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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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66/66

41.2017年3月、インターミッション 【鮎川哲也の視点】

 午前中休んだら、夕方うちに来なさい、と言ったのは星崎先生だった。


「あなたはフリーの曲について、どのぐらい知っていますか?」


 何度も来ている星崎家。特に中学生までは、堤先生が海外のアイスショーで長期不在の時は、夕飯などでお世話になった。

 今いるのは入ったことのない部屋。十五畳ぐらいの本に囲まれた部屋。壁一面に本棚が備え付けられ、それら全てが埋まっている。音楽、文学、芸術に関する専門書が大多数で、CDやオペラのブルーレイなんかもある。よくよく見れば見覚えのある本も。堤先生が「アナリーゼしなさい」と言って持ってきた資料の出所はここか。


 昨日の夜、目の前に座る氷の修羅の娘を抱きしめてしまった後だ。

 気まずい思いが優っていたが、淡々とした言葉にすぐに現実に引き戻された。


 十九世紀を代表するフランスの作曲家、カミーユ・サン=サーンスが作曲した四つの甲交響曲の中の三作目。そして最高傑作と名高い。初演は1884年。オルガンを使った交響曲で、構成は二部。


「多少は調べたみたいですね。では、あの馬鹿弟子は、この曲を演じる時なんと言っていましたか」


 馬鹿弟子……って誰だ? と一瞬頭を捻らせ、それが俺の師匠であることに気がつく。


「この間の四大陸で、堤先生は、大聖堂っていう小説を思い出す、と」


 ケン・フォレットの有名小説ですねとすぐに作家の名前が出てくる。


「悪くないですね。サン=サーンスはマドレーヌ寺院のオルガニストを長らく務めていましたから」


 オルガニスト。聞きなれない単語だが、シーズン前にアナリーゼをした時に調べた。キリスト教の礼拝やミサの時に、伴奏をする人。


「教会のオルガニストに必要な要素とはなんだと思いますか?」

「……技術と曲想を描く力?」


 教会という場所がどんなところなのか、いまいちわからない。街中を歩くと確かに存在するし、そこに集う人もいるのだろう。何をするところか理解はしていないが。

 違います、と即答される。


「キリスト教の理解と神への信仰です。ただ伴奏するだけなら、技術のみでいいのかもしれません。ですが、相手は神と神の代弁者です。キリスト教に対する理解なくしてミサの伴奏者は務まりません」


 ただの神のための美しい曲として弾くのでしたら別でしょうけれど、と付け足した。


「私の蔵書の中に、サン=サーンスに関する専門書は、あなたに貸した伝記以外はありません。ですが、当時の作曲家の言葉や音楽研究により、いかなる人物だったかを知り、そして、人となりを想像することはできます」


 この交響曲の序文には、「フランツ・リストの思い出のために」と書いてある。友人は少なかったらしいが、同時代の作曲家とは親交がある。リストとフォーレがその代表だ。


「リストとサン=サーンスはそれなりに歳が離れています。サン=サーンスはリストの音楽レッスンを受けたことがありますが、そのリストが『世界最高のオルガニスト』と評しています。これは私の私見ですが、聖職者になるほど敬虔なカトリックだったリストが、最高のオルガニストと評するのは、最大の賛辞なのではないでしょうか」


 不意に、グランプリファイナルでのアンドレイの演技が思い出された。アンドレイの今季フリーはリストだ。それも、宗教音楽。スケートでは全く使われない、神の言葉のような、細やかなピアノ曲。

 星崎先生は澱みなく口を動かす。


「晩年のサン=サーンスは、二十世紀に入った新しい音楽を理解することはできませんでした。良くも悪くも彼は新古典主義の中で曲を作っています。しかし、死の前日まで創作意欲が衰えることがありませんでしたは魚が水のなかでしか生きられないように、彼は音楽の中で生きていいたのでしょう」


 これに書いてありましたね、とスコアを渡され、大きく頷いた。


「最高のオルガニストであり、職人的作曲家であったサン=サーンスが、オルガンを使った交響曲を作らないはずがないのです」


 ーー私がどんなに楽しんだか、あなたには想像つかない事でしょう。私は楽譜をもていたおかげで、私達の年齢を足したよりももっと生きながらえるに違いないこの交響曲を、一音も聞きもらさなかったのですから。

