エピローグ とある夏の日の出来事
結局、右目はダメだった。無理もない話だ。あれだけ放置したんだから、腐って当然なのだろう。
清潔なシートとベット。四方な潔癖症を連想させるような白の壁。
僕はベットに横たわりながら、窓の外の風景を眺めていた。
目の検査と治療を受けた僕は、市内の総合病院に入院していた。そこで僕は、海賊よろしく眼帯をはめ、療養していた。貴重な夏休みを潰すという暴挙だ。
怪我は何も右目だけではなく、頭には包帯がぐるぐる巻きにされてある。そして何より、軽度の鬱にかかっているというのが驚きだった。監禁のショックか何かで、心をやられてしまったらしい。
でも、心のどこかで、「そうなんだろうな」とは思っていた。疲労とかめまいとか肩こりとか、なんかそういうのが多いなとは思っていたんだ。
僕は心身ともにズタボロになりながらも、治療を受けるハメになった。
病室には僕のほかに、頭のボケた老人が一人と、いかにもアル中って感じの中年が一人。看護師さんはきりきり舞いって感じで、忙しく立ち働いている。僕はその様子を、ぼんやりと眺めていた。
こういう時に限って、家族に会いたくなる。
一人暮らしがしたくて、親に無理言って上京したっていうのにこのざま。
女の子一人にはめられて、これだけの深手を負わされるんだから、僕もこの程度の器なんだろうなと思った。
一週間もすれば退院できるらしい。
もちろん、退院後も薬を飲まなきゃいけないし、定期検診もある。
最悪の夏休みだ。
「でも、長い人生なんだ。たまにはこういう日もあるわな」
僕は棚にしまっていた一冊の本を取り出した。スティーヴン・キング著の"シャイニング"だ。
しおりを取って、続きを講読する。
たまたま病院の図書館にあって、借りてきたんだ。
そうして窓から吹きこぼれる夏の風を感じながら、僕は静かな時を過ごす……。
と。
にわかに吹き荒れる強風。バタバタとシーツをはためかせ、髪の毛をさらっていく。
僕はたまらなくなって、目をつぶってやり過ごすことにした。
強風を止むと同時に目を開ける。
そこには信じられないものがあった。
ガーリーなホワイトのブラウスに、ガジュアルデニムのショートパンツ。艶やかな黒髪を彩る白のリボンは可憐で、微風にたなびく髪は涼しげだった。
手元にはリンゴの入ったバケット。
「調子どう?」
雪村薫子は世間話をするような気軽さで、そんなことを言った。
「お、おまえ……なんで?」
「なんでも何も、私が病人のお見舞いに来るのは変なことかなぁ?」
そう言いながら、バケットを棚の上に置き、薫子は壁に立てかけてあるパイプ椅子を組み立てる。そして、ポケットから果物ナイフを取り出した。
「で、でも……え? おかしいな……。ちゃんと通報したはずだってのに」
「それは見当違いの疑問って感じかな」薫子はリンゴにシュルシュルと刃を入れながら、「前にも言ったけど、私のお母さんってその道の権威っていうか、とにかくメチャクチャ名が売れてて、すごい人なんだよ。裏にも人脈が広がってる。そして、私のお母さんは即物的なものでしか、愛情を表現できない不器用な人……。きっとさ、手を回したんだと思うんだ。手練手管。そういったことしか私に恩恵を与えられないって思ってる。だから、罪をもみ消すくらい、わけないんだよ」
僕が絶句している間に、どうやら飾り切りを終えたらしかった。
「真純君。お口開けて」薫子はせっつくように言った。右手に切ったリンゴを持って、僕の口元に近づけようとする。「あーんして」
薫子は半開きのままの僕の口に無理やりリンゴを入れて、また果皮にナイフを当てた。左手を巧みに回して、リンゴの皮をそいでいる。
逃げられないのだろうか。
思う。
初めからそんなのは無理な相談で、結果は決まっていたのだろう。定めっていたゴール。僕はそのレールを几帳面になぞって言っただけなのかもしれない。自分自身で決断したつもりでも、その実抗えない力が働いていたのか。
カーテンがそよそよと揺らいでいる。
薫子は楽しそうに鼻歌を奏でながら、リンゴの皮むきを続けている。
僕は何とはなしに、"シャイニング"の続きを読むことにした。
シュルシュルというリズミカルな音が、ひどく耳に心地よい夏の一日だった。
-完-
スティーヴン・キング原作の「ミザリー」をイメージして執筆した作品です。




