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第五話 彼女の愛(3)

 眼球が熱い。火のついたマッチを眼窩(がんか)に入れられているみたいだ。とても気持ち悪い。針で突き刺すような痛みがキリキリと広がっていく。万力だ。ベンチで指を挟んで、思い切り捻られたかのようだ。

 異物の侵入。細長い箸が僕の瞳孔を、水晶体を、垂直に貫いている。

 穿通(せんつう)したのは、右目の方だった。

 彼女は無表情を保っていた。何も感じていないようだった。

 すると、唇の端が神経質に痙攣した。

「ううう、うまいって言え。おおお、おいしいって言え。愛情込めて作ったんだ……! 私の愛をいっぱい入れたんだ。おいしくないなんて嘘だ。きちんと最後までたっ、食べろよ。人として当然だろ?」

「あっ、あっ、あっ」

 口から泡を吐いた僕を見ても、彼女は無表情のままだった。情緒や感情が欠落している。氷。

 グリグリと、ドライバーを回すように、箸を動かす。そのたびに深く、激痛を携えて、入り込んでくる……。そのまま眼窩を通り越え、眼球壁を紙のように突き破り、神経にまで至ってしまいそうだ。脳髄を貫く異物――。

「いっ、(イダ)ッ! (イダ)いッ! やや、やめて……それ以上……」

「女の子はさ、愛する人のために頑張って仕込みをするんだよね。お肉は塩コショウにナツメグをふりかけて、蜂蜜をまぶし、ウイスキーを小さじ一杯振りかけるの。下味をつけたお肉をジップロックに入れて冷蔵庫に保存。四日間寝かしたら、今度は塩抜きしなくちゃいけない。野菜だってピーラーでニンジンの皮を取らなきゃいけないし、ピーマンは一個一個種を取らないといけない。卵焼きだって砂糖、味醂、白だしを入れないといけないし、さじ加減を誤ったら硬くなったり、形が変になったりするの。私、頑張って作ったんだよ。頑張って作ったのに、吐き出すなんてヒドイよ。そんなにマズかったのかな。髪の毛がダメなの? 髪の毛が一番、おいしいのに……私の体の一部の、髪の毛……」

 独白していくうちに彼女は泣き出してしまった。さめざめと紅涙(こうるい)を絞っている。世界に見捨てられでもしたかのような表情だ。

 ネバネバした汁が漏れている。

 それが額をつたり、頬をつたり、首筋をつたり、Tシャツに染み込んでいく。

 ――血。

 パニックになった僕は四肢を振り乱しそうになったが、手足を拘束されているため、動かすことができない。それが逆に奏功した。下手に動けば、傷は悪化する。まだ箸は刺さったままなのだ。

