陽稲、私のクラスメイトです。こちらは林康子さん、女子空手部の部長さん」
「よろしくね、陽稲ちゃんでいいかな?」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
笑顔で挨拶を交わす。
「陽稲ちゃんは空手やってないの?」
「してないです。運動は全然ダメなので……。可恋からは筋トレの指導は受けているんですが」
「そうなんだ! 羨ましいなあ。可恋ちゃんって、教えるの上手だから」
年上なのに見下すようなことはなく、「遠かったでしょ? 疲れてない?」ととても気を遣ってくれる。
道場に隣接する更衣室に案内され、可恋はさっそく着替える。
わたしは更衣室の外で待っていようとしたけど、目の届く場所にいるように言われた。
道着姿になった可恋は普段と違う凜々しさがあってドキドキする。
道場では女子部員が待っていた。
部長の林さんを含めて7人。
みんな林さんより大柄だ。
160 cm台後半の可恋より背の高い人も数人いた。
可恋は軽いウォームアップを済ませ、練習に加わる。
わたしは道場の端に置かれたパイプ椅子に座って見学した。
可恋は林さんとパートナーになって練習を続けるだけで、特に指導するような場面はない。
見ていると、部員の半数近くが可恋に良い感情を抱いていないことに気付いた。
彼女たちは部長の林さんに対してもあまり素直に従っていないようだった。
この部は昨年創設され、林さんたち2年生が5人、1年生が2人いると更衣室に移動中に聞いている。
おそらく同学年の林さんが部長であることに不満を持っているのだろう。
林さんも大変そうだ。
練習が終わってから何人かが可恋に組み手の試合を申し込んだ。
可恋は「私は組み手の選手じゃないので」とそれを断る。
林さんが間に入って仲裁するものの、彼女の言葉に耳を傾ける部員は少ない。
「それでは、林部長と組み手の試合をして勝った人とだけお相手します」
可恋が折れ、林さんが「ごめんね」と謝っている。
一方、林さんを除く部員は集まって相談をしている。
可恋が主審で試合が始まった。
林さんの相手は1年生の部員だと思う。
どうやら可恋と戦いたいと言った部員だけでなく、全員で林さんと勝負することにしたようだ。
その目的が林さんを疲れさせることくらい素人であるわたしにだって分かる。
粘れと言われているのか、実力差なのか、その対戦相手は防戦一方だった。
一戦目は林さんの勝利に終わり、二戦目が始まった。
今度も1年生が相手だと思う。
一戦目とほぼ同じ展開となり、時間が掛かったがこれも林さんの勝利だった。
三戦目。
ここから相手は林さんと同学年となる。
二戦を終えた林さんに対して、元気満々な相手選手が開始から猛烈に仕掛けた。
わたしでは技が決まったかどうかなんてまったく分からない。
ただ林さんが押されているのは分かる。
「やめ! 反則!」
可恋が割って入り、仕掛けていた相手選手を指差した。
「なに!」とその部員が可恋に怒鳴り声を上げる。
「顔面にヒットしました。反則です」
指摘する可恋の声は落ち着いている。
「ほんの少し触れただけじゃん!」
「反則は反則です」
「ガキが! 贔屓してんじゃねえよ!」
「嫌なら代わりの審判を連れて来てください。資格までは求めませんが、最低数年の空手経験をお持ちの方を」
なおも食ってかかろうとするその部員を他の部員たちが「戻れ」と呼びつけた。
呼ばれた彼女は納得した様子ではなかったが、荒れた感情を隠さないまま仲間のところに戻って行った。
すぐに次の選手が出て来る。
林さんは抗議の間に息を整えていた。
向こうは休ませない作戦を選択したようだ。
四戦目、序盤は相手が一方的に攻める展開だった。
それでも林さんは粘り、徐々に相手のペースが落ちていき、互角の展開になっていった。
最後は林さんが勝ち切った。
しかし、勝った後も膝に手をつき、疲れているのは見え見えだ。
五人目と六人目は試合にならなかった。
ともにすぐに勝敗がついた。
林さんはまともに動けず、六戦目のあとの礼が終わると崩れ落ちるように座り込んだ。
わたしが「大丈夫ですか?」と駆け寄ると「疲れただけだから」となんとか笑顔を見せようとしてくれる。
可恋に壁際まで運ばれると、「迷惑かけてごめんね」と謝っていたが、「気にしないでください」と可恋はニコリと笑った。
「審判はいなくても構いませんが、組み手は慣れていないので、当たってしまったら済みません」
前に朝の稽古を見たことがあるけど、普通に組み手の稽古もやっていた。
可恋は魔王っぽいプレッシャーを相手に与えるような雰囲気を醸し出している。
ただ、わたしからは怒っているようには見えなかった。
「ケガはさせないでね……」とわたしの横にいる林さんは可恋に小声で頼み込む。
聞こえたかどうか分からないまま、可恋が相手を促す。
五戦目の勝者が出て来た。
可恋が礼をして頭を下げた瞬間に突進してきた。
「!」
わたしが声を上げる前に、相手が後ろに大きく飛んだ。
「空手をする気がない人には容赦しませんが、続けますか?」
