27.ぶっちゃけるまでもなく知らん
※更新が早い=短い
(真理の扉を蹴破って、夏)
五感が優れている、というのは必ずしもいいことばかりではない。故郷を出て“王国”に来てからというものそう痛感する瞬間がある。
例えば、“北”にはなかった色やらモノやらの目に映るすべてがくっきり見え過ぎて情報量に疲れたり、貰い物の衣服や道具の感触にいつまでも違和感があったり、王国料理の多種多彩かつ複雑な味付けに振り回されたり、あちらこちらから漂ってくる数多の匂いに辟易したりとかまあいろいろとあるけれども―――――それにしたって聞くつもりがまったくなかった音を普通に拾い上げてしまった時とかもうホントに、その、なんていうか。
「きまずい」
「素直に言っちゃうんだねえ」
ついつい口からこぼれた本音に対するコメントと思しき声は随分と和やかな響きだったが、しかし耳を塞いでいるのにはっきり聞こえてこないでほしい。私の気遣いは私自身の聴力の前では無意味であった。物理でがっつり耳を塞いでおけばいいだろと安易に考えていたが貫通ってどういうことだよと己の無力さを嘆くしかない。いや待てそれもなんかおかしい。力があるのに力がないとかどういうことなの意味が分からない。とりあえず力業で解決出来んかと必死の抵抗で頭蓋骨がみしみしと控えめな悲鳴を上げるレベルで力を込めてみたのだけれどやっぱり音は普通に聞こえたしなんなら内容も聞き取れた。駄目じゃん。
こんなことなら一旦部屋の外に出ていれば良かったと思う―――――と言ってもフローレン嬢と見知らぬ人もといリンゴジャムビスケットのお兄さんを残して音の聞こえないところで待機という選択肢は流石になかった気もするが。
「口を挟ませてもらうとね、あなたが今のを聞いていた、とはフローレンは夢にも思っていないよ。僕しか聞いていない前提だったからあんなにも素直だったんだろう。昔から優秀だったけど、そのぶん弱音の吐き方も吐くタイミングも知らない子だった………友達に聞かれていた、なんて間違いなく憤死ものだから、泣いてるところを見たのも含めて可能な限り知らないふりをする方向で頼めないかな?」
「何の話だ?」
「うん、ありがとう。助かるよ」
意思疎通失敗してるなこれ。
何の話をしてるんだと思ったからストレートに聞いただけなのに、機転を利かせてくれてどうもみたいな雰囲気醸されても困る。それでいい、と言わんばかりの満足感で頷かれましてもたぶん何ひとつよろしくない。
本当の名前すら知らない人の、緩やかに弧を描く口元から吐き出された言葉に含みはなかった。きっと裏も表もない。あるとしたら純粋な感謝であって、その延長には優しさと慈しみに満ちた何かしかない―――――穏やかに自分勝手を極めるビスケットのお兄さんの視線の先には、安らかな顔で眠りに就いているフローレン嬢の姿があった。
彼女のことは、さして知らない。
この“王国”で出会った人々の中ではそれなりに親交を深めた方で、同性の友人は誰かと問われたら真っ先に候補として名前が浮かぶ程度の仲ではあると思う。けれど、私は『フローレン』というこのひとを構成するほとんどを知らない。これまで見て、聞いて来た分の僅かな情報しか持っていない。彼女の十数年分の人生に対してほんの瞬きくらいの時間しか関わり合いになっていない―――――だから、流れた涙の意味も重さも見なかったことにした。たった一筋だけだったから、放っておけば雫も跡もそのうち残さず乾くのだろう。
私はそれに関与しない。する役回りじゃない。たぶん。
「そう。あなたは本当に―――――優しいね、妖精さん」
その間はなんだ。勿体ぶるな。ビスケットさんの言葉そのものは挑発じみていたけれど、声音には非難の色がない。むしろ感心に近い響きを帯びている気さえするそれは、どこか他人事でさえある。というかむしろ他人事なのはこっちなんだがふざけてらっしゃる? と私はめんどくさい気持ちになった。
