第六話 突破口(1)
彼女に抱擁されて、名状しがたい嫌悪感を抱く。
僕の涙を指でぬぐった彼女は、気持ち悪いくらいキレイな笑顔を見せた。「もう泣き止んだ。真純くんはいい子だね」
何をどうこうするとかいう気力はとっくに失せていて、彼女のされるがままになっていた。ただ皮膚の上を涙がつたっていくだけだ。
涙は血の赤を吸って、得体の知れないものとなっていた。僕はそれをとても気持ち悪いと思った。自分の一部だというそれを、今すぐにでも振り払って熱いシャワーを浴びたいと思った。
僕の血のついた箸をポッキーのように舐めずりながら、彼女は僕のシャツをめくった。露出した腹部を触り始める。「今この中に、私の一部が入ってるんだよね。それは素敵なことだよ。真純君もそう思うよね?」
首を縦に振ると、彼女は満足そうにした。
「それでさ、のちのち真純くんに必要になるもの、持ってきたんだよ」
そう言って取り出したのは、ステンレス製のボウルだった。
「んだよ……それ」
「真純君のズボンさ、悪いけど切り取ったんだよね。でも、しょうがないよね。必要なことだもん。切り取るってことは、真純君が必要なことなんだから」
「だからさ、何がだよ――ッ!」
「あー、それ、女の子に言わせるんだ……。真純君ってそういう人だったっけ? でも、気付いてないみたいだし、言ったほうがいいのかな? でも、恥ずかしいなぁ。言うの」
いい加減面倒くさいと思うようになったその頃、ふいにあることに気づく。
下半身の奇妙な感覚。すーすーするんだ。
これまで混乱やらなんやらで気付かなかったことがある。
このズボン、風通しがやけによくないか?
「できればトイレを設置してあげたかったんだけどさ、そういうのは無理なんだ。もちろん資金的には可能かもしれないけど、トイレを設けるってことは、手足の拘束がないってことだからさ。自由にしたら真純君、逃げるでしょ? 逃げるのはダメだよね。未然に防いでおかないと。だから、羞恥心に蓋をして、切り取ったの。真純君のズボンの、お尻のところを」
あーなるほどね。
唐突に理解する。
彼女は椅子の真下にボウルを置いた。ということは、椅子にも穴が開いているということなのか。
「これで、"してね"」
彼女は控えめに笑ってみせた。
「ちょっ、待てよッ!」思わず声が出てしまう。
「一日一回、責任もって私が後処理するから。臭いがきつくなったら、これに何とかしてもらいましょう」と彼女はいつの間にやら、部屋置き用の消臭剤を用意していた。床に置く。配膳用のトレイを持った彼女は踵を返した。「それじゃ。また来るね」
「まっ、待てッ! "大"はいいかもしんねーけど、"小"はどうすんだよ! このままじゃ、たっ、垂れ流しじゃないか!」
彼女は申し訳なさそうに、両手を合わせてみせた。口パクで、「ごめんね」といっているのがわかった。
無情に閉じる扉。
残ったのは消臭剤とステンレス製のボウル、そして無気力状態の人間だけだった。
*
再び、気味の悪い静寂。
朝なのか、昼なのか、夜なのか。
心にポッカリと大穴が開いたような気分だった。
ある意味、金目的の拉致監禁よりもタチが悪い。
彼女は無邪気なんだ。これが悪いこととは思っていない。幼い子供がバッタの足をむしって喜ぶような、無垢な邪悪さがある。純然たる悪意。雪村薫子は根本的な何かを欠損させていた。
だから、自由を奪ったり、目を潰したり、髪の毛を食わせたりできるんだ。
異常者。
雪村薫子は異常者。
あぁ……もうダメだ。ここから逃げることはできない。拘束されている。食事も排泄も、彼女に支配されている。僕はこれから、髪の毛入りの飯を食べ、糞尿を垂れ流すという屈辱を受けなければならないのか。
鋭器による右目の刺創。今すぐにでも適切な治療を受けなければ、眼球は使い物にならなくなってしまうだろう。
もっとも考えられる症状は、穿孔性外傷。
それは目の中で起きやすい瑕疵。一刻も早く感染予防を行わなければ、硝子体出血や硝子体混濁などを通じて、眼内組織は壊滅的な打撃を受けるだろう。失明の危険性も十分にある。迅速な処置が必要なんだ。
でもできない。
させるつもりもないのだろう。
右目の光を失うことは避けられない。
なんだよ、僕の人生は、こんなところで終わってしまうのか……。
なんて。
「なーんて言うと思ったかッ!」
僕は盛大に喚き散らした。ヒステリックな高笑いを放つ。
――彼女の準備は完璧だった。
気密性の高い密室を用意。結束バンドにて何重にも体を縛り付け、動きを封じる。次いで、手作りの料理を用意しているときた。万全の備えが施されている。
料理は暖かかった。おそらく、近くにキッチンがあって、そこで調理しているのだろう。あるいは、電気が引いてあって電子レンジ等で温めているのか……。どちらにせよ、尋常のことではない。
ここまでの環境を整えた意気込みだけは買ってやる。
しかし……。
雪村薫子は唯一にして決定的なミスを犯した。
「僕はね、その気になればここから簡単に脱出できるんだよバーカ!」