こちらからは可恋の表情は見えない。
しかし、相手の顔は青ざめ、怯えているように見えた。
「ま、負けでいい」
逃げるように可恋の前から去って行く。
コンタクトはなかったようなのに、いったい何が起きたのか。
最後の相手が出て来た。
部員の中でももっとも大柄で、鍛えているのが分かる体型だ。
他の2年生部員のように林さんに不満を示す様子はなかった。
いまも純粋に戦いを楽しみにしているように見える。
その前の相手と違いきちんと礼をする。
彼女が一歩踏み出した時には、可恋が懐に潜り込んでいた。
「続けますか?」
「参った」
彼女はあっさりと負けを認めた。
「お前、強いな」
「ありがとうございます」
「中坊にしちゃ生意気だけど、気に入った」
彼女がニヤリと笑うと、可恋は会釈で返した。
「大野辰美。よろしくな」
「こちらこそよろしくお願いします」
大野さんが右手を差し出し、可恋がそれを握る。
「言っとくが、やっちゃんが疲れてなくても勝てたんだぜ。身長順で戦うって言われたし、ワタシの後だとやっちゃんが疲れるだろうって思って最後にしたんだし」
「林さんはどう思いますか?」
可恋に問われ、座り込んでいた林さんが立ち上がる。
「私じゃタッツンには勝てないよー」
「実力は互角だと思いますが、苦手意識が勝負に反映されると思います」
「面白いことを言うな」と大野さんが笑いながら可恋の背を叩こうとすると、可恋はサッと身を躱した。
「そこが生意気なんだよ」と大野さんに文句を言われた可恋は「済みません」と悪びれることなく謝った。
可恋がシャワーを浴び、私服に着替える。
さすがにシャワー中は、わたしは林さんと一緒にいた。
可恋の今日の服装はジャケットにパンツ。
高校生、下手したら大学生に見間違われるので、中学の制服にするか迷っていたけど、スカートが嫌といってこのいつもの服装になった。
わたしもあまり派手な格好は慎むように可恋に言われていたので、カーディガンの重ね着とキュロットスカートという出で立ちだ。
林さんたちは午後も練習があるが、可恋はもう見学だけで済ますらしい。
昼食は気を遣わなくていいように、林さんだけが付き添ってくれる。
学食は休みなので、高校の近くの定食屋に向かう。
安くてボリューム豊富が売りだそうだ。
わたしが頼んだ定食はとてもひとりで食べ切れる量じゃなかった。
「ひぃなには今日の練習はどう見えた?」
意外なことに可恋がわたしに尋ねた。
しかし、思ったままを口にしていいものか迷う。
「正直に話して欲しいな」と林さんに言われて、感じたことをそのまま話すことにした。
「可恋の朝の稽古を見学したことがありますが、全員がもの凄い集中力で圧倒されました。それに比べると、かなり差があったと思います」
かなりというより天と地ほどというのが正しいだろう。
さすがに面と向かっては言えないけど。
「ウォーキングの練習と比べてどう思う?」
林さんは「ウォーキング?」と不思議そうに聞き返すが、わたしは放課後に可恋が指導する練習を思い浮かべる。
「可恋はひとつひとつの練習の目的を繰り返し口にします。目的意識が高まり、集中できるように感じました」
林さんは真剣にわたしの言葉を聞こうとしている。
「分かりにくいところは可恋が実践して教えてくれます。ひとりひとりに対しても、ポイントを指摘してくれるので分かりやすいです。練習中はよく褒めてくれるし、励ましてくれます」
普段はお喋りじゃないけど、人に教える時はかなり饒舌になる。
「道場での朝の稽古は、みんなレベルが高いから自分なりの目的を持って取り組んでいます。ですから、特に言葉は必要ありません。しかし、文化祭の練習のようなものだと目的を意識するところからスタートします。そのためには繰り返し繰り返しそれを語り掛けることが必要です」
わたしの言葉を受けて、可恋が説明する。
「空手の練習だと目的は強くなること?」と林さんが尋ねる。
「最終目的は強くなることでも、個別の練習はそれぞれの目的に応じて行われますね」
「個別……個別って言ってもいろいろあるじゃない。基礎体力を付けるとか、ひとつひとつの空手の動作をより良くするとか、組み手の駆け引きを覚えるとか。全部やろうと思うともの凄い量になっちゃわない?」
「そうですね。その問題をクリアするためには優先順位をつけて、必要なものから練習するということになりますね」
「優先順位が必要っていうのは分かるんだけど、あれもこれも必要だと思うから全然減らせないの」
「よく聞く話ですが、それをすると練習の効率が悪くなります」
「効率?」
「良い練習とは、集中して高い目的意識を持ち質の高い練習を行うことです。しかし、人は長時間集中力を持続できません。疲労するとなおさらです。1つの試合が長時間に及ぶスポーツは別ですが、空手では1試合数分で決着がつきます。長い集中力は必要ありません」
「可恋ちゃんのやってる朝稽古は確か1時間だったよね?」
「1時間でも長すぎるんですが、15分4回だと集中力を高めるための時間が増えすぎて難しいんですよ。空手の練習に限れば、1日30分2回が理想ですね」
