令和3年3月30日(火)「目指すもの」日野可恋
「くれぐれもご自愛くださいませ」
私がそう言って一礼すると、お祖父様は表情を引き締め「ヒナを頼む」と手を差し出した。
手を伸ばすと、両手でがっしりと握られた。
固いゴツゴツした感触が伝わる。
そして、彼は深く腰を折り曲げた。
「任せてください」と答えた私は、こちらに視線を送るひぃなの目を見つめて「必ず幸せにしますから」とつけ加える。
その頬が赤く染まる。
頭を上げたお祖父様も振り返ってひぃなを見た。
豪快な笑い声を上げると、彼は国産高級車の運転席に乗り込んだ。
「お祖母ちゃんの顔も見たいし、夏休みには行きたいと思っているから」と言ったひぃなは「本当にありがとう。大好き、”じぃじ”!」と胸元で両手の指を祈るように組んだ。
「楽しみにしとる」と目尻を下げたお祖父様は窓を閉めエンジンを掛けた。
私はひぃなのすぐ横に立ち、車との距離を取る。
ひぃなは「元気でいてね!」と手を振って見送った。
孫娘の誕生日及び高校進学のお祝いに出席したお祖父様は2泊3日の滞在を終えて自宅に帰って行った。
昨日は私とひぃなで宿泊しているホテルに行き、長時間にわたってお話を伺うことにした。
ひぃなを溺愛しているお祖父様にとっては久方ぶりの至福の時間だったようだ。
一昨日の誕生祝いの席で高校在学中に起業すると宣言したひぃなが、実の祖父に経営のいろはを学ぶという体裁だ。
お祖父様は一代で会社を興し、地元で名士と呼ばれるまでの成果を残した人物だ。
経営の話を聞くにはうってつけと言えた。
「ワシが心掛けていたのは敵を作らないことだった」
ホテルの一室でお祖父様はそう話を切り出した。
私にとっても本で学ぶ以外の貴重な体験談だ。
真剣に耳を傾けていた。
「競争だから勝ち負けはある。こう言ってはなんだが、勝つことは多かった。人の何倍も努力したからな」
若い頃は有頂天になったこともあったそうだが、その時の競争相手に大変な苦労をさせられたそうだ。
敗れた相手は商売では勝てないと思ったのか場外戦を仕掛けた。
悪い噂を流したり、妨害工作をしたりと、とにかくお祖父様の足を引っ張るためならなんでもやったそうだ。
お祖父様が逆上して警察沙汰になったこともあったらしい。
その時に彼はまだ健在だった母親からこう窘められた。
「人の怒りは社会を変革するほどの力を秘めている」と。
彼女自身は日本で生まれたが、その母はロシア革命で国を追われた貴族だ。
民衆の蜂起によってロシアという国は一度世界から姿を消した。
母親は人の怒りというものを侮らず、細心の注意を払うように諭したそうだ。
「負けた相手を厚く遇するように心掛けたところ、おもしろいことが起きた」
周囲の態度がガラリと変わったそうだ。
これまで一介の若造だと鼻にもかけてくれなかった人からキチンと応対してもらったり、仕事上だけのつき合いだった人から有益な情報をもらったりするようになった。
「それまでは数字ばかり見とった。それが自分の実力を示すものだと思っとったからな。だが、それは本質ではないと気づくことができた。だから、地域に根ざした会社を作ろうと思ったんじゃ」
商売相手も人、会社を動かすのも人。
社会は人で成り立っている。
「殺してやりたいと思ったこともあったが、ソイツのお蔭で気づかせてもらえたんだ。いまじゃあ足を向けて眠れないと思っとるよ」とお祖父様は最初に因縁を持った相手について笑い飛ばした。
いまでも会社の社員は家族と言い切るお祖父様は「だから実の息子たちも社員と対等でなければならない」と断言した。
社内での実績なしに創業者の血縁だからと経営に口を出すような奴はいらない。
まして足を引っ張るようなら実の息子でも容赦なく叩きつぶすと気炎を吐く。
「そんなことをしたら敵に回ったりしませんか?」と私が意地の悪い質問をすると、「遺産を放棄してでも敵に回るという甲斐性があるなら対等な相手として話を聞くが、残念ながらワシの育て方が悪かったようだ」とお祖父様は頭をかいた。
すかさず、ひぃなが「お父さんは良い人だよ」と反論する。
お祖父様は「そうだな。あいつは覇気は足りないが、自分の分を弁えとるな」と評した。
ひぃなの手前、語ることができない話も多々あっただろうが、それでも社史には決して載せられないエピソードを多数聞くことができた。
社内で派閥争いが起きてバランスを取るのに苦労をした話。
政治の生臭い裏話だったり、カタギでない人とのやり取りだったり。
経営論にとどまらない人生訓は時代遅れとなったものもあるが、一方で変わらぬ人間の本質に則したものもあって私も深く考えさせられた。
今日の午前中は近くの公園に3人で訪れ桜を観賞した。
朝からかなり暖かく満開の桜を楽しむ人の数も多かったが、それを少し遠目から眺めて歩いた。
ひぃなは祖父の望みを叶えるために臨玲高校の制服に身を包んでいた。
「よう似合っとる」とお祖父様は目を細めたが、ひぃなは不満顔だ。
「わたしは起業のことよりも、この制服を変えることが高校生活最大の目標だからね」
春の陽差しの下、仁王立ちになって彼女は高らかに宣言した。
小学生に見紛う容姿なので頭を撫でてあげたくなるがそこは我慢だ。
代わりに私は指を1本立てて語り掛ける。
「臨玲の生徒数は1学年100人ほど。冬服だけでもかなり高価で、10万円を軽く越える」
ひぃなの瞳がキラリと光った。
マスクの下から「それって……」と言葉が漏れる。
「この前も話したように業者が既得権益を簡単に手放すことはないでしょうね。ただ昨日のお祖父様のお話にもあったように、勝ち負けを競うのではなく互いに利を得るようにもっていければ……」
ふたつの目標が重なり、ひぃなの表情がきらめいている。
マスクをしているのに周りの視線が集まってきているのは気のせいではないだろう。
「ひぃなが着ているその制服には根強いファンがいて、そういう人たちが財布の紐を握っているってことを考えれば、あまり革新的なデザインはできないよ」と釘を刺したが、後光が差すように輝くひぃなは自信に満ちあふれていた。
「年商1億、必ずクリアしてみせるから」
「頑張って」と私はひぃなの頭に手を載せる。
お祖父様はひぃなと同じ色の瞳に笑みを湛えて、わたしたちを見つめていた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・4月から高校1年生になる。NPO法人代表を務め、トレーニング理論の研究論文を発表するなど多彩な才能の持ち主。
日々木陽稲・・・ロシア系の血を引き日本人離れした容姿を持つ美少女。本人は生来の”ギフト”をありがたいと思うものの、コミュニケーション能力を磨いたことやファッションデザイナーという夢への努力を評価して欲しいと思っている。
”じぃじ”・・・陽稲の父方の祖父。彼の母親については「令和元年8月11日(日)「じいじ」日々木陽稲」をご一読ください。




