エピソード2「悪人の仮装」②
「ババ!!」
ある街で起きる連続失踪事件。
真相を追う刑事、沢登修吾と
街で喫茶店を営む女店主、馬場カーミラルの物語。
「ちゃちな悪事で悪人ぶるなよ。みっともないぜ。」
=②=
九月十一日。深水市中央区中瀬の朝。昨日のざわつきがまるで嘘のように、今日の街はいつも通りの残暑に包まれていた。太陽は、まるで黄金バットのように高らかに笑いながら、今日もご機嫌に街を照らしている。その光は容赦なく、アスファルトを焼き、建物の影をジリジリと細く削っていく。
街を行き交う人々も、暑さを避けようとあれこれ工夫を凝らしている。それが無駄な抵抗だと知りながらも、それでも日傘を差し、帽子を深くかぶりと試行錯誤する。そんな姿が、どこか滑稽で、どこか愛おしく街の様子を彩っていた。
街は、何事もなかったかのように動き出している。だが、昨日の“事件“は、確かにこの街のどこかに、中瀬商店街の人々に静かな不安感をどこか潜ませているようだった。。
喫茶店Terminalは、昨日の臨時休業を挟みながらも、今朝はいつも通り八時に開店した。 黒のスプレーで描かれた落書きは、すでにシャッターが開かれているため目にすることはできないが、昨日のうちに業者による高圧洗浄で綺麗に除去されていた。
今回の落書き騒動はTerminalだけに留まらず、中瀬の町全体、“シャッターのある店舗”が狙われたものだった。被害は広範囲に及び、すべての対応が完了するにはまだ時間がかかりそうだ。そして、なぜシャッター付きの店ばかりが標的となったのか、その理由は不明のままで、商店街ではあーだ、こーだ、と様々な憶測と議論が飛び交っている。
警察への通報は済んでおり、商店街からの被害届もすでに提出されている。この騒動、第一報を入れたのは、別件で中瀬の街に来ていた深水署の刑事・沢登修吾。彼の一報が、ざわめく街の人々の混乱を、いち早く落ち着かせる一手となったのは後に分かったことだった。
深水市中瀬連続失踪事件を担当する刑事、沢登修吾。無造作な寝癖混じりの髪に、しわの寄ったワイシャツとブラウンのスラックス。白髪の混じる無精髭に、感情の読めない無表情。その姿からは、どう見ても“だらしない中年男”という印象しか伝わってこない。
だが、その見かけに反して、署内では一目置かれる存在だ。
いわく「一見ぼんやりして見えるが、話し方の節々に滲む鋭い観察眼と論理性が、それを隠しきれずに漏れている男」。
今回の“中瀬商店街落書き騒動”。警察への第一報を入れたのは連続失踪事件の捜査のため中瀬に来ていた彼だった。
沢登は、今回の被害に遭った店、中瀬の街で一年前に開店した喫茶店Terminalの常連客でもある。
そんな彼は最近、ちょっとした“有名人”扱いをされかけている。その理由は、Terminalの女店主、長い黒髪が印象的な美女、馬場カーミラルとの親しげな関係。それは商店街の女将たちの格好な井戸端会議の話題として、街のあちこちで静かに囁かれ、どこかその行方を温かい目で見守っているかのようだった。
沢登自身、その噂がどこから広まったか、だいたい見当がついていた。だが、それを気にする気もない。放っておけばいい。彼にとって重要なのは、そんな噂ではなく、自分が捜査している“失踪事件の犯人逮捕”なのだ。
そんな沢登修吾だが、今朝もいつものように仕事前のひとときを喫茶Terminalで過ごしていた。九月十一日、午前八時九分。昨日の騒動が嘘のように、店内はいつも通りのやわらかな静けさに包まれている。
ふわりと漂うコーヒーの香り。ジャズのBGMが空気に溶け込み、カウンターの奥では店主・馬場カーミラルが沢登のための“いつものコーヒー”を淹れている。
