令和2年8月31日(月)「世界から切り離されて」辻あかり
バケツをひっくり返したような雨だ。
8月最後の1日。
運動会が近づいてきたことで2年生は放課後に残って創作ダンスの練習に取り組んでいた。
まだ2週間近くあるとはいえ、普段ダンスに縁がない生徒が多いので時間はどれだけあっても足りないくらいだ。
雨が降り出したためグラウンドを使っていたクラスはすぐに練習が中止となった。
体育館を利用していたところも雨がひどくなりそうという判断で先生たちから帰るように言われた。
あたしのいる2年5組は、今日の練習は体育館だった。
運動会の実行委員に選ばれたあたしがメインとなってダンスの構成を考え、クラスメイトたちの指導を行っている。
うちのクラスはほかのクラスと違って練習に参加するかどうかは個人の自由だ。
元々、そんなにまとまりのあるクラスではない。
やる気のない生徒を強制的に参加させたところで、その相手をする時間が無駄だと思ったのだ。
昨年の運動会では笠井部長のクラスの創作ダンスが目に焼き付いている。
中心で踊っていた先輩たちのダンスは圧巻だった。
飛び抜けて優れた人が数人いて、ほかの2年のクラスと比べても際立っていた。
同時に、彼女たちを引き立てるクラスメイトの動きも素晴らしかった。
クラス単位だから全員参加が建前だけど、役割がほとんどないそこにいるだけといった感じの生徒はほかのクラスでは結構いた。
いまの2年生部員はその部長たちの創作ダンスを見て新設されたダンス部に入部した生徒ばかりだ。
だから、みんなあの伝説とも言える創作ダンスを目指している。
目指してしまう。
あたしだってやれるものならやってみたい。
でも、無理だ。
あたしはやる気のない生徒を動かすことなんてできない。
現部長のようなカリスマはない。
2年生のダンス部部員はほぼ均等に各クラスに散らばっている。
従って運動会の実行委員は女子5人中4人がダンス部だった。
創作ダンスの中心メンバーは当然ダンス部の部員で、次期部長であるあたしはそんなダンス部の部員たちから毎日のように相談を受けている。
あたしもクラスをまとめてダンスを教えるなんて初めての経験なので、それほど有効なアドバイスができているとは思わない。
自分にできる範囲で必死に考えたり調べたりして対応していた。
今日の練習が打ち切りになって、あたしは帰る前に部室に立ち寄った。
部室にはダンスやトレーニングの教本が置いてあり、借りて帰ろうと思ったのだ。
「ほのか?」
部室の扉の鍵は開いていた。
ドアを開けると電気はついていなかった。
黒雲のせいで、夕方にもかかわらず部室の中はかなり暗い。
その暗がりに人の気配がした。
はっきりとは見えないが、その人影はほのかのような気がした。
あたしは部室の電気をつける。
人工的な明るさが外と中とを切り離す。
そこに立っていた少女は遠目で分かるほどずぶ濡れだった。
体操服にショートパンツ。
そしてトレードマークともいえる眼鏡を掛けたその女の子は思った通りほのかだった。
「何があったの? びしょびしょじゃない」
あたしは急いで駆け寄る。
ほのかは無言だった。
いや、聞こえなかっただけかもしれない。
外は暗く、雨の音がやたら存在感を主張していた。
あたしはスポーツバッグから自分のタオルを取り出した。
練習で使っていたものだが、ないよりはマシだろう。
パッと見たところ彼女の荷物は見当たらなかった。
いくら暑いとはいえ濡れたままだと風邪を引く。
それに雨のせいで少し涼しくなっていた。
抵抗しないほのかの頭にタオルをすっぽりかぶせ、手荒く髪を拭く。
体操服もかなり濡れていた。
触れるととても冷たく感じる。
あたしは「脱いで」と雨音に負けないように叫ぶが、彼女は身動きひとつしない。
熱でもあるのかと心配になり、ほのかのおでこに手を当てる。
幸い、はっきり分かるほどの熱はなかった。
とはいえ、このままだと時間の問題だ。
あたしは強引にほのかの服を脱がせる。
部室にあるバケツの上でそれを絞ると結構雫が滴り落ちた。
「いったいどうしたのよ!」とあたしは怒鳴る。
タオルで身体を拭いてあげてもまるで人形のようにされるがままだ。
肌はとてもひんやりしていて心配になってくる。
ほのかはよく怒る。
他人にも自分にも厳しい。
いつも何かに怒っている印象だ。
それが彼女の原動力なのだろう。
勉強ができて、ダンスは学年トップ。
それは才能ではなく努力の賜物だ。
真面目で努力家。
そんな彼女を支えているのが怒りのパワーだと思う。
そのほのかが魂が抜かれたように心ここにあらずという状態になっていた。