 親友であったガブリエル・フォーレがこの曲を聴き、作曲家に送った言葉である。


「あなたが滑る曲は、そんな作曲家が作った最高傑作です」


 プログラムとして滑るだけなら、そこまで知る必要はあるかどうかと聞かれたら、きっとないのだろう。知っていた方がより曲の深い場所まで潜れるけれど、知ったら知ったで恐ろしさが募ってくる。本当に滑り切れるのだろうかという、おそれ。


「……哲也君は、私の馬鹿弟子と同じですね」

「同じ?」


 全くそのようには思えないのだが。


「こういう時、全てを理解し飲み込んだ上で、あれは面白い顔をする。あなたは飲み込んだ上で、おそれを抱いている。違いますか?」

「……そうですね、どちらかというと後者です」


 少し前に、この曲にふさわしい人格を持ち得ているか悩んだ。星崎先生にそう伝えると、素直でよろしい、と言われる。


「僕はあなたが滑りきれないとは思いません。面白がってもおそれていても、結局のところ、その音を自分のものにすることで頭がいっぱいになるわけですから。あれとあなたは、そういうところが似ています」


 アンドロイドのような無表情で言われても説得力がない。


「あなたにとってこの曲はどのようなものなのか。どう演じていきたいか。曲を知りながら想像すると良いでしょう。高く聳え立つ大聖堂から聞こえる音。それを出すために、どのような過程と信仰があったのか。なんの景色が見えたのか。あの馬鹿弟子はそれを想像したのではないでしょうか」


 もちろん、あなたにはあなたの目指すオルガンがあるでしょうから、それを強要はしないですが、と星崎先生は付け足した。


 振りを完璧にし、音楽の理解を深めた先にあるもの。

 自分だけの特別なスケート

 生暖かい唾を飲み込んだ。


「続いてショートのことですが」

「はい」

「これは、もうあなたの中で答えは出ているんじゃないですか? それをきちんと自覚して、滑りに出してしまいなさい」


 君の心に、誰がいる?


「……同じことを先生にも言われました」

「ならまごつく必要はないでしょう」

「えーっと……」


 その答えからは距離を置いていたい。というか、星崎先生に言えるはずがない。

 俺が目を逸らしていると、星崎先生は深いためいきをついて、こう呟いた。


「こども」


 全く、師弟揃って同じことを言われて、と、呆れ顔をする。

「まぁいいでしょう。いずれにせよ、少し勉強なさい。マスカーニのアヴェマリアも、もっと違う見方ができるかもしれませんから。ここの部屋は好きな時に来ていいです。涼子にも伝えておきます」

「いいんですか?」

「連絡をしていただければ問題ありません。……あの馬鹿は勝手に合鍵を開けて欲しい資料だけ持って行くこともありますから、そのようなことがなければ」


 それ、普通に不法侵入。


 ✳︎


 三月になった。

 雅は新しいフリーのプログラムの練習を始めた。中身は知っている。……マジかよ、という思いが半分。確かに、という思いが半分。どう考えても、今の女子シングルでは適任者は一人しかいない。杏奈では優雅すぎる。ジョアンナでは滑りきれない。ステイシーでもマリーアンヌでも、エレーナ・マカロワでもない。


 先生は今の年齢で滑ってこそ輝くプログラムを作成するのが得意だ。俺の「千と千尋の神隠し」もそうだった。歳的にも、今の雅にぴったりだとは思う。最初から、「もしかしたら滑って欲しいと思う人はいる」と、言っていたから、雅を想定して作成していた可能性もある。


 堤先生は、プログラム作成がメインだが、一応キス&クライにも座れる立ち位置がいいだろうという話になり、世界選手権までの期間限定で雅のコーチングスタッフに入ることになった。今は堤先生と星崎先生が雅の練習を見ている。遠くから見て、ものすごく変わった練習をしていた。……なんでBBガンを両手に持たせてステップさせているんだ?