「いやだからさっきから何の話? 微妙に回りくどくて疲れる。私に何を期待してるんだ」
「フローレンを救ってくれるんじゃないかと勝手に期待しているね」
「そういうことは“北の民”じゃなくて“王子様”に期待しろ」
「違いない」
それはそう、と笑っている彼の表情は穏やかで、少なくとも敵意の類はない。そもそも窓から入室した不審者もとい侵入者の私を目の前にして一般的な対応するどころかごくごく普通に受け入れていたし、フローレン嬢と面識のある“北の民”だと看破した上で攻撃されない範囲まで下がり、かといって逃げ出すわけでもなく敢えてこの場に留まり続けて今もこうして会話している。最初から今この瞬間までも危害を加える気配ゼロ。あちらに敵対の意思はない。
真意なんてものは知る由もないが、たぶんこの人はフローレン嬢をこの場に置いておきたくないのだ―――――まあでもこれは私の勘がそう言ってる気がするだけなので。違うかもしれないから聞いておこう。
「ところでビスケットお兄さん。私たちはこのまま帰っていいのか」
「むしろ早めに帰ってくれないと僕としてはちょっと困るのだけど………もしかして“北の民”は先発で後詰めにお迎えの団体さんが来るとかそういう感じかな?」
「え、なにそれ。私は知らん。フローレンさんにお弁当届けて食べて一緒に帰ってらっしゃい的な遠足計画しか聞いてないけどここで待ってたら迎えとか来るの?」
「来ないと思うよっていうか想像以上に計画ふわっふわだね………? 目的以外詳細は極力伝えない方がいいって理屈なんだろうけれどもすごいな、ざっくり雑過ぎて情報が何も汲み取れない………答えてもらえないのを承知で聞くけど、あなたにこの遠足を提案したのは『王子様』―――――レオニール殿下かい?」
「そうだぞ。トップオブ馬鹿だ」
「ああうん“北の民”の前であってもそのスタイルのままなんだね彼………やっぱり本物は役者が違うな」
「本物の馬鹿ではあると思うぞ」
「だろうねえ。昔からそうだもの―――――ああ、うん。じゃあ大丈夫だ。あなた一人でフローレンを連れて帰還出来ると彼が確信しているのなら僕からの援助は不要だろう。逆に足枷になりかねない………帰れるよね? お嬢さん」
「帰れるよ。お兄さん」
「そう」
良かった、と彼は笑った。ほんの少しだけ目を伏せて安堵の息を吐く様は、身内の安否を気に掛けている優しい人間そのものだった。そこには脚色も嘘もない。そう見えたからそう思った。ただそれだけの単純な話で、実際に私は単純である。
単純だと自覚しているからこそ揺らぎようがない―――――余地がない。
「あなたは何も、聞かないんだね。詳しいことを、なにひとつ」
聞いていないし、聞きもしない。独り言のようなそれ。好奇心と打算と少しの失望が混ざった問い掛けへの返答はすぐ浮かんだので悩まず返した。投擲には割と自信があるので遠くにぶん投げる感覚で。
「当たり前だろ、聞くことないじゃん。必要ない。時間の無駄」
そうと断じて疑わない発言にビスケットの人は絶句した。必要ないってそんな馬鹿な、みたいな顔で言葉を失くしていたがこちらとしては返答を終えたのでもういいですよねの気持ちである。ちょっと沈黙を挟んだ後で、窺うように彼は言った。
「………ええと、少しも? 気にならないの? 面倒事に巻き込まれたならきちんと事情を知る権利があるよ………?」
「権利があろうと行使しないのは私の自由だろほっとけよ」
構わないから構わないでくれ、と示した拒絶に嘘はない。
だって聞いたってどうにもならないことをわざわざ聞いてどうするんだよ。詳細聞いたってたぶん分からんし分かろうと努力する気もないぞ。ていうかこのひと“私”にそういうのを聞かせてどうしてほしいんだろうな。たかが部外者に。どうしろっての?
