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令和元年11月6日(水)「笑顔の練習」日々木陽稲

「ちゃんと練習しないから、こんなことになるのよ!」


 わたしが精一杯怒った顔をすると、可恋は苦笑を浮かべた。


「ほら、サボらないで、ちゃんと笑って!」とわたしは大きな声を出す。


「分かった、分かった」と可恋はひとつ息を吐くと笑顔になった。


 放課後、わたしは可恋の家で彼女の笑顔を指導していた。

 可恋は口角を上げ、微笑みの形を作る。

 しかし、作り物めいた雰囲気は消えない。

 彼女はとても整った顔立ちをしている。

 それでいて視線が鋭いため、冷たい印象を与えやすい。

 可恋も笑顔の大切さを自覚し、笑顔を振りまいたりするが、わたしは可恋の作り笑顔に合格点を出さず、これまで何度も練習するように指摘していた。

 それを怠ったから、1年生を泣かしたなんていう噂が学校中に広まることになったのだ。


「目元をもっと優しい感じにして! ……そう、自然な感じで! 筋トレの話をしている時はできているんだから、可恋ならできるはずよ!」


 わたしは笑顔の持つ力をよく知っている。

 誰よりも、と言っていいかもしれない。

 笑顔はコミュニケーションのための強力な武器であり、ただ笑えばいいというものではない。

 幼い頃は無意識に、いまはかなり意識してわたしは笑顔を使う。

 どんな時にどんな笑顔をすればいいか、常に考えるようになった。


 可恋だって笑顔の重要性はよく理解している。

 だから、こうしてわたしの特訓にも付き合ってくれる。

 わたしは笑顔の練習法についてネットで情報を漁る以外にも、接客のプロであるお母さんからも様々なレクチャーを受けてきた。

 昔、純ちゃんに試みた時は見事に失敗に終わったが、今回こそはと意気込んでいた。


「少し休憩しようか……、可恋も疲れたでしょう?」


 かれこれ1時間は可恋の顔をいじり回した。

 可恋は両手で自分の顔を包み込み、軽くマッサージをしている。


「あと少しなんだけどなぁ……」と嘆くと、「ひぃな以外にはもう気付かれないんじゃない」と可恋は言った。


「甘い!」とわたしは可恋に向かって指差す。


「その甘さが、可恋が陽子先生に勝てない原因なんだよ。人間観察に長けた人なら見抜くと思うもの」


 わたしが指摘すると、珍しく可恋がショックを受けている。

 両手を頬に当てたまま目を見開き、わたしをじっと見つめていた。

 可恋はお母さんである陽子先生を苦手としている。

 その理由のひとつに、先生の観察能力の高さがあると思う。

 可恋の考えや精神状態を瞬時に把握するところは、わたしも常々見習いたいと思っていた。


 陽子先生は大学の先生だけど、人を教えることと同時に人からお話を聞くことが大事なお仕事なのだそうだ。

 そのせいか、コミュニケーションのスキルは非常に高い。

 わたしがお話しできるのは可恋の家に宿泊した翌朝の食事の時くらいなので、先生のコミュ力の一端しか知らないが、それでもわたしが学びたいと思う話し方や接し方がよく見られた。


