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第九話 真実と活路(1)

 結局、脱出は叶わなかった。

 結束バンドを破壊し、タイルの密室を抜けたはいいものの、最後の難関である"両面シリンダー"に行く手を阻まれた。

 もう少しだったんだ。もう少しで脱出することができた。

 でも、無理だった。

 僕は仕方なくタイルの密室に戻った。

 ポケットにしまっておいた結束バンドで足を縛る。先ほど吐き出した髪の毛は暗黒の密室の隅に捨てておいた。もしこれが見つかりでもしたら、彼女は烈火のごとく激怒するだろう。箸で目をぶっ刺すキチガイなのだから、ボコボコに殴られて骨折、なんてことにもなりかねない。命の危険もある。僕はビクビクと小動物のように用心している……。

 彼女は破滅的なんだ。自分の思う通りにならなかったら、平気で暴力をふるう。何でも自分の望むとおりになると思っているのだから。その意にそぐわないものは、厳と粛清されるのだ。

 肝要なのは、手を縛っていた結束バンドだった。先ほどの脱出劇のさいに破壊したやつだ。もちろん、ちぎれている。

 時期に"夕ごはん"が運ばれてくるだろう。その時までには何とかしなければならない。もしこれが彼女に見つけられでもしたら、大変なことになる。何とかごまかす手段を考えねば……。

 完全に失敗した脱出劇だったが、収穫が皆無というわけではない。

 第一に、ここがどのような場所であるのはおぼろげに分かったこと。

 第二に、彼女が二重に密室を用意していたこと。

 第三に、僕のいるタイルの部屋は防音加工が施されているということ。

 第四に、両面シリンダーの"鍵"さえあれば脱出できるということ。

 思索を巡らす時間はいくらでもある。とにかく考えなければいけない。知恵を絞れば、何か解決策が思いつくはずだ。一縷の希望も捨てるつもりはない。

 一向に解決の糸口が見つからないのが敗北なのではない。思考を放棄したその時が、真の敗北なのだろう。

 椅子に座し、黙々と考える。

 ここは。

 ここは二重に囲まれている。

 防音室と、暗がりの部屋。

 ふと思ったのだが、暗がりの部屋とは一体なんなのだろう?

 少なくとも、結構な敷地面積を誇ることは確かだ。防音室を自作できるくらいの収納面積。

 ほかにも調査してみたが、防音室以外に物はなかった。四方をベニヤ板に囲まれ、天井は二メートル強。部屋の形状を推察するに、立方体のような気がする。

 まさかその部屋も自作したのだろうか?

 さすがに非現実的か。

 学生にそこまでの経済能力があるようには思えない。

 では、ここはどこなのだろう?

 まず、家とかではない。一般の民家にこれほどのスペースがとれるだろうか? マンションってことは絶対にないだろうし、一軒家でもこれだけの空間を確保できるかどうか……。

 あるいは、地下なのか? 広大な地下空間。施工された防音室は地面の下に設けられているという可能性もある。

 しかし、そうだとすると、生き物の鳴き声や車の排気ガスが聞こえるというのは道理に合わない。やはり、ここは平地に建っているはずだ。

「……自分がどこにいるかもわからないってのが、これほど怖いことなんてね」

 自嘲するようにつぶやいてみるも、状況が変化するわけでもない。

 裸電球が不規則に明滅している。

 指と爪の隙間に針を突き刺すような痛みが、右目を侵している。血はとっくに止まったようだが、かきむしりたくなるような不快感があった。

 僕は肩で呼吸をしつつ、なるべく体を動かさないようにした。安静を保つよう努める。

 まるでうずくまる熊だ。

 涙が出てくるよ。

 憂いに浸っている間でも、聴覚は神経質なまでに稼働している。音を聞きもらさまいとしている。

 忍び寄るような足音。

 解除されるロック。開扉(かいひ)だ。扉の隙間からひんやりとした邪気が這っているような気がした。

 彼女は扉の影からひょこっと顔を出した。重力に従って垂れるクセのない髪。シンプルな黒のヘアピンがアクセントになっている。彼女はイタズラっぽく笑っていた。「遊びに来たよ」

 僕は反応する気力も失せていた。

 天衣無縫(てんいむほう)な様子とは裏腹に、壮大な策謀を秘めている。深甚(しんじん)な謀略を隠している。常軌を逸した仕掛け。彼女は平然とそれを用意していた。

 脱出の折に彼女の訪問がかぶらなくてよかったと思うと同時に、舌打ちしたい気持ちにもなった。タイミングが良いというか、悪いというか……どうやら考えるいとまを与えないつもりらしい。

 とっさに破損した結束バンドを強く握り、後ろに回した。

 僕はまだ、結束バンドの始末を処決していない。

 考える時間が足りなさ過ぎた。

 これも僕の未熟故か……。

 彼女は僕の気も知らず、スキップするように楽しげに肉薄していく。

 手ぶらだ。

 食器の一類はない。

 僕は密かに安堵した。

 まだ"夜ごはん"ではないらしい。

 彼女は瞬時に僕の考えを察したらしい。「ごめんね、夜ごはんはまだなんだ……。もうしばらくしてら、ご馳走してあげるからね。楽しみにしてるんだよ?」と彼女は悲しそうに言った。

