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令和2年2月23日(日)「選択」久藤亜砂美

 昨夜、母が男を連れて帰って来た。

 かなり酔っ払っていたから、送ってもらっただけなのかもしれない。

 だが、その男――年齢のよく分からないオヤジ――の目は嫌らしく、私を”発見”した時は欲にまみれた顔をしていた。


 母はいい加減な女で、離婚する前からだらしなかった。

 離婚後は更に拍車がかかり、母親らしいことはまったくしなくなった。

 それでも、アパートに男を連れ込むことだけはしなかった。

 大家の耳に入ると確実にこのボロアパートを追い出される。

 もう行くところなんて他にないのに……。


 いつかこの日が来るとは思っていた。

 寝る時も逃げる準備を忘れたことはない。

 私は鞄ひとつを抱きかかえ、枕元に置いていた包丁を手に取った。

 たとえ人を殺したって、少年院はこのどん底とさほど変わらないだろう。

 私は覚悟を決めた。


 しかし、男も相当酔っていたのか、私にトイレの場所を尋ね、駆け込んでいった。

 私はぐったりと肩の力を抜き、へたり込みそうになったが、いつ男が出て来るか分からないと急いで部屋を飛び出した。

 肌身離さず持っている近藤さんからもらったスマホで彼女に連絡を取り、彼女の家に保護してもらった。


 玄関で出迎えてくれた近藤さんは私を見てニヤリと口角を上げた。

 獲物が自分から飛び込んできて愉しくてたまらないといった様子だった。

 一緒に出迎えた近藤さんのお祖母様が私の蒼白となった顔に同情して泊めてもらうことができた。


「未来さんと話し合いましたが、貴女が望むならここに住むことを許します。ただし、家のことを貴女にやってもらいます。それが条件です」


 身近に迫った危険が去った安心と将来への不安がない交ぜになった一夜が過ぎ、早朝に起こされた私は和室の居間でお祖母様と向き合っていた。

 お祖母様は着物姿で、正座してピンと背筋を正している。

 私も正座しているが、不慣れなのですぐに足が痛くなった。


 近藤さんは以前、私が高校生になったらこの家に引き取るように祖父母と掛け合うと話していた。

 私が高校生になるまで2年余りあるが、前倒しすることにしたようだ。

 高校受験の最中にお祖母様が体調を崩し寝込んでしまったことがあった。

 お祖父様は認知症の傾向があるそうで家のことは任せられず、外部の手を借りることはお祖母様が頑なに反対した。

 しかし、近藤さんは受験があり、困った挙げ句に近藤さんの母親を頼ったそうだ。


 ひとり娘として厳しく躾け、家を出てからはそれに反発するように自由に生きている近藤さんの母親は、自らは姿を見せずに家事代行業者に依頼をした。

 お祖母様は嫌々それを受け入れざるを得なかったらしい。

 そんな経緯があり、私をお手伝い代わりに住み込ませることを近藤さんは熱心に勧めたそうだ。

 渋っていたお祖母様も私の身を案じて折れてくれたのだろう。


 私としてはあのボロアパートから出られるのなら大助かりだ。

 ここを追い出されたらもう行き先はない。

 母のように男に頼るくらいしか。

 それだけは避けたかった。


 お祖母様の出した条件を飲み、早速家事の手伝いをする。

 とはいえ、これまで家事なんてろくにやっていない。

 朝食作りでは何をしていいか分からず、何度も溜息をつかれてしまった。


「頭が良いから教えればすぐに覚えるでしょう」と台所にやって来た近藤さんがお祖母様を慰めている。


 朝食後は清掃だ。

 はたき掛けから始まる。

 さすがに古いタイプの電気掃除機はあったので、畳敷きの部屋はそれで済ませればよかった。

 問題は板間や廊下で、なんと雑巾掛けをするように言われた。

 今日は朝から暖かかったものの、冷たい水で何度も雑巾を絞るとすぐに手が荒れてしまいそうだ。

 その雑巾の絞り方からダメ出しされ、何度もやり直しさせられた。

 雑巾掛けも見た目以上にキツい。

 体勢は堪えるし力も必要だ。