 堤先生が雅の練習を見ている間、俺は代わりに……


「何そのひしゃげたタコみたいな滑りは! かぼちゃとニラのミルクスープ作って鼻に突っ込まれたいの?!」

「カウンターからツイヅルへの移行でそんなにもたついてんじゃないわよ!」


 ……涼子先生とプログラムの最終調整をしていた。

 練習の合間に再び資料を読み、音楽への理解を深め、再び練習に向かう。アナリーゼはしていたつもりだけど、シーズンが過ぎるにつれて疎かになっていた。曲への理解は表現を深める。いつの間にか、やっていたという事実に満足し切ってしまっていた。


 遠くから見て、新しいプログラムに取り組んでいるのが功を奏しているようで、雅は一時期と比べたら格段に落ち着いていた。


 マスコミもYouTuberも沈静化したかと言われたら、割とそうではない。頻度は減ったけれどSNSはバズったままだ。そして世界選手権が近づくにつれ、元気になったのはテレビメディアの方だった。堤先生が、バラエティでジョアンナが取り上げられていただの、二人のスケーターの違いだのとタレントが騒いでいるなどといちいち教えてくれる。……内容よりも、多忙なはずの堤先生がよくそんなのチェックする暇があるなと感心してしまう。


 そんな中、スケート仲間からLINEが入った。ジミーこと、ジェイミー・アーランドソンである。直接電話したい、ということで、地球の裏側のジミーと時間を合わせて連絡をする。


『ウチの国だと、もう炎上どころか、ミヤビは今ヴィランだよ』


 ヴィラン? 聞き慣れない単語に沈黙すると、まさか知らないの!? と突っ込みが入る。


『101匹わんちゃんでいうところのクルエラ・デビルみたいな!』

「ごめん、もう少しわかりやすく言ってくれ……」


 ヴィランは、白雪姫でいうところの魔女、シンデレラでいうところの継母。悪役に該当する。……それが雅に結びつかないので、思いっきり戸惑う。


『俺にもなんかInstagramのコメントで聞かれたけど、相手にするのも面倒だから即刻ブロックしたよ』


 自撮りが趣味のジミーは練習風景をSNSにあげているらしい。そのコメント欄に、変な書き込みがあった。ニッポンのミヤビ・ホシザキから妨害されてませんか? という旨の。なお、ジミーはそのコメントをしたアカウントを即刻通報してブロックしたようだ。


『ほんっとめんどくさい。俺が見てないところで言いたいだけの人はほっとくけど、人のインスタのコメント欄まで汚さないでくれないかな。迷惑だし。いい話題以外いらないんだよ』


 ジミーがこういう話題に辟易するのは、俺としては意外だった。人が悪いわけではないが、明るく陽気な彼は、炎上も楽しめていたのかもしれないと思っていたのだ。


『テツヤ、それ偏見だよ。俺がそんな悪い人だと思った?』

「ごめん、悪かった」


 いいよ、とジミーがあっけらかんと笑う。引き摺らないのが彼の良いところだ。


『昔兄弟子だった人もマスコミとかで嫌な思いしてるからさ。嫌いじゃないけど、変なふうに騒がれるのが嫌なだけ。だって俺たち、真面目に競技やってるだけだぜ? ミヤビだって飛んだとばっちりだよ。ジョアンナがああいうふうに言っちゃったのは問題だけど、騒ぐ方が一番悪いよ』


 ジミーもジョアンナとは仲がいい。どちらかというと、マスコミが煽ったのではないか、という見解を持っている。


『あと、変わったこと言ったら、こっちでフィギュアスケートの話題がテレビでも増えたね。急に人気になったっていうか。それはジョアンナの力が大きいかも。コロラドなんて今の季節、アルペンスキーの方が人気なのに、スキーよりフィギュアの話題の方が多いんだぜ?』


 そんなの異常だよ、異常! と電話口で叫ぶ。


『今のアメリカでフィギュアに興味を持ってくれているのって、コアなファンぐらいだよ。もう一回アンバー・リッジウェアが現れてくれないかな。そうしたら、人気だって出てそのおこぼれで俺も強化費用がもっと貰えるのに! って思っていたらね。練習していたら、知らない女の子からサインちょうだいって言われたんだよ。そこだけはジョアンナに感謝かな』