だってそうじゃん。
考えてもみろ、この“王国”に招かれてからというものいろんな面倒事に巻き込まれては当事者みたいな立ち位置に据えられたけれども最初から最後まで未来永劫“北の民”は外野でしかない部外者だろうが。そこに居たって『居るだけ』の存在にどいつもこいつも期待が重い。この国で生きる気がない人間とはそれ相応の距離を置け。個人的に断言しておくが移住とかそんな決断をする日は一生来ないぞ。賭けてもいい。賭けにならんわと吐き捨てた脳内三白眼の言葉は正しい。脳内三白眼ってなに? わからん。わからんままでいい。
思考は散らかり倒しているが、要約するといい加減にしろ。何も聞かないんだね、じゃないだろ面倒な駆け引きとか止めろ―――――そういうのは“王国民”だけでやれ。
「あと単純に遠足先で面識ない人にめんどくさそうな話を聞かされるのが嫌」
だろうな、と脳内で再生された同意の声の主は三白眼だが現実にあるのは沈黙だけで後に続く言葉はない。なんかさっきからめんどくせえなこのビスケットお兄さん、と思い始めた私の態度は雑になっていく一方だった。フローレン嬢はすやすやしている。そう、すやすやと眠っているので私一人で初対面の大人の相手をしているのである。彼女が寝ているのは別にいいけどこっちに関しては全然良くない―――――待って? フローレン嬢のお知り合いをスルーして勝手に出て行っちゃ駄目なのかなと思って一応会話に応じてるけどもしかして気にせずとも大丈夫なやつ? そうなら助かる。そうだと言って。わかった。理解した。撤収ッ!
「じゃあそういうことで」
興味の持ち合わせがひとかけらもないと察したらしい相手が浮かべる困惑を綺麗にまるっと無視して、帰り支度を整えるべく私は背嚢に手を突っ込む。
荷物の一番奥底にあった薄くとも防寒性に優れた大きな毛布を引っ張り出して、寝息を立てるフローレン嬢の身体をてきぱきと手早く包んで縛って緩みがないかの確認を終えた。この間、僅か二十秒である。余談だがこの布の巻き方は部外秘なので教えられない。なんと言っても故郷で族長から直々に伝授された大荷物(主に狩りの獲物の肉)を外敵に奪われることなく運べることに定評のある鉄壁の護り的なあれなので。まあ仮に包んでるところを見て技術を盗まれたらそれはしょうがない、観察眼すごいなと褒め称えよう―――――ちなみに私は族長の動きを見切るまでに二日を要した。ただ荷物を纏めて包むだけの動作なのにあんなにスピードに特化して動く意味がわからない。教えるならもっとゆっくりと動いてくれればいいだけなのに「なんか遅いと上手く出来ない」とかいうぼんやりした理由で超速を強いられたせいでこの術を知る者は案外少ないのだがぶっちゃけゆっくりやろうとしたら本当に何故か上手くいかないので族長の主張は嘘ではなかった。
「えっ………今………何をどうしてどうやってフローレンをおくるみ状態に………?」
「技術」
「そんな迷いのない目で、ってワァ………食べ終えた後のお弁当のゴミさりげなくきちんと回収してる………この状況下で遠足先を汚して帰らない後片付けの精神がびっくりする程ちゃんとしてる………」
「え、なんで驚かれてんの? だって野外活動で出たゴミは持って帰って処分が基本って三白眼が言ってたし、後片付けして帰るのは人として当たり前じゃない?」
毛布がなくなったスペースに回収したゴミ類を放り込み、忘れ物はないかと確認しながら浮かんだ言葉をそのまま投げる。なにしろ一緒にピクニックしたセスがそう言っていたのだから間違いない。自分たちが持ち込んだゴミだけでなく完食した丸焼き鳥さんの骨や燃え残った薪の残骸や灰まで回収していた彼曰く、来た時よりも綺麗にして帰る心構えが必要とのこと―――――そういえばお魚さんを焼く授業のときも人一倍熱心に片付けやってたな超クソ真面目三白眼、と思いつつ自然環境への配慮を忘れないその姿勢は尊敬に値するの一言なので私も真面目に手伝った。大真面目にゴミの嵩を減らそうとひとまとめに圧縮したところ「分別もクソもなくなったな」とのコメントを頂戴したけれどもゴミ袋のスペースには余裕が出来たので結果的には良しとしよう、パワーはすべてを解決する。
「概ねその通りではあるけど時と場合によるんじゃないかなあ―――――三白眼?」
「知り合い」
「ああ、ベッカロッシ侯子か」
