令和2年2月11日(火)「温もり」日野可恋
今日、無事に退院した。
しばらくは自宅で安静が必要だが、とりあえず一段落したと安堵する。
ひぃながバレンタインデーの準備をしているので、その頃には会うことができそうだ。
母に車で自宅のマンションまで送ってもらった。
母はそのまま仕事に向かい、私は自分の部屋で休憩を取る。
熱は下がったが、体力は回復したとは言い難い。
リビングは入院中に業者に清掃してもらったが、自分の部屋は手つかずのままだ。
うっすらと埃が積もった感じがするものの、何をするにも一休みしてからだ。
入院中は母やひぃななどごく一部としか連絡を取っていなかった。
主だったところには入院を知らせていたので、退院したことを報告しておかないと。
そんなことを考えながらベッドに横たわっていたら、眠りに落ちていた。
目覚めると、もう夕方近くだった。
意外と長く眠ってしまった。
残念ながら嫌な夢を見たあとのようにスッキリしない気分だ。
顔を洗ってきても、まだ頭に靄がかかったようで私は顔をしかめた。
こういう時は身体を動かせればいいのだが、身体も重いままだ。
ベッドの上で胡座をかき、呼吸に意識を集中させる。
ゆっくりとしたリズムで息を吸い、息を吐く。
雑念を払い、ただそれだけを繰り返す。
少し気分が浮上してきたところで、ひぃなに電話を掛けた。
『ごめん、帰ったらすぐに連絡しようと思ってたのに寝ちゃって遅くなった』と伝えると、『気にしなくていいよ。大丈夫?』と気遣うような声が返ってくる。
今日退院することは事前に教えていたから、ずっと待っててくれたのだろう。
ひぃなだけには先に連絡するべきだったと反省する。
『本当にごめんね。ひぃなの声が聞けたからもう大丈夫だよ』
『食事は平気?』
今日は母が早く帰ることになっている。
仕事が急に入ることの多い母だが、私が退院したその日くらいは無理をしてでも帰ってきてくれるだろう。
だから大丈夫と言うべきだと頭では分かってるのにその言葉が出て来ない。
『あー……、そうだね……』と言い淀み、ひぃなと会う理由を探してしまう。
それを察したひぃなが『行こうか?』と言う。
顔を見るだけならマスクをしていれば平気かなとか、こんなことなら感染症予防の防護服のひとつでも持っておくべきだったかなとか、とりとめのないことまで考えてしまう。
『移すと悪いから』と私が言っても、『気を付けるし、今日だけだから……』とひぃなは粘る。
それだけ私が弱ってると伝わったのだろう。
病気は人を弱らせる。
それは肉体だけでなく精神も。
入院なんて日常茶飯事だった私でも、病気に慣れることはない。
『ごめん。ありがとう……』
いまはひぃなの力を借りることにする。
お互い感染のリスクはあるが、気持ちが落ち込んでいる状態だって健康上のリスクは少なからずある。
そんな風に自分を納得させて、ひぃなに来てもらうことにした。
熱がないのを確認してからシャワーを浴び、ひぃなを迎える準備をする。
リビングは温度と湿度を高めに設定し、少しでも感染のリスクを軽減する。
しばらくして、ひぃなが姉の華菜さんと一緒にやって来た。
いつものように玄関でアルコール消毒をしてもらい、それから手洗いやうがいを済ませ、私と顔を合わせる。
「どうも済みません。本当に助かります」と華菜さんに恐縮して挨拶すると、「退院おめでとう。困った時はお互い様だからね」と笑顔を向けられた。
ひぃなは夕食ができるまで私の部屋を掃除すると申し出てくれた。
掃除は任せてと胸を張るひぃなに、悪いと思いつつも頼ってしまう。
いまでこそ元気な時は自分ひとりで生きられるような顔をしているが、これまでの人生は周りの人たちに助けてもらってばかりだった。
母や祖母はもちろん、病院の医師や看護師、空手道場の人たち、学校の友だちや教師……。
普段は意識しなくても、こうして人の助けを借りる時には過去の様々な出来事を思い出す。
私はそんな善意に報いることができているのだろうかと。
「ざっと掃除して、ベッドのシーツと布団のカバーを替えたから」
時間があればもっと丁寧にやりたかったと呟くひぃなに「ありがとう」と感謝の気持ちを伝える。
どれほど感謝しているのかもっと言葉と態度で示したいところだけど、いまはこの一言にすべての思いを込めた。
近いうちに別の形で何らかのお返しができればと思う。
夕食ができあがる直前に母が帰宅した。
ひぃなたちが来ることをメールしておいたら、ふたりにチョコレートをお土産に買ってきた。
「専門店の高級品じゃないけど、良かったら食べてね」とひぃなと華菜さんに渡し、私には「可恋はいっぱいもらいそうだから、いらないよね」と笑った。
そんなにもらう当てはないが、ひぃながくれることは確定している。
それだけで十分だ。
華菜さんが腕によりをかけた夕食は十八番のロールキャベツをメインにしたもので、とても美味しかった。
最近は調理をする機会が減り、料理の腕の差がかなりついたように感じる。
華菜さんは貪欲に料理の腕を上げようとしているから、もう追いつきそうにない。
一年前は自宅で食卓を囲んで大勢で食べるなんて想像もしていなかった。
たまに母とふたりで食べ、母がいない時に師範代が来てくれることもあったが、ほとんどがたった独りでの夕食だった。
ひとりの方が気が楽だと嘯いていたものの、食事だけはずっとひとりは堪える。
こんな温もりに慣れてしまうと、自分が弱くなるという不安を感じることもある。
また前のように孤独になった時に耐えられるのかと。
でも。
それでも、この温もりはありがたい。
この温もりが私に力を与えてくれる。
いま私がいろいろ動けるのもこの温もりがあればこそだ。
いままで助けられた恩を、私の力が及ぶ限り返していきたい。
NPO活動はその象徴のようなものだ。
他のことにしても、自分の利害が絡む部分はあるものの、頑張る人の手助けになればという思いがあるから続けている。
「ひぃなには、あっと驚くようなチョコレートをプレゼントしないとね」と私が言うと、「負けないもん。もう準備はできているし」とひぃなが不敵な笑みを浮かべた。
そんな私とひぃなのやり取りを華菜さんが呆れた顔で見ている。
母は「どっちが凄いかみんなに判定してもらいましょうか」なんて煽ってるけど。
さて、残り3日しかないし、安静が必要な身の上でどこまでできるか分からないが、非常に困難なオペレーションが待っている。
とにかく全力を尽くそう。
私は思わず笑みが零れ、ひぃなに「可恋、悪い顔になっているよ」と指摘されたのだった。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学2年生。インフルエンザで入院していた。怠惰に流れることは普段はないが、気力が充実していない時は可恋といえど……。
日々木陽稲・・・中学2年生。今日は一日可恋からの連絡を待ち続けたが、可恋の前で負の感情はおくびにも出さない。
日々木華菜・・・高校1年生。料理の腕が確かな可恋からの感想は励みになる。この家のシステムキッチンで料理することが楽しいというのもある。
日野陽子・・・可恋の母。某超有名私大の著名な教授。仕事人間。




