令和元年8月25日(日)「ひとり」日々木陽稲
「ごめん、今日行けなくなった」
朝、電話で可恋が告げた。
予想していたこととはいえ、ショックだった。
「分かった。お父さんが送り迎えしてくれることになったから、わたしは大丈夫。心配しないで。可恋はお母さんを助けてあげて」
わたしは感情を出さないように気を付けながら言葉を紡ぐ。
「うん、ありがとう。気を付けて行って来てね、ひぃな」
可恋は優しい声でわたしにそう言うと電話を切った。
今日は可恋と一緒に全県模試に行く予定だった。
トラブルが起きたのは数日前のことだ。
可恋のお母さんの教え子が論文の発表直前に使っていたパソコンが壊れたそうで、その学生を指導していた可恋のお母さんは対応に追われた。
一昨日の夜からは家にも帰らずに奔走しているらしい。
とうとう昨日の午後には可恋が呼ばれた。
昨日の夜までわたしは可恋の家に泊まることになっていたけど、可恋はわたしを家まで送ると、「相当修羅場っぽいから、猫の手になってくるよ」と笑って出掛けて行った。
その時点でこの事態は予想していた。
でも、実際に行けないと聞くと悲しくなる。
「可恋、やっぱり行けないって」とお父さんに伝えると、「可恋ちゃんは頑張っているんだね」と言った。
そして、「そろそろ行くかい? そうそう、お姉ちゃんがお昼に食べてってサンドイッチを作ってくれたよ」と包みを渡してくれる。
わたしはいつまでも落ち込んではいられないと気合いを入れる。
高校受験の本番だってひとりになる可能性がある。
可恋とは同じ臨玲に行くと約束しているが、彼女は推薦を狙っている。
高校入試の時期はまだ寒く、体調面に不安のある可恋は一般入試の一発勝負を避けたいと言っている。
テストの緊張感が苦手なわたしにとって、模試は場慣れするために受けているようなものだが、今回のこの機会は大事な経験としたい。
会場近くまで車で送ってもらう。
会場は神奈川県内のあちこちに分散していて、地元からはどこもそこそこの距離がある。
それに友だちの多いところだと場慣れの意味があまりないので、少し遠くの会場を選んでいた。
だから、会場内の指定された教室に入っても顔見知りはひとりもいなくて、完全にアウェイという感覚だった。
きっと可恋に会う前だったら、緊張のあまり試験はボロボロだっただろう。
中学受験を失敗したときの嫌な記憶もよみがえりかけたが、それを払拭するように可恋の言葉がわたしの心の中に湧き上がる。
……リラックスすればひぃななら大丈夫。
そう、わたしなら大丈夫だ。
……落ち着いて周りを見ること。
ゆっくりと深呼吸をしてから周りを見回した。
友だちと来ている人もいるけど、ひとりきりの学生も少なくない。
彼ら彼女らは平然としているように見える。
でも、よく観察すると決してそうではないと気付く。
時間を気にする子、同じ作業を繰り返す子、雑音をシャットアウトするように参考書に没頭する子。
自分よりそわそわしている生徒を見ると、不思議と緊張感が薄れていく。
模試だからプレッシャーが掛からないんじゃ意味がないって、可恋は成績に応じて罰や褒賞を与えると笑って言ったのを思い出す。
偏差値によって1点刻みで決めて、50を切ると可恋のマンションに泊まるの禁止とかシャレにならない内容もあった。
良い成績ならわたしの希望を聞いてもらえるので、重圧を感じることよりも気合いが入り過ぎることの方が心配かもしれない。
そんなことを考えながら周りを見ていると、わたしの右斜め前の席の長い髪の女の子の様子が気になった。
さっきからひっきりなしに鞄の中のものを出したり入れたりしている。
以前のわたしを見ているようで、心配になってくる。
そんなに緊張しないでと声を掛けてあげたくなった。
その時、その女の子が手を滑らせて筆箱を落とした。
わたしは小さく「あっ」と叫んだが、スローモーションのように筆箱は落ちていき、床に叩きつけられる。
ガシャーンという音が教室内に鳴り響いた。
教室内のざわめきが一瞬消え、静寂に包まれる。
視線が一斉に集まった。
落とした少女は俯いたまま動かない。
他の子たちもただ視線を向けるだけだった。
わたしは急いで立ち上がり、床に散らばった筆箱や文豪具を拾ってあげた。
「大丈夫?」と言ってわたしは拾ったものを彼女の机に置く。