名前は出さなかったのに、目の前の男は答えを当てた。
すべての荷物をおさめた背嚢を背負い直した私の動きがぴたりと不自然に止まる。滑らかに首から上だけを動かして顔を向けた先、真正面。リンゴジャムビスケットはそこにいた。
どうして、とは聞かない。聞く前に喋り出したから。
「なるほど、確かに昔から随分と目付きが鋭い子だった。挨拶程度の交流であれ彼とは面識があるからね。ベッカロッシ侯子と“北の民”の招待学生がまるで年子の兄妹のように仲が良い、とは聞き及んでいたけれども………普段から三白眼呼びなのかい?」
それがどうした―――――と思った言葉が意外な程に口から出ない。お前に何の関係があるのかと湧いた気持ちに目を細めれば、向こうは眦を下げた。
「そうか………聞かない、とあなたは言っていたけど、知らないわけではないんだね」
「何の話だ」
「こちらの話さ」
はぐらかすような物言いで、貼り付いた笑みは嘘臭い。取り繕っていると思った。同時に、こたえる気はないんだな、とも。
「そうか。じゃあもう私たちは行く」
「そうだね。気を付けてお帰り―――――ねえ、友達思いの、妖精の君。これはお節介なのだけど、言いたいことがあるのなら言ってしまった方が良い。僕があなたに相見えるのはこれっきりだと思うから」
戯言を、と吐き捨てるであろうフローレン嬢は夢の中。こたえる必要なんてない。真意を理解出来る気もしない。
「ンなモンねえよ、と思ったけどあったわ―――――人間だっつってんだろが。嫌がらせか? ビスケットお兄さん」
ふわふわの毛布に包まれたフローレン嬢を抱き上げて、言われるまでもなくきっともう二度と会って話す機会はない相手へざっくりと剣呑な声で告げる。自らの不始末でいろんな人々に迷惑をかけた面倒な人。この私からどんな言葉を引き出したいのか分からない。回りくどくて。中途半端で。難解でかなりめんどくさい。わけのわからない類の期待を寄せてくる大人への気遣いその他は遥か彼方へと投げ捨てられる。
「聞きたいことは特にない。言いたいことも、別にない」
聞かなければ分からない。言わなければ伝わらない。それはそうだと同意はするが、聞けば何でも答えてもらえるなんて思い上がりもいいところだろう。私はそこを履き違えない。言いたくないなら言わなくていいし、線を引かれたら詮索しない。だって私は真実を詳らかにしなければ死ぬような奇病持ちでもないのだ。一言で片付けてしまうなら究極的にはどうでもいい―――――そういっためんどくさい諸々を必要としているのは“私”じゃない。
「最初から今も、最後まで―――――“私”は、お前に、用はない」
断絶を最後に、一歩を踏み出す。止められたりはしなかった。部屋の扉を使うなら厄介者の隣を通るが私が目指しているのは窓だ。フローレン嬢を抱えていたって余裕で潜れるサイズで良かった。
二歩目にて、声が掛けられる。
「セス・ベッカロッシのために僕を責め立てるなら今しかないんだよ、お嬢さん」
思わず、といった様子でビスケットの人が紡いだ言葉は真剣だったが私にとっては馬鹿馬鹿し過ぎて思わず声を上げて笑ってしまった。笑い飛ばせてしまえるくらい、何言ってんだで済む台詞―――――足を止める価値もない発言へのコメントは雑でいい。
「なにそれ。アホくさ。するわけないだろ。責められたいなら横着しないでちゃんと本人に直接言え。言いたいことは自分の口で言いたいやつにちゃんと言え―――――あいつは、自分の口で言う」
事情も良く知らん第三者でしかない“北の民”が『セスのために』本人不在で糾弾だの断罪だのするわけないだろ。馬鹿言うな。あいつそういうの嫌いだぞ。心の底から嫌がるぞ。やるなら自分でやるタイプなんだよご存じないのか。ないんだろうな。
当たり前だが私は私で三白眼は三白眼だ。他人である。別の個体だ。言うまでもないことである。
だから人生設計を狂わせたという諸悪の根源をセスに代わってなんやかんやなんてことはしないしやる気もまったくない―――――そもそも出来るわけないだろ。よく考えろ、セスがリンゴジャムビスケットに何を思うかは完全にあいつの自由であって私が代弁者を気取る行為は筋違いでしかないじゃん無いわ。ふざけんな。馬鹿言え馬鹿。ああクソめんどくせえさっさと移動しよ。
