第四話 彼女の愛(2)
ささやかれる言葉は魔性。人を欺き、惑わせ、狂わせる、悪魔の一言。鼓膜を通り、脳髄に染み渡っていく。
耽溺していくんだ。正常な思考は失せ、壊れたテープレコーダーのように猥雑と思考や言葉が垂れ流しになっていく。押し寄せる快楽は強烈で、閃光のように炸裂している。
倒錯的なプレイだ。彼女は身動きの取れない僕に対して、変態じみた行為に走っている。SMとでも言えばいいのだろうか。彼女の笑顔は、牙をむき出しにするような獣性をまとっている……。
口の周りは唾液でベタベタになり、舐められた首筋や鎖骨は発赤したように変色していた。強く噛まれたからだろう。歯型がついている。犬のように盛った彼女が、愛撫を強くしたのだ。
「私が君の体に刻まれたね。嬉しいな。君は私のものだよ。絶対手放さないから」
馬乗りの体勢になった彼女は、扇情的にスカートの裾を手に持って、ひらひらとさせた。淫奔。彼女は羞恥のような、興奮のような表情を浮かべている。露出した太ももがひどく、エロティックだった。
「真純君、目が泳いでるよ……。か、かわいいよぉ。そんな仕草、しないでよぉ。かわいくて、かわいくて……私、もだえそうだよぉ。もうちょっとだからね。もうちょっとで、私の大切なところ、見えるからね……こういうの、わくわくするよね。変態チックで、興奮するよね。真純君も、高ぶってきたぁ?」
「あ、あ、あ」
まるで。
まるで、蝶々のようだった。踊っている。彼女のスカートが頼りなく揺れている。垣間見える健康的な肌が情欲を掻き立てる。口の中が渇いてしょうがない。
欲しているのだろうか。
こんな状況だというのに、逆にムラムラと熱がこもっていくのが分かるんだ。
そういえば。
人は生命の危機に直面した時、急激に性的欲求が高まるという。次世代に子孫を残そうとする本能。アクション物の主人公とヒロインが恋に落ちやすいというのは、ここから来てるんじゃないだろうか。
「女の子はさ、ただ『可愛い』って言われるだけじゃ満足しないんだよね。かといって、『優しい』ってだけ言っても、満足しないんだよね。これは別に、女の子がわがままなんじゃないんだよ? 女の子は、『可愛い』も『優しい』も欲しいんだよ。パートナーに、人として愛されたくて、同時にモノ的な意味でも愛でられたいんだと思う。ただ単純に、『可愛い』って身体的な要素を褒めても、『優しい』って内面だけを褒めてもダメなんだよ。両方なんだ。真純君はさ、私に『可愛い』って言ってくれる? 『優しい』って言ってくれる? 私を人として、モノとして、愛してくれる? 愛してくれるなら、私の大切なとこ、見せてあげてもいいよ」
「鎮めなきゃ……気を、鎮めなきゃ。気が変になりそうだ。頭が、割れて、脳汁が、出る。グチャグチャだ」
「それ、私が鎮めてあげようか? 真純君、ムラムラしてるんだよね? 私とエッチなことして性欲が湧き上がってきたんでしょ? だったらさ、私が解消してあげよっか?」彼女は艶麗な舌なめずりをした。
彼女は、僕が強く睨むとひどく悲しそうな表情をした。哀れみのような、同情のような、そんな視線。
「そういえば、真純君。お腹すいたでしょ? 今ご飯持ってくるからね。私の手作りなんだよ。おいしい"昼ごはん"」
彼女は逃げるように部屋から出た。扉のノブを押し、退室する。
一転、部屋の中は静寂に包まれた。
そうしていくと、自分の荒い呼吸のみが聞こえてくるようになる。手負いの獣の呼吸音のようでもあった。
"昼ごはん"、ね。
僕は凝然と扉の方を見つめている。
この部屋には時計がないため、時刻を知ることはできない。また、事前に僕の私物は取り上げているらしかった。普段ならポケットに財布やら携帯電話やらを入れているのだが、それがない。手を使わずとも、ポケットの膨らみでわかる。それらは彼女が預かっているのだろう。
ポケットを確認するさい、ズボンに違和感を覚えたものの、思考を再開する。
外部と連絡の取れる道具、あるいは脱出に利する道具はこの部屋にはない。何もない。調度もベットも、何もない。あるのは椅子だけだ。
一刻も早く脱出したいと思う。警察は期待できない。普通ならば家族なりなんなりが捜索届を出すのだろうが、僕の場合はそうはいかない。僕は上京して、一人暮らしをしているからだ。そうした、外部からの働きかけには一縷の希望もない。次いで、ここは人気のない場所なのは確実である。
となると、自分の力で脱出するしかないじゃないか。
このまま行けば、僕は彼女の道具とされてしまうだろう。それはそれで官能的で、キスも気持ちよすぎて死にそうだったけど、とにかく脱出しなければならない。誰かに自己の命脈を握られているというのは不愉快だ。僕はとてもイライラしている。
そもそもその監禁はいつまで続くのだろうか。夏休み中やるつもりなのだろうか。二学期が始まったから、彼女は僕をどうするつもりなのだろうか。同じクラスの二人が学校を休み続けるとなると、相当の騒ぎになるに違いない。垣間見える事件性。そうして不審に思った誰かが警察に通報すれば、もはやどうにもならない。捕まるだろう。
彼女の心中には、何があるのか?
