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令和2年1月1日(水)「元日の悪夢」日々木陽稲

「はぁ~」と愛花さんが溜息をついた。


 今日は元日。

 おめでたい日ではあるのだが、わたしにとって1年でいちばん大変な日でもあった。

 北関東で地元の名士として知られる”じいじ”の自宅には、これでもかというくらい多くの新年を祝うお客様がやって来る。

 事業からは引退し、断り切れなくて地方議員を1期だけ務めた”じいじ”はいまは悠々自適な生活をしているが、それでも日頃から多くの人に頼られている。

 元日の年始の挨拶は恒例行事となっており、様々な人が訪問してくる。


 わたしとお姉ちゃん、それに愛花さんの三人の孫娘は元日は晴れ着を着て会場のデコレーションの一部になる役目を負っていた。

 暖かい部屋で椅子に座ってニコニコ微笑んでいるだけの楽な仕事に思われそうだが、決してそのようなことはない。

 着物は普段着慣れていないので長時間になると苦しくなるし、常に見られているので気が抜けない。

 来訪客は”じいじ”の前では媚びへつらっても、女、子どもの前では居丈高になる人が少なくない。

 対等なコミュニケーションが成り立っていないので、わたしでも精神的に疲れてしまう。


 お昼休憩として30分ほど広間を抜けることが許された。

 愛花さんが溜息をつく傍らで、お姉ちゃんは疲れたように首をマッサージしている。

 大人たちはお客さんたちの相手をしているし、他の従兄弟は交代制とはいえ寒い屋外で訪問者を案内したり、駐車スペースの管理などをしたりしているのでもっと大変らしいが……。