なんでこんな至極当然なことをわざわざ言わねばならんのか、みたいな気持ちに襲われて、窓辺に辿り着いた私は嘆息の後に息を吸う。
「正論だね、リューリ・ベル嬢………すまない。申し訳なかった。だけど、せめて、かなうなら、愚かなビスケットが謝っていたと彼に伝えてくれないか。人生を捻じ曲げてすまないと―――――彼に直接詫びる機会は流石にないと思うから」
「知るかよ。全部自分で言え」
首だけで雑に振り向いて吐いた拒絶はにべもなかった。なんで伝言してもらえると思って普通に頼み事してくるの? 前提からしてもうおかしい。止めろ止めろ調停とかならまだしも謝罪に仲介を挟むんじゃないセス相手に人伝で謝ろうとするなんざ厚かましいにも限度があるわ。真剣な口調に秘められたものが誠意か罪悪感かは知らんしどうでもいいけどたったひとつ、これだけは、胸を張って言い切れる―――――ビスケットの人、わかってなさげ。
「ていうかぶっちゃけビスケットの人が今ここで何を言おうがもうセスのやることは変わんないだろ。たとえ不本意でも気が向かなくてもやるしかないならあいつはやるし、押し付けられた面倒事でも絶対に投げたり逃げたりしない。だって負けず嫌いだからな―――――三白眼はそういうやつで、私はそれを良く知ってる」
確信がある。もう知っている。実際にそのとおりの人間だったとの証明は既になされている。だから自信をもってそうだと言えるものがここにある。私個人の主観でしかないがそれでいい。だって十分じゃん。
首だけでなく身体ごと相手に向き直って言う。言いたいことを自分の口で言うために真っ直ぐ前を見て、ただ言いたいから、考えなしに、私は浮かんだ言葉を吐くのだ。
「文句があるなら自分で言うし、売られた喧嘩も自分で買うし、挑まれたら勝つまで止めないし、出来ないままじゃ終わらせないし、不本意だろうが投げ出さないし、嫌だと思っても逃げないし、信念を曲げないし、折れないよ―――――見縊るな。どうしようもなくたって、セスはどうにかするやつだ」
捻じ曲げられた人生であれ、押し付けられた責務であれ、己を曲げない負けず嫌いは尻尾を巻いて逃げたりしない。私が知っている三白眼は少なくともそういう在り方で、だから、そういうやつなのだ。
一方的に人伝で謝罪の言葉を聞かされたところでそれが何になるのだろう。多少なりとも気が晴れるのか、勝手なことをと憤るのかはこちらの想像の域を出ない。それはセスにしか分からない―――――だから、セスではない私は何もしないし出来やしないのだ。
フローレン嬢にそうしたように、詫びるなら会って直接詫びろ。許されたいなら本人に言え。償うなら口先だけでなくきちんと行動して示せ。それをどう受け止めるかはあの三白眼が決めることで、私が入り込む余地はない。出番も役目も、私にはない。
勝手に楽になろうとするな。他人を巻き込むな、付き合わせるな―――――押し付けるなよ。これ以上。
だから“私”は取り合わない。
「さようなら。ごきげんよう」
フローレン嬢を横抱きにしたまま、まるでお貴族様のように、ただの真似事でしかなくともゆっくりと丁寧に礼をひとつ。それを最後に、踵を返した。
言いたいことは何もない。あちらはあちらで沈黙している。雑談に興じる下地も話題もないからそれは当然で、上辺だけの言葉は出尽くしている。
脚力だけで事足りるから、窓を越えるのは簡単だった。フローレン嬢を抱えている関係で両手が塞がっていたとしても、外に出るだけなら支障はない。視界は良好。気力はそこそこ。よっぽど運が悪くなければ余裕で辿り着けるだろう。
だから躊躇わず踏み切って―――――眠れるご令嬢を道連れに、そのまま夜の底へと落ちる。思っていたより高かった。
フローレン嬢がすやすやしててホントに良かったと思う。
***
「………すごいな」
感嘆が素直に口を衝くのをドミニク・アバーエフは止められなかった。ぽつりとこぼれたその独り言は誰にも受け取ってもらえることなく夜風に吹かれて何処かに消えたが、それでも彼が抱いた畏敬がこの世から消え失せることはない。
初めて目にした“北の民”―――――『リューリ・ベル』という一個人は本当にその身ひとつだけを頼りとして窓から飛び降りた。ドミニクの元義妹であったフローレン・ノルンスノゥクを横抱きにしたまま平然と、さながら散歩にでも行くかのようなまるで気負いのない様子で。