 僕はさも残念そうに言った。「そっか……」

「ごめんね、真純君。てっきり夜ごはんだと思ったんでしょ? 変に期待させちゃってごめんね。お腹すいたよね。もうすぐだからね。すぐに食べられるよ」

 よしよしと彼女は僕の頭を撫でた。

 そして彼女は、犬のように舌を垂らした。赤くザラザラした舌。濡れたような唇の隙間から覗くそれは、ひどく卑猥で扇情的に映って見えた。

 ペロっと舌を巻いて口を閉ざした彼女は、僕の首に手を回した。僕の膝の上に座り、目を細めて見下ろしている。

 彼女はややあごを突き出して、薄く唇を開いた。

「真純君、お口開けて」

 その柔らかい口調とは裏腹に、なにやら有無を言わさぬ凄みがあった。ねずみをいたぶる猫が、気まぐれにその尻尾を掴んだり、手でもてあそんだりしているのと似ている。

「今からね、舌入れるからね。真純君のお口に、私の舌入れるからね。とっても気持ちよくなるからね。私と君の柔らかいところが絡み合って、唾液が混ざって、とっても体が熱くなるからね」

 彼女は僕の下顎を指で少し押さえ、口を開けるよう僕に促す。

 彼女は僕に愛撫を加えながら、滑らかな唇を押し当てた。

 まるで僕の感度を高めるかのように、なにやら"心得た"ような愛撫を施した。僕の急所とか弱点を完全に把握しているかのようなんだ。破壊力絶大の快楽。喉が渇いて、頭が真っ白になる。

 もしここが公園のベンチだとか、彼女の自室とかで、相手がまともな女の子だったら、どれだけ興奮するだろう? そしてどれだけ心が安らぐだろう? おそらく僕は好きな女の子とキスをしながらさりげなく、「どうやってベットに誘おう」だとか、「どこまでオッケーなんだろう?」だとか、「最後までしていいのかな」などと胸の膨らむような想像をしているに違いなかった。

 しかしながら、場所は意味不明な密室に、相手は監禁犯と来た。最悪のシチュエーションだ。

 もちろん、好きな女の子とそういう"プレイ"をするっていうのなら喜んでするさ。そういう設定にしておいて、"プレイ"を楽しもうっていうのなら大歓迎。SMチックなプレイを受け入れてくれる女の子なんてそうはいないだけに僕は心躍り、その女の子の寛容さに感激するだろう。

 でも、"本物"はなぁ。

 本物はないよ。

 否応なく押し上げられる肉欲的な興奮と、生命の危機にひんしたときに感じる時との恐怖感が奇妙にブレンドされ、言いようのない胸の高鳴りを与えている。

 誰のものともしれない唾液がポタポタとTシャツの上に落ちている。

「真純君の右目にさ、舌入れたらどうなるんだろうね? そういうプレイって、どっかのネットサイトで見たことあるんだ。ちょっと気持ちわるいよね。でも、ちょっとしてみたいよね? 変な気持ち……気持ち悪いって思ってるのに、してみたいとも思ってる……。ふふふ、真純君はどうかな」

「な、何言ってんだっ、バカ」僕は矢も盾もたまらず抗弁した。「そんな……ッ! そういうのは、頭のおかしい奴がやるもんだっ」

 しかし、雪村薫子が頭のおかしい奴であることは自明の事実でもある。

 僕は慄然とした面持ちになった。彼女なら本気でするんじゃないか、という見通しがある。彼女はそういったことを平然とやってのける。

 だが、彼女は苦笑したようだった。冷や汗を垂らして真顔になっている僕を見て、額を軽く小突く。「なぁーにマジになってんの? するわけないじゃん、そんなこと。気持ち悪いよ。私、そこまで変態じゃないし」

 彼女はクスクスと笑っている。

 とりあえず、安堵すべきなのか? 僕は目を伏せつつも、彼女の挙動を観察する……。

 彼女は非常に楽しそうにしている。先ほどの些細な会話を、とても楽しんでいるかのような雰囲気だ。

 何より、いつの間にか醸成されている、不思議な空気。さながら、僕と彼女が知己の間柄で、かつ親密な仲であることを示唆するような……そんな空気。何やら、そんなぬるいというか、緩んだ空気が流れている。

 不本意。

 あまりに不本意なところだが、どうもこの状態が一番安全だと察する。彼女は今、心身ともに弛緩している。

 これなら……。

 僕は今一度、破損した結束バンドを強く握り締めた。

 一方で、彼女はゾッとするような艶麗な表情を見せていた。見るものを破滅に追いやるような微笑。垂れた涎を指でぬぐい、そっとすくい取る仕草は強烈な情動を抱かせる。なのに、その笑みは邪気がなく、妖艶でいて、逆に清楚でもあった。

 まるで。

 まるで、欲しいものを与えられて喜んでいる子供だ。誰かにねだったり、お願いするだけでなんでも手に入ると信じて疑わないって感じなんだ。幼いような、無垢なような、そんな表情……。

 と。

「真純君。なんか様子が変だね」

 不意に真顔になった彼女は、切り裂くような視線を僕に向けた――。

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