まるで幽霊のようだった。
一昨日に起きたトラブルを昨日解決したばかりだ。
また何かあったのだろうか。
あたしはポケットからスマホを取り出して、ほのかのクラスメイトの琥珀に電話する。
その時、外が光った。
1、2、3、4……。
あたしは心の中で秒読みする。
ゴロゴロゴロゴロッと雷鳴が轟いた。
かなり近い。
琥珀は電話に出ない。
仕方なくLINEで『部室にずぶ濡れのほのかがいたけど何かあった?』と送る。
再び光が目に飛び込んだ。
あたしは不安から「ほのか、ほのか!」と大声で呼んだ。
その声が終わらないうちに先ほどより大きな音が響いた。
空気を引き裂く轟音にあたしはほのかにしがみつく。
ひと気のないすっかり暗くなった学校で、こんな放心状態のほのかとふたりきりで、雷が直撃しそうな状況だなんて誰だってビビる。
また、光った。
そして、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴーッと部室の空気まで震わせるような音が鳴った。
抱き締めているほのかに体温を奪われ、あたしの身体が冷えていくのを感じる。
暑かった空気は消え、いつの間にか冷えた空気に包まれていた。
見慣れた部室のはずなのに、ここだけが世界から切り離されているような気がする。
いままで見たことがないほど眩しい光が窓を覆った。
あたしは息を呑む。
ドドドドドーンと地響きが建物を揺るがせた。
部室の灯りがフッと暗くなる。
あたしは人生最大の悲鳴を上げていた。
「どうかしましたか?」と部室の扉が開く。
心臓が止まるかと思った。
振り向くとそこにいたのはダンス部顧問の岡部先生だった。
いつもの穏やかな雰囲気はなく、険しい顔つきをしていた。
あたしは立っていられなくて、ほのかの身体を支えにしながらずるずると腰を落としていく。
気がつけば、電気は普通についていた。
落雷の瞬間だけ消えたのだろう。
雷は少し収まったが雨は激しく降り続いている。
あたしから事情を聞いた岡部先生は「服や鞄があるとすれば教室でしょう。見て来ます」と大声を出した。
先生はほのかの脈や熱を確認した上で、戻って来るまで彼女を見ておいて欲しいとあたしに頼んだ。
あたしは頷いたものの心細かった。
「大丈夫ですか?」と先生は優しく問い掛けた。
「大丈夫です」とあたしは強がった。
ほのかをこのままにしておけない。
あたしが教室まで行けない以上、先生に任せるしかない。
その間、あたしがほのかを守るんだ。
再びふたりきりとなった部室で、あたしは必死の思いで立ち上がる。
ほのかの肩にはあたしのタオルを掛けてはいるが、かなり湿っている。
鞄にあたしの体操服が入っているが、汗まみれなので彼女に着せていいものかどうか迷った。
結局、あたしは抱き締めて温めることを選択した。
ひたすら彼女の耳元で名前を呼び続けた。
世界を雨音が覆い尽くすことにあたしは抵抗する。
身体を寄せていると彼女の呼吸音が微かに聞こえる。
体温が交じり合い均衡を迎えた頃、彼女の口元から「……あかり」という声が聞こえた気がした。
まだ目の焦点は合っていない。
呼び掛けへの反応もあるかどうか分からないくらいだ。
それでも構わず「ほのか! ほのか!」と思いを込める。
「あかり」
ほのかの声にようやく意思が感じられた。
しかし、あたしは呼ぶのを止めない。
「あかり、私……」
あたしは彼女の肩に両手を置いたまま身体を離して正面から向き合う。
ほのかはあたしより少し小柄だ。
運動能力は高いが、身体の線は細い。
いま上半身は下着しかつけていないので、余計にそう見える。
彼女はひとりでいたからかマスクを着けていなかった。
その艶めかしい唇はいつもより赤く充血していた。
あたしも暑くてマスクを外していた。
部室に入ってからはパニックになっていたのでつけるのを忘れていた。
ほのかは思い詰めた表情をしている。
その唇が躊躇いながら開く。
あたしは咄嗟にその唇を封じた。
あたしの両手は彼女の肩に置いていたから使えなかった。
だから、自分の唇で……。
それ以上の言葉を言わせないために。
††††† 登場人物紹介 †††††
辻あかり・・・2年5組。ダンス部次期部長。現部長の笠井優奈に憧れてダンス部に入部した。ほのかの親友。
秋田ほのか・・・2年1組。ダンス部、2年生部員のエース。運動会実行委員。口が悪く、一昨日の練習中にクラスメイトを怒らせ翌日は多くの生徒が練習をボイコットした。
島田琥珀・・・2年1組。ダンス部次期副部長。クラスの学級委員を務める。
岡部イ沙美・・・2年4組担任。体育教師。ダンス部顧問。