 ジミーの電話は終わった。


 アンバー・リッジウェアは先生と同世代のアメリカの選手だ。長野五輪は銀メダル、ソルトレイクシティで悲願の金メダルを手にした。人格者でいつもにこやかな彼女は、今ではプロスケーターだけではなくタレントやコメディエンヌとして活動している。二年ほど前、アメリカのダンスバトル番組に出演し、優勝したことで再度有名になった。


 当時の彼女の強化費用は、現在の選手の非ではない。ジミーはアンバーの強化費用を知っていて、俺はその六分の一しかもらってないとこぼしていた。


 日本スケート連盟からの特別強化費用は、月二十万。現在スポンサーがいない俺にとっては、ありがたすぎる費用だ。正直それでも全く足りない。スケート靴を一足買えば普通に飛ぶ額だ。それでもやっていけているのは、親の援助と、ショーに呼んでいただけることが大きい。


 堤先生もだ。下宿代とコーチング費用全て合わせて月十万で生徒を見てくれる先生なんていないだろう。スポンサーがいない上に、未成年で高校の学費もあるからという理由だ。先生が教えているのは俺だけではないし、ショー以外にも解説だったり出張スケート講座だったり、マルチに活躍して稼いでいるのもある。その代わり、二つだけ約束している。一つは、俺にスポンサーが付いたらコーチング費用を上げる。そして、俺が大会で入賞した時の賞金の、三分の一を先生の収入にするということだ。


 スケートアメリカでのガラガラの会場を思い出す。確かに認知度どころか人気も低いようだった。

 炎上から悪役が生まれ、そこからフィギュアがまた知られるようになっている。SNSが沸騰して、競技全体が注目されるぐらいには。


 ……この動きは一体。


 ✳︎

 

 いいかげんうるさいマスコミやSNSの動きを鑑みて、日本スケート連盟の麻生繭子会長と市川美佳監督は、二人で記者会見を開いた。


『星崎選手についてですが、6分間練習およびクローン選手に対する妨害の事実はありません。選手に対し、無茶な取材行為はやめていただくようお願い申し上げます。また、SNSでも選手の感情を煽るような動画作成、および発言も控えていただきますようお願いいたします。所属のスケートリンクへの迷惑行為が見受けられましたら、法的措置を取らせていただきますこと、ご承知願います』


 会長と監督が頭を下げたことが割と効いたらしい。マスコミ各社にも麻生会長は根回しをし、アイスパレス横浜の入り口でテレビカメラを持ってくる連中は目に見えて減った。スマートフォンで撮影している客も。


 しかしそれでもやってくる輩はいるものだ。


 記者会見の二日後。夕方の練習のためにリンクに向かっていると、ちょっといい? と声をかけられた。振り向くと、堤先生と同じ年代の男性が立っている。目と鼻の先はアイスパレス横浜の入り口。近くで待ち伏せしていたのだろうか。

 三十半ばの、だらしのない格好の、下品な笑顔の中肉中背の男だった。いつも一緒にいる男性が先生だからか、なんとなく比べてしまう。あの人結構端正な顔してるんだよなーとか、背、結構高いんだよな、とか。


「なんですか?」

「俺、雑誌記者なんだけどさ。星崎選手に、前に、またきますって言ったんだけど、彼女がなかなか姿を現さなくて困ってるんだよ」


 現在雅は、他の練習生とは違う時間で練習をしている。夜の九時から一時間ほどウォーミングアップをした後、十一時から二時まで新しいプログラムの練習。終えたら給湯室のソファで仮眠を取って、五時から九時まで基礎練。そこから星崎先生の車で横浜駅まで行き、高校に向かう。授業を受けたら一度家に帰り、七時まで寝て八時ごろリンクにやってくる。世界選手権までとにかく時間がない。ひたすら滑り込んで新しいプログラムを体に慣らしている。そのために、少しでも多くリンクを一人で使える環境が必要なのだ。


