令和3年2月27日(土)「エッチ」山口光月
「だ、だめぇ~、ほたる、見ちゃダメー!」
頬を真っ赤に染めてわたしは絶叫する。
トイレから戻ったわたしが見た光景。
それは自室の床一面にわたしの下着が散乱した惨状だった。
その真ん中に、しげしげと手に持ったパンツを眺めているほたるの姿があった。
わたしは取り返そうと床に座るほたるに飛びつく。
無事に取り返すことに成功したものの上から覆い被さる体勢になってしまった。
ほたるは顔を赤らめ「光月、強引」と照れている。
小一時間ほど問い詰めたい気持ちはあったが、万が一こんなところを誰かに見られたら一大事だ。
どんな勘違いをされるか分かったものではない。
わたしは急いで跳ね起き、散らばった自分の下着を必死に集めた。
「手伝う」と手を伸ばそうとするほたるに「ジッとしてて!」と命令口調で言ってしまう。
ほたるがうちに来るようになった最初の頃はかなり警戒をしていたが、最近はおとなしかったので完全に油断した。
絵を描いている時ならひとりにしておいても大丈夫だったのに……。
「人の嫌がることをしちゃいけないって教わったでしょ」
なんとか下着をひとつにまとめたところでそう注意をする。
彼女とつき合いだして小さな子どもと接しているように感じることが多かった。
常識が身についていないので、まるで保母さんにでもなったかのような感覚に陥る。
「嫌がること?」とほたるは首を傾げる。
「ほたるだって下着を見られたら嫌でしょ?」と言うと、「別に。光月、見る?」と自分のスカートの裾をまくり上げようとした。
「見ないから!」とわたしは大声で叫ぶ。
息が切れそうだ。
彼女と出会うまでこんなに大声を出すことなんてまったくなかった。
朱雀ちゃんたちから最近元気になったねって言われるが、ほたると一緒にいるとおしとやかなままではいられない。
「下着なら自分のを見るとか、お店に行くとかいろいろあるでしょ」
「お店?」とほたるはキョトンとしている。
目の前の少女の胸元を見る。
服の上からではまったく膨らみが目立たない。
お風呂で見た時もまだまだ幼児体型という感じだった。
「下着はお母さんに買って来てもらっているの?」と聞くと、ほたるは当然のような顔で頷いた。
「今度一緒に買いに行こうか」と提案すると、瞳を輝かせてほたるは「うん」と答えた。
基本無表情なほたるだが、決して感情がない訳ではない。
最近ようやく目元を見てその感情の変化に気づくようになった。
それはともかく。
自分で提案したものの、わたしはひとりで下着を買ったことはない。
小学生の頃はほたるのようにお母さんに買って来てもらっていたし、ブラが必要になってからは一緒に買いに行っている。
朱雀ちゃんと千種ちゃんは自分たちだけで下着専門店に買いに行くと話していた。
朱雀ちゃんならきっとひとりでも平気で下着が買えるんじゃないかと思う。
「いつ行くの?」といますぐにでも行きたそうなほたるに、「ちゃんと家族に許可をもらってからね」と言って先延ばしにする。
お姉さんぶる訳ではないが、わたしが誘っておいて恥ずかしい姿は見せられない。
事前に朱雀ちゃんたちから情報を集めないと。
場合によってはついて来てもらうことも考えないといけない。
ほたるが暴挙に出たのは熱心に描いていた絵が完成したからだった。
やることがなくなり、わたしのタンスを漁ったのだ。
描き上がった絵を見せてもらう。
顧問の先生から課題として出された人物の全身像だった。
絵の勉強を始めた頃からすればかなり上達している。
おもしろいのは彼女の個性はちゃんと残っている点だ。
だから、素人が見たらたぶん全然上手くなっていないと感じるだろう。
正確に模写することが凄いと思ってしまうのは分からなくもないが、素晴らしい絵というものは写真の代わりではない。
わたしも言葉で説明できるほど詳しくはないが、ほたるの絵には彼女にしか描けない何かがあるように感じる。
ほたるに常識を教えることでそんな彼女のオリジナリティが消えてしまったらという不安はあった。