Terminalがこの街に店を構えて一年。ひとりの時間を大切に過ごしたい人々にとってこの店は、静かで理想的な空間だと、そこそこの評判を得ていた。店内は五席のカウンターと、四人掛けのテーブル席がひとつだけ。“こぢんまり”という言葉が、これほどしっくりくる店もなかなか珍しい。
その空間を切り盛りする馬場カーミラルは、二十代半ばとは思えないほど落ち着いた雰囲気を纏っている女性だ。日系アメリカ人と日本人のハーフ。肩にかかる長い黒髪と、異国の血を感じさせる端正な顔立ち。白いシャツに茶色の薄手のエプロンを身にまとった彼女の動作は、その一つひとつがまるで踊るように、流れるように静かで美しい。その所作の端々に、彼女の持つ年齢以上の洗練された雰囲気が、今日もシャラリとさりげなく滲んでいた。
◇◆◇
沢登がTerminalで飲む“いつものコーヒー”は、ひときわ苦い。インドモンスーンの深煎り豆を、さらに苦味が際立つように抽出した、彼専用の一杯。もし他の客に出せば、それを口にした瞬間、ほとんどの者がその苦味に顔をしかめるだろう。だが、沢登がこの店に通い始めてから、彼の好みを覚えた馬場は、朝のこの時間に間に合うよう、この一杯のため丁寧に準備をしている。
その一杯に口をつける沢登。強い香りと苦味が舌に広がるそれを、いつものように静かに味わう。だが、その表情には、いつもの無表情とは少し違う“何か”が滲んでいた。
眉の動き、目の奥のわずかな揺れ。それは、昨日の騒動の余韻を感じさせるかのようだ。
そんな沢登の様子に気づいているのか、いないのか。 馬場は、いつも通りの手際で、それぞれの店の開店前に訪れる商店街の常連客たちを迎える準備を進めていた。その動きには一切の無駄がなく、流れるように滑らかで、大袈裟に言えば優雅に踊っているようにも見える。だが、それは決して演技ではなく、彼女にとっての“日常のリズム”。白いシャツの袖がふわりと揺れ、茶色のエプロンが静かに身体の動きに沿ってたなびく。その一つひとつが、店内の雰囲気に溶け込み、Terminalの朝を静かに整えていた。
「昨日は、大変だったな。」
その言葉を口にするべきか、沢登は少しだけ迷っていた。だが、結局は静かに、ぽつりと馬場にそれを投げかけた。言うまでもなく、“昨日”とは店のシャッターに描かれた黒いスプレーの落書きのことだ。
馬場は、その言葉を聞きふと手を止める。だが、彼女の表情は変わらない。そして、いつもの穏やかな口調でこう答えた。
「この一年で、いいことも悪いことも、いろいろありましたから。 あれも、そのうちのひとつくらいのことですよ。」
カウンター越しに沢登の正面に立ち、彼女はにこりと笑みを浮かべた。その笑顔には、大切な店を傷つけられた悲壮感は微塵も感じられない。むしろ、そこには静かな覚悟と、揺るがぬ芯のようなものが滲んでいた。沢登の目には、そんな彼女の姿がはっきりと映っていた。
「一見ぼんやりして見えるが、話し方の節々に滲む鋭い観察眼と論理性が、それを隠しきれずに漏れている男」そう評される沢登。いくら二十代半ばのわりに落ち着いている大人びた彼女であっても、馬場は間違いなく二十代半ばの若い女性だ。彼女が精神的に落ち込んでいないかと少し心配していた沢登は、その言葉と表情に、静かに安心を覚えた。
ふっと息を吐き、コーヒーカップに口をつける。 強い苦味が舌に広がりは、じわじわと思考を覚醒させていく。 それはこれから始まる仕事への思考をじわりじわりと覚醒させていくようだ。
「中瀬の深夜パトロールを、今日から強化するって話を地域課から聞いた。失踪事件の影響もあって、中央区全体の見回りは増えてるから犯人はすぐに見つかるだろう。被害に遭った商店街の人たちも、馬場さんも心配だと思うけど、安心してほしい。」