姫君を救いに来た妖精が高い塔の天辺から飛び立った、と言えばロマンチックに聞こえるだろうが人外じみて現実離れした美貌を持っているだけで『リューリ・ベル』そのひとは人間である。ドミニクもそれは承知していた。本人は妖精扱いされることを厭っている様子だったから敢えて強調しながら接したが本当に『妖精さん』だとは思っていないし信じていない。“北の民”とて人間だ。身体能力に優れているが、まさか空までは飛べないだろう。
(なのに、眠っているフローレンを抱えて高所から迷わず飛び下りた………下は川だ。流れも早い。深さは分からないが着水の衝撃は着地とさして変わらないと聞く………止めよう。僕がいくら考えたところで『リューリ・ベル』の動きは予測出来ない)
考えるだけ無駄であるなら、せめて“妹”の無事を祈ってドミニクは雑念を振り払い視界を遮るべく目を閉じた。瞼の裏にある暗闇はいつだって穏やかで優しい。浅くなっていた呼吸を正し、深く息を吸って吐く。
(フローレンを無事逃がせたのはいいとして、問題は………後始末かなあ)
目を開けばそこには誰も居ない。自分一人しかいない部屋で、開けっ放しの窓に向き合ってドミニクは僅かに口の端を持ち上げながらくるりと己が身を反転させた。先程までふたりの客人がピクニック気分で寛いでいたベッドに近寄り皺の寄ったシーツを剥いでくるくると手早く丸め込む。勝手知ったる収納スペースから替えのシーツを引っ張り出して、慣れた様子で整えながらも思考は滑らかに回っていた。
(彼女、本当に驚くくらい何も教えられていなかった。引き出せる情報そのものをそもそも持ち合わせてなかった。そう考えると僕との会話を避けていたような気がするのは誰かの指示じゃなく本人の意思かな………あれで無視されなかっただけマシ判定の可能性もあるけど、一番長く喋ってくれた内容はベッカロッシ侯子関連だったし裏で誰がどう動いているのかすらおそらく『リューリ・ベル』は分かっていない。おそらくだけど―――――フローレン救出における全容を把握しているのは図面を引いたであろう“彼”だけ)
ピッ、と伸ばした新品のシーツで武装された真新しいベッドは、まるで誰も踏み荒らしていない新雪の平原のようである。公爵家の後継から降りた後で身に付けた技術ではあるが、我ながら熟練のハウスメイドのようだとドミニクは満足げに頷いた―――――それを教えてくれた最愛は今やもう隣に居ないけれど。
(さて、プリンス・レオニール。彼が本気で動くのであれば結果的に僕の願いも叶うか………頑張っていただきたいところではあるけど、あちらとしても“僕”の介入は想定していないイレギュラーだろう。フローレンの身の安全を人知れず確保していたところで証明出来なければ意味はない。攫われたという事実ひとつが公になるだけで彼女の瑕だ。最低限、誘拐そのものをなかったことにして収める方向で盤面を動かしていくと仮定して………駄目だな、いくつかアイデアは浮かぶが何処から何処までが既定路線なのかこちらには計りようもない―――――だが『フローレン』が此処に居た証拠は消しておくに越したことはない)
脳内でのみひとりごちて、ドミニクは手早く清掃を始めた。ほんの僅かな時間であれ誰かが此処に滞在したのだという物証を確実に潰していく。髪の毛はもちろんパウンドケーキの欠片やパン屑も見逃さない。
つもりではあったのだけれど―――――彼が思っていたよりも、痕跡と呼べるそれらしきものはほとんど残っていなかった。
(杞憂だったかな。そういえば………彼女、どうして人一人包めるサイズの毛布なんてものを持ち込んだんだろう? 薄手だとしても遠足用の持ち物にしては嵩張るし………いや、あの荷物一式を用意したのがレオニール殿下なら最初からそれが必要になるから入れておいたに違いない。リューリ・ベルの様子からしてフローレンのためにわざわざ持って来たもの。あの子が眠ってしまったから毛布で包んでくれたのかと思っていたけど、馬鹿だな僕は―――――あの『フローレン』が人前でああも容易く寝落ちるものか)
次期王妃。公爵家の姫。義理の“妹”だった彼女。記憶の中の女の子は、いつだって完璧を体現している。
次期王妃に相応しいとされるありとあらゆる理想を詰め込み教育されたお姫様は、気を許した友人の前でなら多少砕けた態度を取っても敵地で睡魔に敗北を喫するなんてことはまずあり得ない。そういうふうに、なっている。