 この家は古い家屋で、いつ建ったのか想像もつかない。

 近藤さんは固定資産税を払うだけで汲々としていると話していたが、郊外とはいえそれなりの敷地がある。


「荒れ放題でしょ」と言う近藤さんに見守られて午後は庭の掃除をさせられた。


 想像通りの重労働で、1時間で音を上げてしまった。

 腰が痛い。

 軍手をしていてもあちこち擦り傷ができている。

 ネグレクトも虐待だが、これも虐待と言っていいんじゃないか。


「必死さが足りないわね。そんなことじゃ追い出されるわよ」


 近藤さんの意地の悪い言葉に逆らう気力が湧かないほどに疲れていた。

 安全ではある。

 食事も安心して食べられる。

 びくびく怯えなくて済むが、果たしてこんな生活を続けられるのか。


「祖母が子どもの頃は井戸の水汲みとかさせられたんじゃない?」と他人事のように近藤さんが話している。


「……いまは令和の時代ですよ」と息も絶え絶えに私は答えた。


 試験は終わったものの高校の合格発表はまだなので、近藤さんはいつもよりピリピリした感じだ。

 自分のイライラをいつも私を使って解消しているが、今日は特にその傾向が強い。


「貴女の処女は私が奪ったのだから、男に抱かれたって平気でしょ」などと私に囁いてチクチクと責める。


 嫌がって見せないとエスカレートするので、相手にするのも大変だ。

 肉体的にはいままで経験したことがないほど辛い1日だった。

 精神的にも安らぎとはほど遠い。

 ボロアパートでの生活が恋しくなる。

 母さえいなければ、ひとりで気楽に過ごすことができた。

 もうあの生活には戻れないかもしれないと思うと、自分の選択が正しかったのか疑問に感じてしまう。


「前の生活に戻りたい?」と私の心を見透かしたように近藤さんが尋ねた。


 答えられずに黙っていると、「自堕落な母親だけど、それでもあの母親が与えてくれた生活だったのよ」と近藤さんは指摘した。

 そして、「子どもは親を選べない。環境もね。私は選べるようになるためにいまを生きているの。貴女はどうする?」と私に問うた。


 彼女は私よりは恵まれていると思うが、母から捨てられた娘である点は私と同じだ。

 学年トップクラスの学力を誇り、県下トップの進学校を受験した。

 一日でも早くこの家を出て、自由を手に入れるために。


 私は……。

 親友のハルカのように目の前の快楽に溺れ、先のことはなるようになると気楽に生きた方が幸せなのかもしれない。

 だが、近藤さんから未来を見据えた生き方を叩き込まれてしまった。

 知らなければ選択できた生き方も、知ってしまえば選択できなくなる。

 私にハルカのような生き方は無理だ。


 私は昨夜見た男の下卑た顔を思い浮かべ、静かに首を横に振る。

 一度目を閉じ、ゆっくりと瞼を上げる。


 ……ここで暮らすんだ。


 ここは新たな牢獄かもしれないが、いまはここで暮らすしかないと奥歯を噛み締めた。


 出掛けていたお祖母様が私の下着など身の回りのものを買って来てくれた。

 アパートでは服や下着は母と共有していたので持って来たのはごくわずかだ。

 買ってもらったは子どもっぽいものばかりで、それを見た近藤さんは声に出さずに笑っていた。


 夕食後は疲れてすぐにでも眠ってしまいたかったが、近藤さんに勉強をやらされた。

 うとうとしてしまい、まったく頭に入らない。


「自分の部屋に戻るのも無理そうね。今夜は一緒に寝ましょう」と微笑む近藤さんの目はあの男の目に似ていた。




††††† 登場人物紹介 †††††


久藤亜砂美・・・中学1年生。両親が離婚後に母親とこのアパートで暮らし始めた。母親が働いているかどうかも定かではない。


近藤未来・・・中学3年生。両親が離婚後に母方の祖父母に引き取られた。厳格過ぎる祖父母に反発を感じているが、表面上は従っている。


小西遥・・・中学1年生。アサミの親友。姉の恵とともに不良仲間と繋がっている。

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