沢登の言葉は、淡々としていながらも、どこか気遣いが滲んでいた。 馬場は、カウンター越しにその言葉を受け止めると、ふっと柔らかく笑った。
「ふふ。頼もしいですね。 それに、ここにはいつも朝と…時々夕方にも顔を出してくれる刑事さんがいますし。安心です、修吾さん。」
その言葉に添えられた笑顔は、どこか意味ありげだった。そして、じっと沢登に視線を合わせる。ほら、まただ。
最近、彼女の距離感は、どこか少し近く感じる。それは“急接近”というにはとかく遅く、かといって、“ゆっくりとした変化”というにはどこか早い。ここひと月の間に、何かが静かに、しかし確かにそれは変化している。
沢登は、彼女の視線を受け止めながら、黙ってコーヒーに口をつけた。
時間は八時二十四分。朝のコーヒーで仕事への思考を覚醒させる。そのはずが、今日もまた、ゆっくりとした時間をすごしてしまった。そろそろ腰を上げるか。そう思い、沢登が席を立とうとしたその瞬間だった。
喫茶店Terminalの木製のドアが開き、カランカランカランカラン……。ドアベルが、小さな音楽のように“新たなお客様の来訪”を告げた。
「まーちゃん、おはようー!」
一度聞けば忘れられない、ハスキーで芯のある声。さすがにこの短い挨拶は、彼女特有の“高速ラップのような早口”にはならなかったが、それでもこの中瀬の街でこの声を聞けば、それが誰なのかはすぐにわかる。
「裕美さん、おはようございます!今日は早いんですね。」
馬場がそう声をかけた “裕美さん”と呼ばれたその女性は、深水市中央区中瀬北二丁目、紅門通との境目にあるアーケード街の入り口から数えて二軒目。地元に根ざした町中華の店『香蘭亭』の女将、立花裕美。二十年以上にわたり、変わらぬ気風で店を守り続けてきた女性だ。そして彼女は、店内に一歩踏み入れるなり、満面の笑みを浮かべて言う。
「あら??ごめん、お邪魔しちゃった?」
その声と笑顔には、馬場と沢登が店内で二人きりだった“その瞬間”に対する、大波が押し寄せるような波動を伴っているかのような目力が込められていた。
「いや、そんなことはないよ。」
沢登は、そっけなくそう返す。Terminalの女店主、長い黒髪が印象的な年齢のわりに大人びた女性、馬場カーミラルと、無造作な髪にくたびれたワイシャツの中年刑事、沢登修吾の親しげな関係。その噂がどこから広まったか、だいたい見当はついていた。そして今、その“発信源”と思しき人物が、目の前でニコニコと笑っている。
立花は、まるで決定的瞬間を目撃したかのような表情で二人を見つめ、 馬場は、どこか満更でもなさそうな微笑みを浮かべている。
沢登は、その様子に気づいているのか、いないのか。 コーヒーカップに静かに口をつけ、 ふぅーと、少し長めの溜息を吐いた。
その苦味は、朝の思考を覚醒させるはずだったが、今は少しだけ、別の意味が効いているかのようだった。
◇◆◇
喫茶店Terminalの朝。開店から三十分ほどは、比較的空いている時間帯だ。この後、九時を過ぎる頃には、中瀬の街の常連客たちが静かな空間を求めて訪れ始め、十時にはTerminalの“こぢんまりとした店内”の席がすべて埋まることも珍しくない。
そんな中、香蘭亭の女将・立花裕美が姿を見せたのは、いつもとは違う時間だった。彼女がTerminalに現れるのは、普段は十五時から十六時の間。香蘭亭の休憩時間に合わせて、午後のひとときを過ごしに来るのが彼女の常だった。
だが今日はいつもと違い、時計は八時二十五分を指している。立花は沢登の隣の席に腰を下ろし、店内は馬場カーミラルが立つカウンターの内側と、カウンター席に並ぶ沢登と立花という、滅多にここで同時に顔を合わせることのない三人の構図となっていた。
