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令和2年3月23日(月)「COVID-19」日々木陽稲

「日本人は自然災害に立ち向かうのではなく、あるがまま受け止めるのが好きなのかもしれないわね」


 スマホを眺めていた可恋が抑揚のない声で呟いた。

 感情を出さないように堪えているが、微かに怒りが見て取れる。


「温暖化の影響で実際にこれまでより大型の台風が直撃しているのにCO2削減の声はほとんど上がらない。国民の多数を占める高齢者にとっては死後の話かもしれないけど、若い世代からも危機感が伝わってこないもの」


 いつもよりほんの少し早口で可恋は語る。

 わたしでは議論の相手にならないので聞いてあげるだけだ。


「違うわね。新型コロナウイルスでは逆に若い世代はリスクが低く、高齢者の方が圧倒的にリスクが高いのに危機感のない高齢者は少なくない。単純に想像力不足なのでしょう」


 辛辣な言葉を投げつけてから可恋は肩を落とした。

 彼女のやり切れなさが伝わってくる。


「嫌なニュースでもあった?」と尋ねると、「残念ながら世の中は嫌なニュースばかり。いつものことだけどね」と可恋はわたしにニコリと微笑み掛けた。


 今日は一転して寒い一日となった。

 このところ午後はベランダに出て春の陽気を満喫していたのに、冬に逆戻りになってしまった。


「三連休が今日みたいな天気だったら良かったのかもしれないわね」と可恋は嘆息する。


 わたしが言葉の続きを待っていると、「人々の気の緩みを警戒する声も出ているわ。暖かくなってきて油断しているのでしょうね」と説明する。

 わたしにももう大丈夫なんじゃないかという思いが少しあった。

 しかし、「日本が2週間後にイタリアのようになってもおかしくないわ」と可恋は厳然とした可能性を指摘した。


「日本は世界一高齢化が進行している国で、医療現場にもともと余力はないの。これまでは運良く医療崩壊が起きなかったけど、いつまで綱渡りを続けていられるかは分からないわ」


「運が良かっただけなの?」と疑問を呈すと、「いや、もちろんいくつかの理由は考えられるよ」と言って可恋は指を立てた。


「まず、衛生観念が高く綺麗好きであること」「次に生活習慣としてキスやハグをせず対人距離が広いこと」「更に冬場はマスクの着用率が高いこと」と指を1本ずつ増やしながら可恋は解説してくれた。


「それでも相当の幸運があったと思う。密閉空間・密集場所・密接場面の三条件を避けるように言われているけど、日本で感染者が確認されて以降だってそんな環境はいくらでもあったでしょうし」


 学校の教室だって冬はあまり換気をしないし、お喋りする時は近い距離にいる。

 みんながみんなマスクをしている訳でもない。


「例えば今シーズンは感染症対策をしっかり行っているからインフルエンザの流行が抑えられているの。それでも一斉休校前の2月17日から23日の患者報告数は3万人を超えるわ。推計値では20万人を超えるそうよ」


 可恋がインフルエンザに感染して入院したのはそれより前の2月の上旬だ。

 豪華客船のダイヤモンドプリンセス号が横浜に帰港して大きな事件になった時期でもある。

 それによって遠い中国での出来事だという印象だった新型コロナウイルスが一気に身近な問題となった。


「無症状者や軽症者にはPCR検査が行われていないから正確な感染者数は分からない。でも、重症化したら検査によって原因を特定するし、医療従事者や院内での感染を防ぐ必要があるからそこは誤魔化せない。現在の重症者数から勘案すれば現時点の国内の感染者数はまだそこまで多くないと思われるわ」


 可恋の言葉になんとなくホッとする。

 しかし、それを待っていたかのように可恋は重々しく言った。


「感染者の8割は他人に移していないと言われている。一方ひとりで多数に移すこともある。クラスターね。この集団感染が同時多発的に起きれば簡単に医療は崩壊する」


 ふたりの間に沈黙が流れた。

 それに耐えかねて、わたしは口を開く。


「どうすれば防げるの?」


「個人でできることは手洗いの徹底や先程挙げた三条件の場所に行かないこと。あとは体調が悪い時は外出しないといった当たり前のことね」


 わたしは頷く。

 可恋に言われてわたしは徹底してそれを行っている。


「残念ながら、自分は大丈夫だと思ってそういうことを徹底しない人は一定数いる。ドイツで若者がコロナパーティーをしたって話だけど、どこの世界でもね」


 可恋は声を荒らげることなく淡々と話し続ける。


「風疹でも言われていることだけど、自分は大丈夫でも他人に移すことで大きな問題を引き起こすことがある。風疹は妊婦が感染すれば子どもに障碍が発生するかもしれない。新型コロナウイルスでは高齢者や持病がある人に移せば命の危険に直結する」