(あの子が人前で、あんなに素直に、感情を吐露出来るわけがない………“北の民”の友人に背中を押されたとしても、それだけで自分の内面をこの状況下で“敵”でしかない僕に晒せる筈がない………一服盛られでもしない限りは)
可能性に行き着けば、答えを手繰るのは簡単だった。水は違う。色や味で気取られやすいのもあるが液体は警戒されがちだ。サンドイッチでもないだろう。貴族の女性にはお馴染みでもあるキュウリを使ったサンドイッチはシンプルであるがゆえに誤魔化しがきかない。逆に言ってしまうなら、そのふたつで安心して胃を満たしてしまえば警戒心は僅かに緩む―――――しかも『糧を台無しにするような小細工や混ぜ物を許さない』という“北の民”自ら持って来たものを一緒に食べるのであれば尚更、リューリ・ベルという友人への信頼が飲食物にも適用される。
(食料そのものを台無しにするような薬の類は使えなくても方法がないわけじゃない。要はフローレンを『意識のない』状態に出来ればそれで事足りる話なら………やってくれるね、レオニール殿下。パウンドケーキに仕込んだな)
謎味のパウンドケーキって結局何味なんだろう、と思ったが何のことはない―――――酒だ。それもフローレンが唯一苦手だと自認している醸造酒。実の父親が知らないことでも婚約者の彼なら知っている。
教育の一環として早めに酒の味に慣れろと数ある酒を嗜んだ中で、知名度的にはさして高くないとある地方の透明な酒にのみ彼女は特殊な反応を示した。アルコールには強い性質らしく酔って吐くことこそなかったけれど、それを一口含んだだけでフローレンは睡魔に負けたのである。蒸留酒を飲んでも平然としていたのにその酒には一口で負けた。体質が合わないのかもしれない。透明なのに香り高く、それでいて割と度数も高めで、ほのかに甘い水のような喉が焼け付くその液体を彼女は己の弱点と見做して殊更に気を払っていたが―――――。
(まさか堂々と真正面から焼き菓子に使ってくる? 普通)
リューリ・ベルが謎味と表現したのは単純にその酒の味を彼女が知らなかったからだろう。辺境である“北”の地にアルコール飲料があるかどうかは流石に詳しくないけれど、フローレンが苦手とするあれは王国内でも一部の地域でしか出回っていないマイナーなものだ。“北の民”の未成年に知識があるとは思えない。今まで食べた記憶がないから何の味かわからない謎の味としか表現出来ないと言われてしまえばそれまでである。
ちなみにお酒そのものは成人以上でなければ公には飲めない決まりがあるが焼き菓子などの加工品に使う場合は問題ない。誰も何も罪には問われない、ただフローレンにとってのみ合法的な睡眠薬だったというだけの話ではあるのだけれど。
(そんなものまで用意してフローレンを眠らせる必要が………? いや、あの子の意識がある状態だと『リューリ・ベル』と一緒の帰還に支障を来たすから止むを得ない処置だったとかそういう理由だろうなコレは。でもだとしたら確実にまともなルートを通らない)
窓から入って窓から出て行った時点でほんのり察してはいたのだけれど、蝶よ花よと育てられた貴族令嬢では到底耐えられない過酷なサバイバルレースの気配を感じてドミニクは強めに目を閉じた。スタート地点である高い塔の天辺からフリーフォールで始まる『リューリ・ベル』の単独帰還走路など考えるだけで恐ろしい。だってまず彼女って土地勘が無さそう。道なき道を力任せに突破していくフィジカルモンスターに運搬される元義妹のことを思うとドミニクの胸は締め付けられたし臓腑の内側も若干荒れた。杞憂であって欲しいと思うが記憶の中で明るく振る舞うトップオブ馬鹿と名高い王子様なら勢い任せでこういう計画しれっと立てそうだとも思う。思えてしまうあたりが怖い。こんなことならこっそりと馬車を手配してせめて人里まで送り届けてやれば良かったと後悔したがそんなこと出来る筈がない―――――『ノルンスノゥク公爵令嬢』が此処に来たことなど無いのだから。
「入れ」
コツコツ、と扉を叩く音に意識を引き戻したドミニクは、一拍遅れで誰何を略してただそれだけを口にする。アバーエフ卿としての自分に切り替えながらも手には最初に片付けて丸めたシーツを持ったままだが、彼は慌てたりしなかった。