立花は、いつものコーヒーを注文する。彼女はいつも“馬場の今日のおすすめ”と、言ってしまえばお任せコーヒーを注文している。馬場は笑顔で「OKです。」と応え、慣れた手つきで、その準備に取りかかっていた。
店内には、ジャズのBGMとコーヒーの香り。そして、いつもとは少し違う“朝の空気”が、静かに漂っていた。
「まーちゃん、昨日は大変だったね。大丈夫?」
その言葉が指しているのは、言うまでもなく“中瀬商店街落書き騒動”のこと。ここにいる三人、馬場カーミラル、沢登修吾、そして立花裕美の間では、すでに認識が一致している。いや、今の中瀬では「大変だったね」という一言が、ほぼ自動的にこの事件を指す“街の共通認識”になっていると言ってもいいだろう。
「ありがとう裕美さん。うちはもう大丈夫ですよ。すぐに業者さんに対応していただけて、もうきれいさっぱりです。裕美さんのところは?」
馬場が穏やかに答えると、立花は肩をすくめて笑った。
「うちはね、不幸中の幸いで何もなかったのよ。でも、手前もお隣も、しっかりやられちゃっててねぇ。それに、ちょっとこんなの見つけちゃって。沢登くんも、ちょっと見てみてよ。」
ハスキーな声が、いつもの高速ラップ顔負けのテンポで一気に言葉を並べる。そして、立花はハンドバッグから白い手帳型のスマートフォンケースを取り出した。
その動作は、どこか“何かを見せる”というより、“何かを知らせ情報を共有する”というような気配を帯びていた。
立花はスマートフォンを取り出すと、手慣れた動きで画面を表示させ、迷いなくSNSのアイコンをタップした。 指先が画面を滑り、何かを探すようにスクロールを続ける。 そして、ある一点でその動きがピタリと止まった。
「これ、この動画。」
そう言って、彼女はスマートフォンの画面を沢登と馬場の前に差し出す。映っていたのは、スマートフォンで撮影されたと思しき一本の動画だった。夜の映像で、手振れも激しく、画質もかなり粗い。だが、この画面に映る画質の荒い風景にも関わらず、沢登はすぐこれに既視感を覚えた。
「立花さん…これ、中瀬じゃないか?」
どこか見覚えのある風景。それもそのはずだ。彼は役一年、深水市中瀬連続失踪事件の捜査のため、ほぼ毎日この街を歩いている。この風景は、映っているのは、間違いなく深水市中央区中瀬のアーケード街だ。沢登の声には、確信が滲んでいた。立花は目を丸くしながら、大きく頷く。
「沢登くんもやっぱりそう思う?続きもよく見て。これ、絶対に犯人が撮った動画だと思うの。」
沢登と馬場は、食い入るように画面に目を凝らす。映像は相変わらず不鮮明で、手振れもひどい。それでも、そこにははっきりと“なにやらガヤガヤと騒ぎながらシャッターに向かって黒のスプレーで落書きをしている”様子が映っていた。
「……うわぁ、なにこれ。ひどいですね。」
馬場は、眉をひそめながらぽつりと呟いた。その言葉には、驚きと呆れが、複雑に混じっているかのようだった。
沢登も、無言のままコクコクと頷く。その表情も、いつもの無表情とは少し違っていた。 その目の奥はに、何かを見極めようとする光が宿っている。
画面に映る粗い映像。夜の闇の中、数人で騒ぎながらシャッターに向かってスプレーを吹きかける様子。それは、ただの悪戯では済まされない。
ただ、この動画には、スプレーを吹き付ける“手元”こそ映っていたが、撮影者の顔や全身は一切映っていなかった。夜間の撮影で画質も荒く、手振れもひどいこの動画につけられたタイトルは「電脳横丁破壊映像」。
その言葉を目にした瞬間、沢登は確信した。電脳横丁は、中瀬商店街の別名の一つ。パソコンに精通したマニアが、パーツを求めて集まる商店街の一角のことをそう呼ぶ人がいると捜査の中で得た情報として記憶していたからだ。