「それだけでいいの? 練習すればするほど強くなるよね?」
「初心者のうちはそうですね。レベルが低いと少しの経験値でもレベルアップできます。経験値効率の悪い練習でも気になりません。しかし、レベルが上がるにつれてレベルアップに必要な経験値量が増え、効率の悪い練習だとなかなかレベルが上がらなくなります。問題は、そこでより効率の良い練習を見つけられるかになります」
「見つけられなかったらどうなるの?」
「ごく一部の練習好き、苦行に耐えられる人や苦行そのものが好きな人はレベルを上げていけますが、それ以外は挫折してしまいます。日本のスポーツ界はそうした一部の例外の方々が指導者になったり、成功して発言力をもっていたりするので、苦行に耐えて当たり前という発想が抜けません」
「うーん、でも練習量を減らすのって勇気いるよね?」
「長時間の練習だと、最後まで続けるために体力も集中力もセーブして行いますから余計に効率が悪くなりますよ」
林さんがうんうんと苦しんでいるのを見かねたからではないが、「純ちゃんはどうなの?」とわたしは聞いてみた。
「競泳は比較的早くから科学的なトレーニングを導入しているイメージがあるね。それに学校の部活よりスイミングスクールの方が合理的かもしれない。あくまで推測だけど」
「へぇー」
わたしが感心している向かいで林さんは「難しい……」と呻いている。
「難しいですよ。練習メニューひとつとっても日進月歩で新たな理論が生み出される世界です。筋トレなども昨日の常識が今日は非常識と言われる状況ですからね。情報を常にアップデートし、それを指導に活かそうとするのは容易ではありません。指導者だけに任せるのではなく、競技者自身もそうした勉強が必要だと思います」
林さんは、経験者である男子の部の顧問と練習メニューを作成しているそうだが、メニューの変更にはその顧問を説得する必要がある。
競技者のレベルに応じた練習メニューが必要という可恋の言葉に、危機感が更に高まったと語った。
彼女の情熱は眩しいくらいで、とても格好良かった。
「練習メニューは後日作成して送ります。理論的な説明もしますのでそれで説得してみてください」
可恋の言葉に「ありがとう、ありがとう」と林さんは泣くほど感謝した。
「でも、女子空手部の問題は練習メニュー以上に、部の人間関係の方が大きいと思うのですが」
「分かってるのよぉぉぉぉぉぉ」
林さんがテーブルに突っ伏して叫んだ。
店内の客は少なかったが、注目を浴びている。
可恋とわたしで、格好悪くなってしまった林さんをなんとか宥めすかした。
落ち着いた林さんが説明してくれたところによると、現2年生部員は全員高校から空手を始め、最初は体格差によって林さんがいちばん弱かったそうだ。
可恋に言わせると、現在の実力は大野さんとはほぼ互角で、他の3人よりは確実に上なんだとか。
「私、組み手が苦手だから……」
「そのメンタルの部分が問題ですね。本当に他の部員が侮ってたなら、あんな作戦をわざわざしませんよ」
あからさまな作戦だったけど、効果は絶大だった。
だが、作戦が必要な相手と見られていたのは事実だろう。
「解決策は簡単ですよ。大野さんを仲間に引き入れましょう。人数は2対3でも実力上位のふたりが揃えば、そうそう大きな顔はできなくなるでしょう」
可恋の言葉にわたしも納得する。
大野さんは他の3人とは違っていた。
味方につく可能性がいちばん高いだろう。
「でも、仲間にするって……」
これまでも当然仲良くなろうと試みたはずだ。
いままでできなかったことを覆す妙案が可恋にあるのだろうか。
「大野さんと戦う時に有効な手をいくつか伝授します。それだけで勝てるかどうかは分かりませんが」
可恋はそう言うと、わたしを見た。
「コミュニケーションについては、ひぃなに任せた」
「え? わたし?」
コミュニケーションに一家言あるとはいえ、年上相手だ。
気遣うようにわたしは林さんに向き合う。
「参考になるかどうかは分かりませんが、できるだけ率直な話し方が良いと思います。全力でぶつかっていくと受け入れてくれるタイプに見えました。自分の想いを繰り返し伝えるのもいいと思います」
直接話してはいないので、できる助言もわずかだ。
それでも林さんは熱心に聞いてくれた。
「いままではあっさりと諦めちゃっていたよ。それじゃあ伝わらないよね。もっとしっかり話してみる。ありがとう、陽稲ちゃん」
林さんはコミュ力すごく高そうだけど、それでも自分の想いを伝えるのは難しい。
「頑張ってください。応援しています」
わたしは精一杯の想いを込めて、そう伝えた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学2年生。日焼けが大敵なので今日のような天候は好き。
日野可恋・・・中学2年生。空手歴は10年近い。帰りもタクシーを提案してひぃなに却下された。
林康子・・・高校2年生。女子空手部部長。以前、可恋の通う道場に稽古に行き、そこで可恋と知り合った。
大野辰美・・・高校2年生。