それは――僕を縛る"結束バンド"にある。
この結束バンド、一見して外すことは容易ではないと看取される。事実、一度装着されれば、手が自由でもない限り、取り外しは困難を極めるだろう。バンドに歯状の模様がついているため、一度ロックを通過したら、外すことはできないのだ。
されど、これには盲点がある。
力技ではとても外すことができそうにないように見える。
でも……。
「そらッ!」
僕は両手を縛る結束バンドを、背中に叩きつけた。
着席した状態のため、威力は削がれてはいる。しかし、この感触なら……。
諦めず、何度も何度も叩きつける。
そして、その瞬間は実に早く訪れた。
打ち付けた結束バンドが、勢いで弾け飛んだのだ。残骸が四方に飛び散っている。
勝ち取った自由。
僕は両の手のひらを前に出した。
手首には赤い縄状のあとがあった。きつく縛ったつもりなのだろう。指先に感覚がないあたり、血の巡りも悪くなっていたはずだった。
僕は無性に笑いたくなった。
「バスジャックやテロ、強盗なんかに使われる結束バンド……取り外しが難しそうに見えるこの道具も、力技で叩きつければ、あっけなく取れるんだよ」
結束バンドの材質はおそらく、プロピレンを重合させたポリプロピレンだろう。合成樹脂――いわゆるプラスチックの一種だ。
ポリプロピレンは硬いが、金属に比べて柔かく、外から力が加わると変形する。この変形が衝撃の吸収に役立つのだ。金属の場合は変形が大きいと割れてしまうが、プラスチックは持ち前の"柔らかさ"で割れない。
この割れ始める変形の割合のことを、"強度"と呼称するのだが、プラスチックはこの値が異様に大きいのだ。金属は数パーセント以下と比してみるに、大きいものでは数百パーセントのものもある。この数値が大きければ大きいほど割れにくいのだ。プラスチックはしなやかさの点において、金属をはるかに凌駕する……。
しかしながら、極めて短時間に大きな力がかかるとそうはいかない。瞬間的に大きな力を受けると、物体の"強度"の値は極度に小さくなる傾向があるのだ。
つまり、継続的に力を受ける場合にはプラスチックの方に分があるが、瞬間的に大きな力がかかると、プラスチックはあっけなく破損してしまう。
高いところから落としてみたり、ナイフのような鋭器の突起がぶつかるだけで、プラスチックは――割れる。
だから、意外にも、こうした力技が功を奏するのだ。
雪村薫子はプラスチックに関する理解が致命的に欠けていた。
それが命取り。
そして足の結束バンドも解除。今度は簡単だ。手でとっちまえばいいんだから。
僕は椅子から立ち上がった。
ただそれだけのことなのに、ひどく感動的だ。ドラマのワンシーンのような錯覚すらある。
長時間同じ態勢を取っていたからなのか、バキバキと骨の鳴る音がした。
「んなことよりも、早く吐き出さないと」
僕はのどに手を当てて、げーげー吐いた。
吐瀉物の中には唾液や胃液に混じって、あの髪の毛も混じっていた。
てっきり、彼女はのどの動きで嚥下したと思ったようだが、奥の歯のスペースに髪の毛を閉じ込めていた。飲み込んだわけではない。喉を隆起させたのは、単なる演技。
こんなもの飲み込めるか。
床に吐き散らかされたそれは、泥混じりの汚物のようでもあった。
「……にしてもすげぇ量だ。こうして見てみると、また吐き気がしてくる」
僕は吐瀉物のほうを見ないようにした。
気を取り直してお尻のほうを触ってみるとなるほど、布地が切り取られている。おしりが丸出しだ。このまま脱糞しろってことなのだろう。やつは人権をなんだと思っているのか。
考えてみるとムカムカしてきた。理不尽な仕打ち。僕はあの女を出し抜いてやらないと気が済まない。病院に向かうことよりも優先したいと思ったほどだ。
でなければ気が晴れない。
「この部屋から脱出して、目に物言わせてやろうじゃないか」
負傷した右目を押さえつつ、扉のほうにまで歩み寄る。果てしなく遠いと思われていた距離は、たったの数歩で届く程度の遠さだった。
扉にはノック機構が取り付けられている。
この機構の構造は簡単だ。ノブを押すとノックがかかり、また押すと解除される仕組みなのだろう。彼女の出入りの様子は抜け目なく確認している……。
さしずめ、構造としてはノック式のボールペンに近い。一度押せば芯が出て、また押せば芯が引っ込む。このロック機構も、ノック式を採用しているらしかった。
扉に耳を当ててみても、足音なんかは聞こえない。無音だ。不自然なほど、何も聞こえない。
ちょっと引っかかるものはあるが、ともかく、脱出しなければならない。
ノブを押した。
ゆっくりと開く。
隙間から光は差し込まない。
ちょっとしたら、ここは地下室なのか?
どこかそんな予感があった。
しかし、その予想がまったくもって誤っていることを、僕は身をもって知ることになる。
この状況は、僕の想像をはるかに超えていた――。
結束バンドの件は、作者自らが実験台となりました。