衝動的な犯行に過ぎないのか。
にしては準備が用意周到な気もするが……。
「お待たせー」
と。
扉の開く音。
相変わらず扉の奥から光は差しておらず、真っ暗だ。
"昼ごはん"。
何か、悪意にまみれた作為を感じる。川の石をめくってみたら、表面にびっしりと虫が引っ付いていたかのような嫌悪感。
トレイを床に置き、正座をする彼女。蒸気のようなものが立ち上っていて、とてもいい匂いがする。
「今日はねー、酢豚に卵焼きを作ってみましたー。とってもおいしいよ。いただきますしよっか」
「その前にさ、姿勢だろ。僕は倒れているんだ。起こしてくれないと、うまく食べられないよ」
「倒れたのは自分のせいなのにね」彼女は皮肉るような口調で言っている。「でも、確かに食べにくいよね。そういうの分かるよ」
うんしょと彼女は正座を解き、やおら起き上がった。
僕は彼女の意図を図りかねた。
どうするつもりなんだ?
「それじゃ、行くよ」
後ろから声がする。
「よっと」
という声と同時に、体が宙に浮いたような実感があった。しばしの無重力。体感する。
そして僕は元の位置に戻っていた。
「え?」
一驚を喫した僕は、首を巡らせて彼女を見た。
九十度、移動させたのか。
彼女は照れ笑いのような表情をしている。「私、体鍛えてるんだよね。だからこれくらい、ちょちょいのちょいなんだ」
見た感じ、彼女はガラス細工のように華奢だった。しかしながら、その筋肉繊維は束ねられたワイヤーのような強靭さを誇っているらしい。
「これでいただきますできるね。美味しいんだよ? 私の愛情いっぱいの、お料理……。ほっぺたが落ちちゃうかもね」
再び正座になった彼女は、箸置きから箸を手にとった。そして、酢豚だ。肉やピーマン、玉ねぎなどが亜麻色に炒められている。その一群に箸を突っ込んで、ぐちゅぐちゅとかき混ぜた。
「あーん」
肉を挟んだ箸が接近している。
監禁犯の出す食べ物を口にしていいのか? といった疑問が脳裏をかすめたが、かと言って食べないという選択肢はありえない。僕はこんなところで餓死したくはない。
何より、彼女の目が怖い。獰猛な肉食動物のようだ。仮面なんだ。純粋無垢に見えるその顔も、一皮めくってみれば汚らしい蛆虫がたかっている。
恐る恐る、口に入れた。
ジャリ、とした感触……。
と。
「うぅッ」
僕はたまらなくなって、口から吐き出した。正座した彼女の脚部に、出来損ないの肉塊がべちゃと落ちた。
その肉塊には、ところどころ髪の毛が混ざっている。先ほどの砂を噛むような感覚も、吐き気を催す感覚も、混入した髪の毛が原因のようだった。
よくよく見てみればそうだ。酢豚や卵焼きにいくらか髪の毛が入っているのがわかった。
僕は口元を手で押さえたい衝動に駆られる。でも、それはできない。拘束されている。僕はただ、口内に残る苦味に耐えるしかない。
彼女はわなわなと震えている。視線は膝の上の肉塊に固定されている。
「あっ、これはっ」
僕は急いで言い訳の言葉を作成しようとする。僕はなにかとんでもないことをやらかしてしまったという思いが、雷のように体を貫いた。
彼女は凍結したように動かない。
僕は顔面が蒼白になった。
おずおずと見守る。
……大丈夫だろうか。
と。
「ああぁぁぁあぁあああぁぁ……!」
彼女は狂ったような大声を上げて、箸を僕の目に突き刺した。