 先生に伺ったところ、相手の懐に入り込もうというコミュニケーションのやり方はわたしとよく似ているらしい。

 わたしが容姿に助けられている部分を、先生はテクニックでカバーしていると言っていた。

 一方、可恋は人間関係を俯瞰して見る能力に長けているという。

 まだまだ経験不足なものの組織のリーダー向きだと話していた。


 可恋は他人との間に壁を作り、ぐいぐいと入ってこられることを好まない。

 コミュニケーションのやり方はいろいろあるし、時と場所、なにより相手によって使い分けが必要になる。

 わたしと可恋が互いに補い合うことができればもっと有効に活用できるだろうと先生は示唆してくれた。

 ただ、どんなやり方であっても笑顔というツールの重要性は変わらないと可恋自身も認めている。


 わたしはまだ固まったままの可恋を心配して、「今日はここまでにしようか」と提案した。

 可恋はようやく顔から手を放し、「そうね」と頷いたが、いまだ立ち直れていないように見える。


 可恋は立ち上がりキッチンへ行った。

 お姉ちゃんはよく気分転換にキッチンに立つが、可恋にもそういうところがあるようだ。

 可恋は自分用にコーヒーを、わたしにはホットミルクを作って持って来てくれた。


 わたしはミルクの入ったマグカップを両手で持ち、フーフーと息を吹きかけて冷ましながら、「可恋ならこんな噂になることくらい分かっていたよね?」と質問した。


 可恋はコーヒーをブラックのまま口につけ、「そうね」と答えた。


「じゃあ、どうして? そりゃ密室だと相手の1年生にプレッシャーを与え過ぎるかもしれないけど……」


 可恋は困ったように眉をひそめ、わたしを一瞥しただけで再びコーヒーを口に含む。

 わたしは可恋の表情や態度、雰囲気から気持ちを読み取ろうとするが、全力を持ってしてもガードを崩せなかった。


「話せる時が来たら話すよ」


 可恋はわたしへの常套句を口にした。

 わたしは他人の感情や意図を読み取る能力は秀でているが、逆に自分の感情を隠すことは苦手だ。

 その点では可恋とは雲泥の差がある。

 だから、重要な秘密はわたしには教えてくれない。

 可恋の場合、キャンプの時のように中学生レベルの秘密ではなかったりするので、わたしもわきまえているつもりだが、寂しい思いをしてしまうのは避けられなかった。


「そういえば、ダンス部のもうひとりの問題児は改心したようね。さすがは松田さん。わたしとは人徳の差があるみたい」


 可恋は明るい声で話題を変えた。


「可恋が裏で動いたんでしょ。……その子に何か話した?」


 わたしがそう言うと、可恋がほんの微かに動揺したように見えた。


「ひぃなは鋭いね。もっと気を付けないと」と可恋は微笑む。


「そこは、もう隠し事はしないと言うところでしょ」とわたしはにこやかに指摘するが、わたしが気付くことを前提に可恋は話をした気がした。


 可恋は肩をすくめただけだったので、「それで、何を言ったの?」と可恋が求めているであろう質問をする。


「問題児――藤谷さんは、ライバルを蹴落として好かれたい人に媚びを売ることを当然と考えているような子なんだけど、そういう考え方を認めてあげた上で、方法を工夫するように言ったのよ。男子相手じゃなく、ターゲットは部長の笠井さんなんだから、その人に気に入られるようなやり方を考えなさいって。そして、笠井さんは松田さんのことを憧れていてとても大切に思っているから、彼女を参考にすればって薦めた訳。Aチームに1年生は彼女以外いなくなったし、チャンスだ頑張れって背中を押しただけよ」


 可恋は楽しそうに自分の策略を語った。


「本心からじゃなくて、形を真似るだけでいいの?」と聞くと、「本心を変えるなんてできないわよ。形を真似る中で何か"気付き"を得られるのか、形だけで終わるのかは本人次第ね」と可恋は答えた。


 本人次第と言いながら、可恋のことだからきっと本人以外にもいろいろと指示をしているのだろう。

 ダンス部のことは笠井さんたちに任せると言う割に、事細やかに可恋は手を貸している。


「そんなに心配なら可恋もダンス部に入ればいいのに」と言うと、可恋は首を横に振った。


「入らない理由はいくつも並べることができるわ」と話す可恋はどこか寂しげに見えた。


「入らなくてもダンス部は可恋が支配しているしね」とその空気を振り払うようにわたしは笑顔で茶化す。


「来年度に向けての大事な手駒だから」と可恋は嘯く。


 来年度。

 校長先生が替わり、小野田先生や田村先生もこの学校を去ると聞いている。

 いまの校長先生が来るまで、この中学は校則が厳しかった。

 その状況に戻ることをわたしも可恋も心配している。

 わたしなんて歩く校則違反になってしまうだろう。

 赤毛でパーマがかったような髪。

 肌が弱く、夏でも長袖のブラウスを着ることを大目に見てもらっている。

 スマホの持込の問題など可恋は他にも新しい校長先生が来ることで起きる変化を警戒している。


 わたしが不安そうな表情を見せたせいだろう。

 可恋は優しく微笑んだ。

 そして、「私がひぃなを守るよ」と囁いた。


 その笑顔はとても甘く、わたしは独り占めしたいと強く思った。

 ああ、もう笑顔の練習はしない方がいいかも。

 この笑顔はわたしだけのものだから。




††††† 登場人物紹介 †††††


(その後)


日々木陽稲「そういえば、もうすぐ職場体験だね」


日野可恋「そうだね。でも、私は参加しないから」


日々木陽稲「えっ!」


日野可恋「必要ないから」


日々木陽稲「必要ないって、そういう問題じゃないでしょ!」


日野可恋「気を付けて行って来てね」


日々木陽稲「……わたしを守るって言ってくれたよね?」


日野可恋「安藤さんが守ってくれるよ」


日々木陽稲「…………」

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