固まっていた少女がようやく解凍されたかのようにわたしの方を向いた。
「あ、ありがとうございます」と泣きそうな声だった。
落としたものはあらかた拾ったが、「全部ある?」と確認する。
自分で拾ったものをよく見ると、鉛筆は芯が折れていた。
そういえば消しゴムも見当たらない。
結構遠くまで転がっていったのかもと辺りを見回すが見つからない。
「……消しゴムと鉛筆削りが……」と泣き声が聞こえてきた。
わたしは一度大きく息を吸うと、「消しゴムと鉛筆削りが見当たらないの。落ちていないか見てもらっていいですか?」と大声で声を掛けた。
無視する子もいたが、周囲をキョロキョロと見てくれる人も少なくなかった。
少し離れた席の男子が消しゴムを拾って持って来てくれた。
後方にいた女子の二人組が熱心に周辺を探してくれて、鉛筆削りを見つけて「あったよ」と言ってくれた。
わたしは持って来てくれた人に感謝の言葉を述べ、「見つかりました!」と周りに報告する。
泣いていた女の子は涙を拭い、わたしにお礼を言おうとしていたけど、チャイムがなったので「良かったね」と一声掛けてわたしは席に戻った。
彼女は振り向いて頭を下げた。
最初の科目の試験が終わると、さっきの彼女がわたしのところに来た。
「ありがとうございました。助かりました。お蔭で無事に試験を受けられました」と感謝する。
ペコリと頭を下げた彼女は眼鏡を掛け、平均より大柄でふくよかな女の子だ。
アクシデントでかえって緊張感が消え、落ち着いているように見えた。
「どういたしまして」とわたしはニッコリと微笑んだ。
彼女もわたしの笑顔につられるように微笑んでくれる。
ちょっと気が弱そうだが、チャーミングな感じの人だ。
わたしは周囲の迷惑にならないように、小声で「ひとりで来たの?」と聞いてみた。
彼女は頷き、中学校の名前と自分の名前を教えてくれた。
中学校の名前は地域が違うのでサッパリ分からない。
「どの辺?」と聞くと、彼女、藤岡玉緒さんはわたしの地元とは少し離れた市の名前を挙げた。
わたしも中学校名と自分の名前を名乗り、自己紹介をする。
簡単なやり取りだけで休憩時間が終わり、次の教科の試験が始まった。
英語はこの夏もっとも自信を深めた教科だ。
可恋はキャシーのせいで間違った英語を身に付けたとぼやいていたが、キャシーと話したことで得られた自信はかけがえのないものだとわたしは思っている。
次の数学も苦手意識がなくなり、手応えを感じる出来だった。
20分ほどのお昼の休憩時間になった。
藤岡さんの前の席が空いていたので、そこに行って後ろを向き、「一緒に食べていい?」と聞いた。
彼女は嬉しそうに「はい、もちろんです」と答えてくれる。
彼女は小さくて可愛いお弁当箱を広げていた。
食べながら、今日の試験のことや食べ物の話をする。
彼女は自分から積極的に話すタイプではないが、聞いたことにはちゃんと答えてくれる。
「試験の時は周りの人を観察すると緊張しなくていいみたい。友だちの受け売りだけど」と調子に乗ってわたしがアドバイスすると、目を輝かせて「今度やってみます!」と藤岡さんは言った。
可恋はリラックスするための自分なりの方法を見つけるといいって以前言っていたけど、わたしの場合はこうして他愛ないお喋りをするのがいちばんだなと思う。
そして、周りを観察するだけでなく、友だちになってしまえばいいんだと気付く。
臨玲は女子高だし、お嬢様が通う学校だから受験生もおしとやかな淑女が多いかもしれない。
他の受験生となれ合いたくない人もいるだろうが、仲良くなれる子もいるはずだ。
誰とでもすぐに仲良くなれるわたしの特技を生かせばいいというこのアイディアを思い付いて、今日の模試に来て良かったと心から思った。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学2年生。可恋にこのアイディアを自慢げに話すと、奇異なものを見る目で見られた。納得いかない!
日野可恋・・・中学2年生。手伝いといっても、買い物や荷物運び、お茶を配ったり、掃除・片付けなどの力仕事が中心。資料探しや誤字脱字の確認などもやったけど。
藤岡玉緒・・・中学2年生。超絶美少女に話し掛けられたことは一生の思い出に残りそう。