この映像は、昨夜中瀬で起きた“商店街落書き騒動の主犯たち“が、自ら記録したものに違いない。
「立花さん、これは…犯人たちが撮った動画で間違いないと思う。これ、見つけたのは立花さん?」
沢登の問いに、立花はフルフルと首を横に振った。
「ううん、私じゃないの。被害に遭ったお隣さんが、たまたま見つけたって教えてくれてね。今の時間なら沢登くんがここにいると思って、寄ったわけ。やっぱり、そうだよねぇ。」
そう言いながらも、彼女の眉間には苦虫を噛み潰したようなしわが寄っていた。 その表情は、沢登にも伝染したのか、普段無表情な彼の眉間にも、同じようなしわが刻まれていた。
一方、馬場は、二人のやりとりを黙って見守っていた。眉にはわずかな緊張が走り、口元には静かな笑みが宿る。加えてその表情からは、どこか冷静さを保っているようにも見えた。彼女は、目の色を変えているかの如くいつもより少し目を見開きながら、スマートフォンの画面をじっーと見つめていた。そして、耳を澄ますように、画面から漏れる音にも意識を集中させている様子。
その何かを聞き逃すまいとするその姿勢が、店内の空気をどこか張り詰めさせていた。
三分ほどの短い動画を見終えたあと、店内に沈黙が降りてきた。それは沢登、立花、馬場の三人が、それぞれの思いを整理するための十数秒の静かな時間だった。
沢登修吾は、この映像の存在をこのあとすぐに署へ報告することを。立花裕美は、これが昨日の騒動の“証拠”であるという確信への胸の奥から湧き上がる感情を。そして馬場カーミラルは…言葉として表現できない、何か深く深く深い感情を抱えているかのようだった。その場の沈黙を破り、最初に口火を切ったのは馬場だった。
「こういうことが楽しい年頃なのかなぁ……。でも、ちょっとこれは酷いですよね。それに、こんな動画をネットに流したら、すぐに特定されちゃうのに…何してるんだろ。」
その声には、怒りよりも呆れが強く滲んでいた。 被害者としての感情よりも、犯人たちの“無邪気な悪意”に対する理解不能さが、言葉の端々に漂っている。
「本当にそうよね。これ、多分今日のお昼にはニュースで流れるよ。テレビの取材も来るんじゃない?」
立花が大きく頷きながら言う。沢登も、彼女ほどではないが静かに頷き、そして、深く、呆れ混じりの溜息をひとつ吐いた。
「まあ…これですぐに足はつくだろう。 本当に、何を考えてるんだか……。」
その言葉は、呆れと同時に、どこか虚しさも含んでいた。それはTerminalの朝の空気に、この「電脳横丁破壊映像」とタイトルを付けられた動画の残した“大呆れを混ぜ合わせた残念感”がじんわりと淡く染み込んでいくようだった。
「こういう動画って、今までもいろいろあったよね。それで人生棒に振っちゃった人、何人もいるのに……どうしてこんなことするんだろ。自分だけは大丈夫って、思ってるのかな?どう思う?沢登くん、まーちゃん。」
三人の中で最年長の立花は、動画に対して最も強い怒りを滲ませていた。それも当然だろう。中瀬商店街の老舗町中華「香蘭亭」の女将として、三人の中で最もこの街に深く関わってきた人物。地元への思いも、並々ならぬものがある。沢登は、そんな立花の言葉に静かに頷きながら口を開いた。
「立花さんの言う通り、自分だけは大丈夫って思ってるんだろうな。それにしても、未だにこんな形でしか承認欲求を満たせないヤツがいるとは……。ある意味、時代のせいかもしれないけど、ここまでくるともう承認欲求の暴走というか……病気だね。」
「病気……現代病ですね。」