「とっ、とってッ。箸ッ、とってぇッ!」

「おいしいって言ってくれたらいいよ」

 一転、あっけらかんとした笑顔。

 涙を拭いた彼女は、気を取り直したように料理の皿に手を伸ばした。箸を持っていない手で何かをかき集める動作をする。それを片目だけで視認。当然、箸を持った手は不動だ。

 かき集められたものは、おびただしい量の髪の毛だった。テラテラと光沢を放っている。

 排水口に溜まっている髪の毛みたいだ。

 気持ち悪い。

「あーん」

 と。

「あ?」

「だから、あーんだってば」

 指でつまんでいる。彼女の白魚のような指。挟まれているのは、ぬるぬるとうごめく髪の毛だった。

 僕が尻込みしていると、「食べてくれるんでしょ?」と冷たい目をした彼女が迫ってきた。

「こここッ、これをッ、食えって……」

「おいしいって言ってくれるんでしょ? 約束が違うよね。私、嘘言う人はキライかな……」

「わっ、わかったからッ。わかったからッ! それ以上、僕の目を……傷つけないで……」

「それじゃ、もぐもぐしましょーねー」

 おずおずと口を開けた僕に対して、彼女は指ごと突っ込んだ。おえっと咽頭(いんとう)に異物感がした。

 指を取り出す。

 唾液まみれの指を見て、彼女はニコッと笑った。そのまま口にくわえて、赤ん坊みたいにちゅーちゅーする。

 一方、彼女の頭髪は甘辛い味がした。酢豚のタレだ。砂を噛むような感じがする。ジャリジャリと歯と歯がすり合っている。

「きちんとね、カミカミするんだよ? 味わって食べてね。私の味だよ。おいしいかな。カミカミしたら、きちんとゴックンするんだよ」

 彼女は天衣無縫に笑ってみせた。

 壮絶な嘔吐感。

 全身を拘束され、右目に箸をぶっ刺されたまま、髪の毛を咀嚼(そしゃく)するという異常事態。 

 眼前には一人の少女。大人びた容色を持つ彼女は、男を惑わすような危うい肉体を持っている……。

 僕がひきつった笑顔を浮かべながらのどを隆起させると、彼女は心底嬉しそうにした。幸福に満たされているって感じなんだ。頬を紅潮させて、満面の笑みを浮かべている。

「これで、いいんだろ。は、箸を……」

「気が変わった」

「え?」

 衝撃は一瞬。

 むりやり口をこじ開けられて、何かを入れられる。そして封をするように開けた口を閉ざされた。

「卵焼きさ、私の得意料理なんだよね。おいしい?」

 言外に、噛めと命令されたような気がした。背筋の凍るような視線が、僕を責めさいなむ。

 歯を上下させると、なるほど、卵焼きだった。卵のふんわりとした感覚。

 なんだ、おいしいじゃないか、と思ったのが間違い。

 またもやこみ上げてくる嘔吐感。

 慌てて卵焼きの乗っている皿に目を向ける。

 普通の卵焼きに見えるものの、注視すればなかに大量の髪の毛が混ざり込んでいるのが観察された。

 おそらく卵で髪の毛を閉じ込めたのだろう。

 初めのひと噛みはよかったものの、次に押し寄せてくるものは、残飯のようなそれだった。

 思わず口を押さえたくなるも、手を拘束されているため、それもままならない。

 彼女は不思議そうに首をかしげている。

 我慢、我慢……。

 執念で卵焼きを飲み干した僕は、表情筋で笑顔を作成して、述べた。「おいしかったよ。うん、とっても、おいしい……。卵のふわふわな感じに、髪の毛のアクセントがきいてるっていうか……もはや卵ではなく、髪の毛が主役みたいなとこあったよね」

「……本当? そんなにおいしかった?」

「でも、もうお腹いっぱい。君の愛で満たされちゃったよ、ははッ」

 我ながら、なんて乾いた笑い声。

 しかし彼女は感極まったように一筋、涙をこぼした。「よかった……。真純君のお口にあって、よかった……私、とっても嬉しいな。私の愛が届いたんだね」

「届いたけど、これ以上、届けたら……僕がパンクしちゃうよ」

「それもそうか」

 すると、彼女は宣告も注意もなく、いきなり箸を引っこ抜いた。

 爪を一気に剥がされるような激痛がして、心臓が破裂しそうになった。体中をかきむしりたくなるような衝動に駆られる。

 幸いなことに、箸に眼球が突き刺さっている、なんてことにはなっていなかった。ドロドロの血がしたたっているだけだ。

 ……このキチガイ女。

 僕の苦悶の表情に対して、彼女は申し訳なさそうにした。「ごめんね。これも、私からの愛なの。真純君は私への愛を証明した……。これ以上愛を届けたら、真純君パンクしちゃうんでしょ? それはダメだよね。私も真純君にいなくなって欲しくないもん。でもさ、パンクするってどんな感じなのかな? 空気を入れすぎたタイヤが破裂するみたいな感じ……? 人間だったらどうなるんだろ? 人間の口から空気を入れ続けたら、いつか肉片が飛び散って、四散するのかな。後片付けが大変そうだよね。でも、ちょっと見てみたいかも」

「…………」

「じょ、冗談だよ。そんなことするわけないじゃん。私、誰よりも真純くんの大切に思ってるんだもん。そんなひどいことしないよ。当たり前じゃん」

 右目に壮絶な痛みがあるというのに、手を伸ばすことができない。垂れ流しのまま血が、唇を通って口の中に入ってきても、何もできることがない。早く治療しなければと思うのに、どうすることもできない。

 本来なら右目が担当するはずの視野が、消失している。疼痛(とうつう)をともなう視覚障害。右目が見えなくなっている。

「……なんで泣いてるの?」

 心配そうに僕を覗き込む彼女。

 彼女は何を勘違いしたのか、ポンポンと僕の肩を叩いた。

 両手を首に回して、優しく僕を抱きしめる。

 彼女は子守唄を歌うように言った。

「大丈夫だよ。私が守ってあげるからね。何も心配しなくていいんだよ? 真純君は私に養われてるだけでいいの。ずっと一緒だよ。約束だからね」


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