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令和3年2月19日(金)「寒い朝」須賀彩花

 わたしの目の前にある綾乃の黒く長い睫毛が凍りつきそうなほど今朝は寒い。

 時折風が吹くと耳が痛くなってしまう。


「彩花……」


 彼女のマスクの下からくぐもった声が聞こえた。

 その黒い瞳を覗き込んでいると吸い込まれるように感じる。


「やっぱり今日は無理!」とわたしは叫んで、彼女の腕をギュッとつかんだ。


 そして強引に引きずり込む。

 わたしの家の中へと。


 ダンス部を引退してからも朝のジョギングは続けていたが、冬の寒さを前に勉強を優先するという口実を使うことが多くなった。

 だが、高校進学が決まり、もうその言い訳は使えない。

 最近は暖かい日が多かったのに今朝は真冬に逆戻りしたかのようだ。

 受験が終わって綾乃もジョギングにつき合ってくれるようになった。

 毎朝こうして迎えに来てくれる。

 さすがは元マネージャーだ。


 玄関先でジャージに身を包んだ綾乃を抱き締め暖を取る。

 ここも十分に寒いが外よりはマシだし、何より綾乃が温かい。


「今日は中止でいいよね。部屋に行こう」とひと心地ついたわたしは彼女に声を掛けた。


 綾乃は少し残念そうな表情でわたしのあとをついて来る。

 着替えたあとに切った自室のエアコンを再度つけ、「何か温まるものを持って来るね」と言ってひとり居間に向かった。

 そこにいたお母さんに「今日はジョギングに行かないことにしたよ」と話すと、「それがいいわ。風邪を引くといけないもの」と賛同してもらった。

 そして、「綾乃ちゃんは?」と聞かれる。

 頻繁にうちに来ているのでもう娘のような扱いだ。


「わたしの部屋。何か温まりそうなものをあげようと思って」


「朝ごはん、食べて行くか聞いてみて。腕によりをかけて作るから」とお母さんが微笑む。


 食べることも作ることも好きなお母さんは綾乃に食事を振る舞うことを好んでいる。

 家族相手だと張り合いがないらしい。

 綾乃のような美少女に食べてもらうとそれだけで嬉しいと言っていた。

 気持ちは理解できるが、自分とよく似た娘相手に言うことではないと思う。


 部屋に舞い戻って綾乃に確認すると、彼女はスマホを取り出し自宅に連絡を入れた。

 しばしのやり取りのあと顔を上げて「ご馳走になるね」と言った。

 彼女は自分のことをあまり話さないが、いまも母親との関係はぎくしゃくしているようだ。

 仕事で忙しい父親だけでなく姉も家に居る時間が減り、綾乃は母親とふたりで息が詰まるような生活を送っている。

 いままでは話し掛けられても受験を理由にして勉強に逃れられたが、最近は浴びるように母親の言葉を聞いているそうだ。

 綾乃は聞き上手という定評があるけど、そういう経験が元になっているのだとしたら哀しいことだと思う。


 わたしは伝書鳩のように綾乃の快諾を知らせに居間へ行った。

 そこにお母さんはいなくて、隣りのキッチンですでに朝食の準備に取りかかっていた。

 わたしが綾乃が食べて行くと言うと、「良かったわ。お歳暮でもらったけどもったいなくて使えなかったカニ缶を開けたから、帰られたらどうしようって思っていたの」と喜んでいた。


 できたら呼ぶと言われて、わたしは綾乃の元へ舞い戻る。

 彼女はいつものようにわたしのベッドの上で三角座りをしていた。


「寒くない?」


「平気」


「わたしは寒い」と言ってベッドに上がり綾乃に横から抱きつく。


 暖房のお蔭で彼女の身体は先ほどよりも温かい。

 ここ一年半ほどの間にわたしはすっかり抱き癖がついてしまった。

 最初はそうすると綾乃が喜ぶからだったのに、最近はこれをしないと落ち着かないと感じるようになった。

 いけないとは思うものの、わたしよりもひと回り小ぶりな彼女の身体は抱きつくのにちょうど良い。


「一家にひとり綾乃がいれば世界は平和になりそうだね」


 公立高校の入試は済んだが、校内は表面上の平穏という感じだった。

 合格発表はまだ先で、合格が決まるまでは安心できない生徒が多い。

 終わったという解放感もなく、時折不安な顔を見せる生徒も少なくなかった。

 すでに進学先が決まっているわたしは、そんな子たちにどう接していいか当惑している。


 精神的に強いと思われていた優奈ですら感情の起伏が大きくなっているように見える。

 彼女の場合は私立に落ちたということもあるが、この数日優奈らしさは影を潜めていた。

 美咲も苦労しているようだ。


「……みんなが無事に合格しますように」と呟いてわたしは綾乃を抱く手に力を込めた。


「……彩花」


 綾乃の肩の上に顔を埋めていたら、うとうとしていたのかもしれない。

 名前を呼ばれ、ハッと顔を上げる。

 上気した顔の綾乃が「スマホ、鳴っていた」と教えてくれた。

 確認するまでもなくお母さんからだ。


「ごめんね、お……痛くなかった?」


 覆い被さっていたので重くないかと聞こうとしたが、あんまりなので言い直す。

 綾乃は少し言い淀んでから「大丈夫」と答えた。

 わたしは「もう痛くしないからね」と謝り、「行こう」とベッドを先に下りる。

 手を差し出し、綾乃の手を取る。

 そのまま手を引いてわたしたちは部屋を出た。


「遅かったわね」とお母さんはご立腹だ。


「ごめんなさい。わたしがウトウトしていて」とわたしは両手を合わせた。


 食卓にはあん掛けのかに玉をメインに、サラダやトーストなどがたくさん並んでいた。

 普段の倍くらいの豪華さだ。


「これも合格祝いの一環よ」と笑顔を浮かべたお母さんは綾乃に向き直り、「これからもうちの娘をよろしく頼むわね。綾乃ちゃんのお蔭でこんな良い高校に合格できて本当に感謝しているの」と頭を下げた。


「私の方こそ彩花に助けてもらっています」


「綾乃ちゃんって良い子よね。何かあったら言いなさい。できるだけのことはするから」


 綾乃は一瞬目を見張り、それから「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀をした。

 それを見たわたしは負けじと「わたしも綾乃のためなら何だってするからね」と張り合う。


「冷めないうちに食べなさい」とお母さんに言われてテーブルに着く。


 マスクを外した綾乃はこちらを向いて声を出さずに口を動かす。

 その可憐な唇が『ずっと、そばにいて』と囁くのをわたしは見た。




††††† 登場人物紹介 †††††


須賀彩花・・・中学3年生。元ダンス部副部長。自分に自信がない少女だったが大きく成長した。かなり偏差値の高い私立高校に合格を果たした。


田辺綾乃・・・中学3年生。元ダンス部マネージャー。2年の夏頃から彩花に惹かれて彼女の家に入り浸るようになった。母親は新興宗教にハマっていて会話の内容はそれに関するものが多い。


笠井優奈・・・中学3年生。元ダンス部部長。私立高校の受験失敗から気持ちを切り換えることはできたものの、公立もまた落ちるんじゃないかと急に不安が襲い来ることも。


松田美咲・・・中学3年生。2年時にこの4人グループのリーダーだった。すでに東京の名門私立女子高への入学が決まっている。優奈とは親友で、彩花とは幼なじみに当たる。

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