 さらりと言ってのけるが、可恋もまた持病があり新型コロナウイルスでは非常にリスクが高いそうだ。


「昨日大きなイベントがあったでしょ。確かに経済を回すことは重要。イベントを中止したら倒産するかもしれないし、その結果首を吊る人が出るかもしれない。一方で、クラスターが発生してその結果として死者が出るかもしれない。こういう時に政治がリーダーシップを取ればいいのだけど、要請するだけで終わりね」


 肩をすくめてみせた可恋は、「中国は共産党による独裁だから強権的な政策が取れたと言うけど、いまや欧米も外出禁止措置などを出しているわ。日本と置かれた状況は違うとはいえ、誰も責任を取ろうとしないのは日本らしさと言うべきかしら」と皮肉を交える。


「オリンピックのことも同じ?」とわたしは尋ねた。


「そうね。誰が延期や中止を言い出すかで責任を押しつけ合っていたの。ようやくIOCが延期を前提に調整を始めたってところね」


「いつになりそう?」


「年内は無理でしょうね。来年の夏か、再来年の夏が現実的。中止だと小さなスポーツ連盟が持ちこたえられないと言われているのでIOCは延期で収めたいはずよ。日本も新型コロナウイルスからの復興を打ち出して海外からの集客を図ることができれば開催する価値はまだあるでしょうし」


 そこまで言って可恋は頬に手を当て考え込んだ。


「新型コロナウイルスの影響で人の移動の制限は簡単に解除できないかもしれない。スポーツ選手であっても2週間の隔離が求められるといった状況が続く可能性はあるわ」


 そう言った可恋は「オリンピックは選手選考が重要だからそれが公平公正に行えるかという問題がある。2年後なら新型コロナウイルスの影響はほぼ受けずに開催できるんじゃないかな。別の問題が出て来る可能性はもちろんあるけど」と言葉を続けた。


 2年後というと可恋や純ちゃんは高校2年生で迎えることになる。

 ふたりとも同世代の中ではトップクラスの競技者なのだから、オリンピックの可能性があるんじゃないか。


「2年後なら可恋や純ちゃんが出場するかもしれない?」と勢い込んで聞くと、可恋は目を細めた。


「私は挑戦するつもりはないわ」


 可恋の種目である空手女子の形はすでに神瀬こうのせさんが代表に内定している。

 可恋は彼女を尊敬している。

 空手は次のパリでは採用されない。

 それが関係しているのかどうかはわたしには分からない。

 スポーツに詳しくないわたしはそれ以上踏み込んで尋ねることができなかった。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学2年生。週に数回このような可恋の講義を聴いている。普段はもう少しかみ砕いて教えてもらっている。


日野可恋・・・中学2年生。自分の体質のことがあるので以前から医療関係のニュースには目を通していた。


安藤純・・・中学2年生。競泳の若手の有力選手。春の大会が中止となり、現在は黙々と練習をこなしている。


 * * *


可恋「単純計算だけど、日本の人口を1億2000万人、集団免疫がつく60%が感染するとして、致死率をインフルエンザの10倍の1%とすると、死者数は72万人になるわ。現実には日本はイタリア以上に高齢者の占める割合が高いから致死率はもっと上がるかもしれない。

 この数字は1年間の死者数の5割以上。医療崩壊が起きれば新型コロナウイルス以外の病気や怪我の患者にも悪影響を及ぼすと考えられるわ。

 そもそも一度感染したら二度と感染しないようなウイルスとは考えにくいのよ。普通のコロナウイルスは風邪を引き起こす訳だけど、人は何度も風邪を引くわ。もちろんコロナウイルス以外が原因の風邪もあるけどね。免疫がつくことで重症化しにくくなるかも現時点では不明。

 ワクチンはできたとしてもまだまだ先の話だし、特効薬も飲んだら治るみたいな簡単なものにはならないでしょう。夏場に感染力が弱まるといったエビデンスはないし、もしそうだったとしても次の冬にまた同じことを繰り返すことになるわ。

 長い戦いになるでしょうね。それに人々が耐えられるか。医療現場は死に物狂いで戦っているけど、私たちは敬意を抱いてサポートできるかどうか。私たち自身の問題と捉えられるかどうかが鍵だと思う。

 中国のパニックを欧米は他人事のように見ていた。いま欧米のパニックを私たちは自分の問題として見ているかしら」

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