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第八話 突破口(3)

 "サムターン"というものがある。

 和訳すれば"内鍵"。ドアの内側にあり、指でつまんで回転させて施解錠する部品のことだ。民家やホテルなどでよく見ることができるだろう。

 お椀をかぶせたような形状をしていて、中央につまみがある。それを指で九十度回転させれば、扉を開閉することができるのだ。

 そして、住居侵入手段の一つに、"サムターン回し"なる手法がある。

 通常のドアの錠前は、外側から見える部分としては鍵穴しかなく、その内部は複雑な構造をとっている。

 内側のサムターンを回すと解錠できるのは明白なことだが、往々にして住居侵入犯は、郵便受けや扉の隙間を利用して、あるいは扉の一部を破壊するなどして、外側から内側に器具を入れ、サムターンを回すということがある。

 そうした犯罪――"サムターン回し"を防ぐための装置が、両面シリンダーなのだ。

 両面シリンダーには、鍵が二つついている。

 どういうことか。

 これは外側、内側ともに鍵を刺して開けるタイプの鍵穴のことだ。そうすることで、内と外、両方から防犯することができる。鍵を所持していない人間は、出ることも入ることもできないのだ。

 その点、両面シリンダーはサムターン回しを防ぐことができる。鍵がなければ、真っ向から扉を完璧に破壊するしか、侵入の糸口はない。

 また、認知症の老人が徘徊したり、幼い子供が勝手に扉を開けて外に出てしまうのを防ぐこともできる。いちいち、鍵での施錠・開錠が必要になるものの、その有用性は確かなものがある。

 あの女は僕が脱出できないよう、徹底的に対策を立てている。わざわざ両面シリンダーを設けて、鍵を所持しているはずのない僕の侵入を防ぐ意図……。

 鍵がなければ、僕はこの部屋から逃げ失せることはできないだろう。

 最後の難関を前に、魂が抜けるような疲労感が襲ってくる。今になって、全身の痛みがよみがえってきた。

「こうなったらもう、ピッキングしかない……ピッキングなんだ。ピッキングでしか、ここから逃げ出すことができない。でも、道具なんてない。全て、あいつに没収されてしまっている……。どうやったら、ここから抜け出せるのか」

 深く深く思索を巡らせてみても、答えは出ない。

 全身の力が抜けて、どっとこれまでのストレスが吹き出してきた。

「今後の動きを考えなければならない……おそらく、道具や誰かの助け抜きじゃ、とても脱出なんてできやしない。何か、アイテムがないと……。それとも、戦うか? あの女と、雪村薫子と……」

 最悪、彼女から鍵を奪うという選択肢もなくはない。僕は男で、彼女は女なのだから、勝算はあるように思う。

 しかし。

 僕は思い出している。

 倒れた僕を椅子ごと戻した、その記憶を。

 彼女はガラス細工のような見た目に反して、しなやかな筋肉を持っているらしかった。男女の性別差はあまり意味をなさないように思えた。

 何より、僕は確認していたんだ。

 さきほどの情事において、僕はさりげなく彼女の様子に気を配っていた。

 フリルのついたチュニックのシフォンワンピースに、白のフレアスカート、チェック模様のソックス……。そしてポケットには、刃を格納させたフォールディングナイフ……。

 彼女も想定しているのだ。

 万が一僕と戦うことになってもいいように。

 きちんと備えている。

 一応、奇襲することはできる。彼女はまだ、僕が縛られたままだと思っている。その油断をつけば、あるいは。

 でも、武器を持った相手に勝つことはできるのだろうか?

 僕には右目の損傷もあるし、精神的に疲労を蓄積させている。勝ち目があるようには見えない。

 どうせやるなら、必勝だ。

 必ず勝つ勝負しかやらないってのが僕の信条なんだよ。

 ここにいてもどうにもならないと判断し、戻ることにした。

 体を反転させ、暗中模索と洒落込む。

 火に吸い寄せられる蛾のごとく、光の漏れる扉へと引き返す。タイルの部屋。ドアノブに手を伸ばそうとする。

 と。

 僕は改めてタイルの部屋の外壁に目を凝らした。

 手を這わせてみる。

「この感じはどうも……」

 全神経を触覚に集中させて、ペタペタと壁に触ってみた。

 その感触の正体はすぐに分かった。

 石膏ボードだ。

 岩肌のような重量感。ベニヤ板みたいだ。微妙に弾力もある。

 そして、石膏ボードの隙間には、接着剤のようなものがうかがえた。微妙に液が漏れてそのまま固まっている。雑な感じで、いかにも素人がやったって感じだ。プロならこんなミスはしないだろう。どうも、素人が自作してみたらこんなふうになったって感じだ。