馬場が、呟くように言葉を重ねた。その声は穏やかだったが、沢登はふと違和感を覚えた。馬場のいつもの柔らかな表情は変わらない。だが、彼女の瞳だけが、そこにない“どこか”を見ているように感じられた。まるで、その目だけが穏やかでない。そんな印象が、沢登の中に違和感という形で静かに残った。
◇◆◇
時刻は九時。 喫茶店Terminalで交わされた三人の会話は、四人目の客の来店によって、ひとまずの幕を下ろすこととなった。
沢登と立花は席を立ち、馬場の「ありがとうございました」の声に見送られる。彼女は、二人のコーヒーチケットを一枚ずつ丁寧に切り取り、新たな客の対応へと手早く自然に動き出す。
仕事に向かう沢登に、今日もお疲れ様の一言を送った立花は香蘭亭へと戻り、香蘭亭の開店前準備へ。沢登は、自身の仕事“深水市中瀬連続失踪事件”の捜査に向かう前にポケットからスマートフォンを取り出し、深水署へ先ほどの動画について連絡を入れていた。担当者の話によれば、この件の通報はすでに複数入っており、投稿主の特定作業が進行中とのことだった。
残暑の厳しさがまだ色濃く残る、九月十一日の朝。沢登、立花、馬場。それぞれの一日が静かに始まり、中瀬の街もまた、いつものように、いつもの表情を見せ始めていた。
連続失踪事件だけでも、この街は今、さまざまな意味で注目を集めている。そこに重なるように起きた、中瀬商店街の落書き騒動。 “今、中瀬が注目されているからこそ”の行動だったのか?もしそうならば、悪質さにさらに一層の塗り重ねをした悪戯と言わざるを得ない。
そんな思考の途中、ふと、あの雑誌に載っていた短い一文が沢登の脳裏をよぎる。
『新進の妖怪は、現代人の心に巣食うノイズを鏡として映し、こう問いかける。“あなたは、あなた自身を理解していますか?”』
これもまた、“心に巣食うノイズ”の一端なのだろうか。承認欲求の暴走、匿名性の中で膨らむ自己顕示…そう考えかけながら、沢登はその思考を振り払うかのようにフルフルと首を振る。いや、ただの悪戯だ。ただの悪戯に意味を与えすぎてはいけない。それより仕事だ。俺は俺の仕事をしないとな。
心に引っかかる言葉を、そっと胸の奥にしまい込み、 沢登は自身の抱える仕事、深水市中瀬連続失踪事件の捜査へと歩みを進めた。
それから時は過ぎ、時刻は十四時三十分。喫茶店Terminalは、ランチタイムの喧騒を終え、ようやく一息つける静かな時間帯に入っていた。片付けもひと段落し、店内にはいつもの落ち着いた空気が漂っている。カウンター内の椅子に腰を下ろした馬場は、ふぅと小さく息を吐き、しばしの休憩をとスマートフォンの画面を開いた。
指先がスススっと迷いなく動き、そこに表示されたのは例の動画。電脳横丁破壊映像と題されたあの三分ほどの短い映像だ。深夜の中瀬の街。不鮮明な画質、激しい手振れ。ガヤガヤと騒ぐ声の中、シャッターに向かって黒のスプレーが吹き付けられていく様子が映っている。
馬場は、その画面をじっと見つめていた。ただ見ているのではない。耳を澄ませ、動画の中に紛れ込んだ小さな音も拾おうとしている。
……ドゥルルルル……
よほど注意深く聞かなければ聞き逃してしまうような、微かな排気音。その瞬間、馬場の瞳が金色の光を湛えたように見えた。口元には、闇よりも深い笑みが浮かぶ。
“あらあら。可愛いくらいだと思っていたのに、意外と可愛げがなかったのね。それにしても……この程度で“悪いことしたつもり”? ふふ、ニーッシシシシシ……”
動画の中の音が、彼女の中の何かを確かに刺激した。 掴んだ“手がかり”に、馬場の闇笑はさらに深くなる。
そして、誰に向けたとも知れぬ小さな一言が、静かに漏れた。
“さぁて。どんな“お仕置き”がいいかしら?シッシッシッシ…ニーッシシシシシシ”
③へつづく