だが現実問題として、下着を見られたりおっぱいを描かせてとせがまれたりと実害があるので改善は必要だ。
「よく描けているね。月曜日に顧問の先生に渡しておくよ」
ほたるは美術部の部長なのに顧問の先生を苦手にしている。
顧問は一度も怒ったことがないようなとても優しい感じのおじさんの先生なので、部員の多くからは空気のように扱われている。
前部長のように本気で絵に取り組む人には非常に熱心に指導してくれる人だ。
一方のほたるは男性全般に苦手意識を抱いているようだ。
いや、一部の女性教師にも似たような態度を取るので、大人が苦手なのかもしれない。
彼女は世間知らずだし表情も出さないので大人から頭ごなしに怒られたことがあったのかもしれない。
「次に何か描きたいものはある?」と何気なくわたしは尋ねた。
どうせまた「おっぱい」と言うと思っていた。
しかし、極めて珍しいことに彼女はほかのモチーフを口に出した。
「光月の唇」
「え?」と思わず声を上げる。
そういえばマスクを外したままだった。
わたしはトイレに入ったあとマスクを替えたいと思ってしまう。
単純に気分の問題なのだが、マスクが汚れたように感じてしまうのだ。
無理な時は我慢するが、自分の家だったので使った布マスクを風呂場前の洗面器に入れて戻って来た。
自分の部屋で代わりのマスクに付け替えるつもりだったのに、ほたるの下着バラマキ事件ですっかり忘れていた。
わたしは慌てて口元を手で押さえる。
「なんで唇なんて……」と口にすると、「新鮮で……エッチ?」とほたるは意味不明な理由を述べた。
マスクが当たり前の生活となり、家族以外の前で口元を見せる機会はめっきり減った。
だからといってエッチはないだろう。
だが、そう言われると見せることに抵抗を感じる。
ほたるはまじまじと見るだろうし、その図を想像すると恥ずかしさがこみ上げてくる。
ほたるは純粋な気持ちで言ったんだろうが、一度意識してしまうと口を覆う手を外せなくなってしまった。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど……」
「おっぱいでもいいよ」
いやいや、待って。
いくらなんでも唇と胸では差がありすぎる。
……あるよね?
わたしは渋々「唇、いいよ」と言って、ぎこちない感じでゆっくり手を下ろす。
ほたるの目は食い入るようだ。
慌てて「リップつけるから待って!」と再び手で隠そうとするが、「いまの口の開き具合がいい」と彼女から注文をつけられた。
リップをつけるところをジッと見られ、わたしは恥ずかしさにのたうち回りたくなった。
言われた通り、わずかに口を開く。
影でほとんど見えないはずだが口の中まで覗かれていると思うと、顔を完全に隠せる分まだ胸の方がマシだったかもと思ってしまう。
ほたるが描き始めた。
その瞬間スイッチが入ったかのように、彼女はわたしではなく描く対象物を見る目に切り換えた。
わたしは一心不乱に絵を描くほたるの目が好きだ。
こっそりとその時の顔を思い出しては描いている。
いまのところ納得いくものを描き上げるための技術が足りていない。
できれば秋の文化祭までには完成させたいが、そのためにはもっと上手くなる必要があった。
わたしに才能と呼べるほどのものがないことはよく分かっている。
それでも、せめてわたしが中学を卒業するまではほたるより上手いままでいたい。
わたしの勝手な願望だけど、上野ほたるという少女を前にした時の正直な気持ちだった。
††††† 登場人物紹介 †††††
山口光月・・・中学2年生。美術部では数少ない絵を描いていることを公表している部員。マンガやイラストを描いていて、美術的な絵は普段は描かない。美術部では文化祭の時に水彩画などを1点発表することになっている。
上野ほたる・・・中学1年生。美術部部長。昨秋の文化祭でファッションショーを見て自分も開催したいと思い部長に立候補した。絵を描くようになったのはそれからで、少しずつ上達している模様。