 つぅーっと手でなぞってみる。

 頭の中を駆け巡る思考。浮かんでは消える"キーワード"。意味のないように見える事柄に意味を付加していく……。

 そして、閃きはまるで雷のように落ちてきた。密室に隠された彼女の企みが、ちらちらと透けて見えるようになる。

 初めに重要なことは、音の有無。

 タイルの密室と暗黒の密室には、厳然な相違があった。

 それは音が聞こえるかどうかであり、タイルの密室では音は一切合切聞こえず、ひるがえって暗黒の密室の方では、かすかだが音が聞こえるのだ。

 これは何が原因なのか?

 石膏ボードなんだ。パテ塗りされた石膏ボードに意味があった。

「……石膏ボードを作っての、防音……」

 なくはない。

 その可能性も、なくはない。

 防音。

 そういえば、前から気になっていたことがいくつかあった。

 まずタイルの密室の構造。

 床や壁にタイルが貼られていて、天井は斜め。

 傾いた天井……。

「傾いた天井、か……」

 いくつか、思い当たることがある。

 例えばリスニングルームを作成する場合、天井を斜めにすることがあるという。定常波の反射――すなわち、"音"を遮り、軽減させるためだ。

 音は進行波でもある。周期的に変化する"波動"。

 しかし反射した箇所が斜めだった場合、波の反射も変形せざるを得ない。そうして波である音は縮小を余儀なくされるのだ。

 たまに学校の音楽室の天井が傾斜しているものがあるが、おそらくそれは音量の削減に起因しているのだろう。あまりにうるさければ、他の教室に迷惑になるからだ。

 つまり、天井の勾配は思惑あって設けられたものということになる。

 音を遮るため……中に人がいないことを認識させるため。

 内部の音を殺すため。

 次いで、石膏ボードには遮音・吸音効果がある。自宅で防音室を作るさいによく使われる材料で、価格も安い。一枚当たり三百円ほどだと言う。

 おそらく、この石膏ボードにも秘密がある。

 コンコンと石膏ボードをノックしてみると、かすかに違和感がある。かすかな反響。

 一瞬、聞き間違いではないか? と思うような些細な変化ではあったが、何やら妙な反響がするぞ。

 まるで内部に空洞があるのような感触……。

 ……穴か?

 壁を構成するこの石膏ボードには、"穴"が穿たれている。

 その穴の直径はわずか五ミリから一五ミリ程度のものだろう。それをビシッと伸ばした紙に針を突き刺すように、プスプスと穴を開けているのだ。さながらスポンジのごとく、微細ながら穴だらけなのだ。

 そしてこれにも理由がある。

 音が石膏ボード――穿たれた穴を通る時、穴の周りで摩擦が発生する。その摩擦は熱エネルギーに代わり、自動的に音は縮小――吸音される。繊維に含まれている空気が振動し、音が熱に変身し、科学的なエネルギー変換を促すのだ。

 そしてこの構造を効果的に利用するためには、穴あき板の背後に空気層を設けなければならない。そうすることで吸音現象を低音域にまで及ぼすことができるのだ。

 おそらく先ほど感じていた違和感は、"穴"や"空気層"に端を発することなのだろう。中身が一部空っぽなのだから、ノックのさいに微妙にエコーがかかって当然とも言える。

 また、自作もそれほど大変というわけではなく、スタイロフォームやコンパネなどの建材があれば、さほど労せず作ることができるらしい。建築や防音に関する専門的な知識・技術がなくとも、ネットや書籍を頼りに十分作成できるというではないか。

 ドアにはめられたロック機構も、ホームセンターで購入したのだろう。取り付け方というか、ネジのつけかたがやや歪んでいて、変な形になっている。何度か失敗したような痕跡があり、ネジ穴が不自然に広がっていた。これはネジの打ち付けをしくじり、粗めのコンパウンドを潰れたネジにつけ、ドライバーで無理やり回したからだろう。やり口に試行錯誤の跡が見られた。

 すべて自作。

 自作の防音室。

 彼女は僕を確実に監禁し続けるために、このような大がかりな部屋を製したのだろう。

 僕に猿轡(さるぐつわ)をはめなかったのも納得がいく。

 必要なかったんだ。猿轡なんて。だって音が外部に漏れないのだから。

 なんということだ。もしそうだとしたら、彼女は本気だ。

 本気で僕を監禁し続けるつもりなんだ。

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