 まだ午後も続けなければならない。

 夜はお酒が入るので未成年は免除されるが、正月だから昼間からお酒を嗜む人も少なくないので午前中より午後の方が大変だ。

 わたしも溜息をつきたくなってしまう。

 その大変な午後に備えて食べておかなきゃいけないのだが、和服だし、トイレに行くのも大変だし、と思うと食欲が起きない。

 お姉ちゃんが腹持ちの良いおかずをもらって来てくれたが、わたしはそれをほんの少しつまむ程度だった。


「どいつもこいつもエロい目で見てくるジジイばかり。ホント最低よね。せめてもう少し若い人がいれば……」と愛花さんは嘆く。


「本気で口説いてくる人がいたら、それはそれで大変でしょ。若い人がイケメンとは限らないし」とお姉ちゃんが指摘すると、愛花さんは顔を歪ませた。


 わたしは自分の頬を両手で揉みほぐしながら、「あと半日だから頑張ろう」と自分に言い聞かせるように声に出した。

 明日は”じいじ”が年始回りに行くし、今日のように客が殺到することはない。

 明後日には自宅に帰るし、そうすれば可恋にも会える。


 奮い立たせた気合は午後3時を回った頃には風前の灯火となっていた。

 酔客が増え、アルコールの臭いをぷんぷんさせて絡んでくる。

 笑顔を絶やさずにそれを捌くのにも限界が近付いてきた。

 小学生の時は午前中だけでお役御免になっていたし、昨年はこのくらいの時間でギブアップした。

 こんなことで自分の成長を測っても仕方がない気はするが、あと少しあと少しと思ってなんとか乗り切ろうとしていた。


 午後になって愛花さんがトイレに立つ機会が増えた。

 気持ちはよく分かる。

 わたしは息抜きに行くと戻って来る気力がなくなりそうだったので我慢していた。

 5時になり、訪問客がかなり減ってきた。

 夜になるとまたどっと増えるが、わたしの役目はあとわずかだ。


 その時、お手伝いさんのひとりがお姉ちゃんのところにやって来た。

 年末に大量に作ったおせち料理が足りなくなってきたらしい。

 食材の余りがなかったかどうか、あったらどこに保管したかをお姉ちゃんに確認している。

 隅の方でしばらく話し合っていたお姉ちゃんはわたしのところに来て「すぐに戻るから」と言って、足早に部屋を出て行った。


 愛花さんはトイレに行ったままだったので、わたしひとりになった。

 お客さんは減ったとはいえ、わたしのいる出入り口付近だけでも5、6人いた。

 奥の上座の方にはまだまだ大勢の人がいる。

 わたしは前を向き笑顔を保ったままで、視線の片隅にひとりの気になる男性を捉えていた。


 わたしには誰にも言ったことのない特技がある。

 それは人の顔を覚えるのが得意だというものだ。

 幼い頃にそれで気味悪がられたことがあったので口にしなくなった。

 一度見た顔はまず忘れることはない。

 毎年ここに座って百人以上の顔を見てきた。

 午後の参加は去年からだが、その男性の顔を見るのは初めてだった。


 40代くらいのやつれた感じの人で、それほど特徴があるわけではない。

 身なりもごく普通のスーツ姿で、入って来た時は気にも留めなかった。

 ただ、奥に挨拶に行くでもなく、入口付近にとどまりこちらをうかがっていた。

 近付いてくることはなく、話し掛けてくることもなかった。

 遠くからこちらを見ているだけ。

 その彼がひとりになったわたしの方へと歩いて来た。


 わたしは顔を上げたまま、左手でテーブルの上に置いてあった巾着袋を取った。

 そこには防犯ブザーが入れてある。


「ちょっといいですか?」と男性は緊張した顔つきでわたしに声を掛けた。


「何でしょう?」とわたしは笑みを絶やさずに小首を傾げる。


「あの、ちょっと、案内、して欲しいんですが……」


 男の人は聞き取りづらい小声でたどたどしく語った。


「案内でしたら、誰か呼びましょうか」とわたしが答えると、「いや、そうではなくて……」と男性が慌てた。


 相手がじわじわと近付いていた。

 わたしは座っているので距離を取ることができない。

 笑顔は引きつり、相手の顔をじっと見る。

 目を逸らしたらヤバいんじゃないかと思っていたのに……。


 男性の方がわたしの視線に耐えかねたのか視線を逸らした。

 ホッとした瞬間、その人が「あれ、あそこで絡まれているの、あなたのお姉さんじゃ」と視線を逸らした先――入口の方を向いて言った。


「えっ?」という声を上げて、わたしはそちらを向く。


 その瞬間、男の人がのしかかって来て、わたしの口を塞いだ。

 咄嗟に防犯ブザーのことが頭に浮かぶが、身体が固まって動かない。


 ……どうしよう!


 考える間もなく、「ぐわぁ」という悲鳴とともに口を封じていた手が離れた。

 男はテーブルに突っ伏すように大きな音を立てて倒れ、わたしが顔を上げた先には回し蹴りを途中で止めたポーズのままの女性が立っていた。


「可恋!」


 わたしは叫ぶと同時に涙腺が崩壊し、鼻水まで止まらなくなった。

 可恋は足を下ろすと、ひょいとテーブルを乗り越えて、わたしの横に立った。

 わたしは服が汚れると思いながらも、可恋のお腹に顔を押しつけ泣くことを止められなかった。




 騒ぎになって他の人たちが駆けつけた時には、あの男は逃げ出していて結局見つけられなかった。

 可恋がわたしの口を押さえたところを撮影していたので、警察に被害届を出すことになるようだ。


 わたしは可恋に抱えられて控室に行き、落ち着くまでずっと顔を埋めていた。

 その間、可恋はわたしの頭を撫でてくれた。


「わたしのせいだ……」と落ち込んでいたお姉ちゃんに、可恋は「ひとりの力だけで完璧に守ろうと思っても無理があります。私でもできません」と言って慰めた。


「席を離れる場合、代わりの護衛役を連れて来るのが筋ですが、本当に信用できる人でなければならないので難しいですね。こういうことを言うと問題があるかもしれませんが、性犯罪は見知らぬ人よりも顔見知りによるものが圧倒的に多いですから」


 この家のお手伝いさんは昔からいる人もいれば、忙しいからと今日のために集められた人もいる。

 親戚だってわたしに対して思うところのある人は少なくない。

 残念ながらこの家で本当に信頼できる人は限られている。


 両親や”じいじ”は事件を聞きつけると飛んで来て、可恋に感謝した。

 特に”じいじ”は夏に続いてのことに土下座しかねない勢いで謝った。


「しきたりは大事ですが、安全第一で見直したらいかがですか?」と可恋が言うと、”じいじ”は頭を下げて可恋から教えを請う姿勢を示した。


 わたしは落ち着いてから、いちばんの疑問――どうしてここに可恋がいたのかを尋ねた。


「直接的には、明日大阪で人と会う予定がキャンセルされてヒマになったからなんだけど、間接的には母のせいかな」


「陽子先生?」と可恋のお母さんの名前を出すと、可恋は嫌そうに頷いた。


「私を無理やり大阪に行くことにさせておいて、自分は新幹線を途中で下りて、京都で仕事して実家に帰ってきたのは大晦日の夕方よ。しかも、元日の朝から出掛けるって言うから、私も一緒に出て行くことにしたの」


 可恋は仕事一筋の陽子先生のことを尊敬しているが、それに振り回されることが嫌いなのだ。


「母に新幹線に乗せてもらって、自宅に帰るつもりだったんだけど、ひぃなに愚痴を聞いて欲しくなって……」と可恋は少しだけ照れてみせた。


「よく来れたね」と可恋の電車嫌いをよく知るわたしは口にした。


「東京駅での乗り換えだけだったし、英語で駅員さんに質問したらとても親切にしてくれたよ」


 それは詐欺だろと思うが、ツッコまないでおく。


「新幹線の最寄り駅からタクシーに乗って、日々木家の本家に行きたいと言ったら通じたのが凄かったわ」と可恋は変なところに感心していたが、結局タクシーを使ったのね。


 在来線だと大変だから、それが正解だろう。


「ここならアポなしでも大丈夫だろうって」と笑う可恋だが、誰もいない自分のマンションに帰るんじゃやっぱり寂しいよね。


「ありがとう、可恋」


 微笑む可恋の顔を見ていると、わたしは心から安心することができた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学2年生。ロシア系の容姿を持つ類い希な美少女。着飾ることは大好きだが、なにごとにも限度が。


日々木華菜・・・高校1年生。陽稲の姉。ただ座ってニコニコしているだけの誰でもできるようなことより、自分の力が必要とされているような役割に心惹かれてしまった。


日々木愛花・・・高校1年生。陽稲の従姉。他人事のように感じていたが可恋からトイレは被害に遭いやすいと指摘され身がすくんだ。


日野可恋・・・中学2年生。空手家。回し蹴りはかすらせただけだが、男は大げさに倒れた。陽稲最優先なのでその場で取り押さえる気はなかったが、腕の一本くらい折るべきだったと後悔している。

なお、顔見知りだった愛花の兄に案内されて裏口から屋敷に入り、陽稲に声を掛けようとしたら彼女が警戒している様子だったのでこっそり動画を撮影しながら観察していた。

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