「失礼します、『アバーエフ卿』―――――ご要望の品をお持ちしました」
滑り込むような所作でするりと入室したターニャは“お客様”がお帰りになったことをわざわざ言葉にしたりはしない。とっくに必要がなくなったと知りながらも丁寧に備蓄用の食料と水を捧げ持つ彼女に労りの視線を遣りながら、ドミニクは小さく頷くことでその献身に謝意を示した。
「すまなかったね。ありがとう………誰かに何か言われたかい?」
「はい、遅くなりましてまことに申し訳ございません。使用人棟を出たところで伝令係に捉まってしまい少々時間を取られました。ご報告いたします。警備主任より『伯爵の実のない長話が終わらず肝心なことが何も決まらないので一刻も早くアバーエフ卿にお越しいただきたい』とのこと―――――よほど伯爵の居るところに一人で戻りたくなかったのか、私と一緒にこの部屋まで付いて来ようとする伝令係を押し留めるのに手間取りましたことをお詫び申し上げます」
「ああ、きみにも同僚たちにもすまないことをしてしまったね。もてなす筈だったお客様を取り上げられた八つ当たりでいつもより話がくどそうだなあとは思っていたけど想像以上か………ちょうどいいや、閣下には好きなだけ囀らせて差し上げよう。お使いから戻ったばかりのところを悪いんだけどね、ターニャ。持って来てくれた食糧はそのまま僕がもらっていくから、きみは追加で夜食を用意して会議室まで届けておくれ―――――そうだな、ついでにお酒も頼むよ。僕の名前であるだけ全部、樽も瓶も出しちゃって」
かしこまりました、と首肯したターニャから食料と水を受け取って、代わりに渡したシーツの処分をついでに頼むことも忘れない。ざっと室内を見回して、開けたままにしていた窓を閉める直前になって初めてドミニクは何気なく“下”を見た。
そこにあるのは暗闇ばかりで、白い妖精も赤毛の義妹も彼の目が捉えることはない。自分に限った話ではなく、誰一人として彼女たちを見付けられはしないだろう。
大人しくこの場に囚われている、と思い込んでいる連中が、夜の底に姿を消したふたりを探すことはない―――――かつて『ノルンスノゥク』の名を一時でも背負ったこの身にかけて、ドミニク・アバーエフが探させない。
(贖罪にすら、なりはしないけど)
悲しませたいわけではなかった。傷付けたいわけでも、もちろんなかった。嫌われるのが一番マシだとの思いは今でも変わらなかったが、それは結局自分にとっての最善でありエゴでしかない。わかっていたつもりではあったが、所詮は『つもり』でしかなかったのだと悔やんでも過去は変えられない。
結果としてすべての後始末を押し付けることになってしまったベッカロッシ侯子への謝罪に至っては本人に直接言わないなら無意味であると“北の民”に一蹴された。己の罪悪感を薄めるための身勝手な行為でしかない、と理解した上で第三者に託した浅はかな願いは例え本人に伝わったところで何の慰めにもならないどころかむしろ負担の類だろう。そうと知りながらそれでもと悪足掻きのように吐き出したのは―――――『フローレン・ノルンスノゥクの義兄』こと愚かな『ビスケット』としてこんなことを口に出来る機会はこれが最後だろうから、という確信があったからだけれど。
(この期に及んでも馬鹿だな、僕は)
閉ざした硝子の向こう側には、静謐な夜が広がっている。夜更けと呼ぶにはまだ早くても、夜明けはきっと遠くない―――――その瞬間を、愚か者という配役のままで待ち焦がれている男はひとり、我知らず、口元だけで笑った。
(あなたのような『馬鹿』ならまだいくらでもやりようがあったでしょうね―――――お願いしますよ、“王子様”)
終わりは近い。予感がある。きっと願いは叶うだろう。
ドミニク・アバーエフは無人の部屋を一顧だにせず後にした。
主人公、びっくりするくらい学園外部の人間と単独で会話する気がない(真顔)
というわけで苦肉の策的なアレで後半部分がいつもと違う感じになっておりますがそれでも読んでくださった読者の方に感謝を申し上げるコーナーです。
各々方、いつもお付き合いありがたく候。そして読んでくださる方はもちろんのこと、その上で評価とか感想とかわざわざくださる方とてもとてもありがとうございます励みになります!
以上、圧倒的感謝とともに次回(更新時期未定←)もよろしくお願いしまァす!