「実際、どうなわけ? 君もここで練習するスケーターだったら何か知っているだろうから、話してくれない? 顔見たことないから、君はたいしたスケーターじゃないんだろうけど」


 まあ確かに。俺はたいしたスケーターではない。


「たいしたスケーターではない僕が話せることはありません。そういうことで失礼します」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 一言言って踵を返すと、肩を掴まれる。もしかしたら思いっきり無表情だったかもしれない。慌てるぐらいならそう言わなきゃいいのに。


「そんなこと言わないでさ、ちょっとぐらい話してくれてもいいじゃないの」


 名刺を渡される。週刊マンデー、記者。先生が持ってきた週刊誌に同じタイトルがあったような気がする。

 俺は腹に力を込めた。


「それって僕に答える義務あるんですか?」

「は?」


 は、ではない。


「なんのために書くのかわからない記事のために話せるわけないですよね。どうして星崎選手のことを探ろうとしているんですか? ただで答えてくれると思っていますか」

「みんな知りたいんだよ本当のことを。そうじゃなきゃこんな騒ぎにはならないじゃない。じゃあ君は、金を払ったら話してくれるわけ?」

「何言ってるんですか。お金を積まれても何も話しませんよ。あなたも、僕にお金を渡したら何を書いてもいいっていうことでもないでしょう。僕の言葉をそのまま書いてくれるという約束でもしてくれるわけでもないし、それをもし反故にされたら僕はたまったもんじゃないです」


 堤先生に鍛えられたのだろうか。何をするのかわからない堤先生よりも、他人を貶めようとしてくる汚い大人の方が、扱いやすい。


「あ」


 記者の後ろはアイスパレス横浜の入り口。いつからなのか。記者よりも背が高くて顔立ちが整っていて小綺麗にさっぱりしている俺の師匠がにこやかに立っている。


「何? 話してくれる気になった?」


 そうじゃない。近いてくる先生が俺に合図をする。人差し指を口元に当てる。何も喋るな、ではない。


「仮に話せって言われても、何を喋れっていうんですか。ちょっと良くわかりません」


 話題を元に戻して、後ろを悟らせないようにする。先生が来るまでの時間稼ぎだ。


「だから言ってるでしょうが。星崎選手のことを教えて欲しいんだよ。実際どうなの? 妨害なんてやってないって彼女はいうけど、どうせやってるんでしょ? みんな信じないよそんなの」

「やったっていう明確な証拠だってありません。あの動画一つで信じるなんて、みんなよっぽどスケートのことを知らないんですね。結局そんなの言ったもの勝ちじゃないですか」


 口を開いたら勝手に出てきた。あまりにもしつこいから、俺も少し熱くなっていた。選手やジャッジなどの、現在競技に関わっている人ほど、6分間練習の妨害について触れない。信憑性のない自己についても口を挟まない。本当に事実かどうかはわからないから。どうして外野ほど問題を広げるのだろう。お陰であいつは深い傷を負った。

 怒りが湧き上がってきそうになる。その前に。


「ウチの生徒に何のよう?」


 堤先生が記者の真後ろに立ち、後ろから声をかける。

 そしてその記者が振り向く前に……。


「ふっ」

「おええええええええ!」


 耳元に微量な息を吹きかける。……記者に少しばかり同情した。あれ、マジで鳥肌立つんだよな……。慣れたけど。


「びっくりした?」


 俺ですらむかつくほどのわざとらしい純粋無垢な瞳で、堤先生はビビり切った記者に尋ねた。


「な、あんたなんだ!」

「通りすがりのフィギュアスケートコーチです。あんたなんだは、俺の台詞だよ。ウチの生徒に何のようって聞いてるんだけどね。それとも……」


 先生が記者と距離を詰める。記者の背中には、アイスパレス横浜の建物。つまり壁。逃げないように先生が壁に手をつける。先生は記者の耳元に口を近づけて薄く笑う。……何だこのシュチエーション。


「俺と深い話でもする?」


 やたらと色気のある声だった。唇が耳たぶに触れてしまいそうなほどの近距離で囁く。もちろん触れてはいない。

 引き攣った悲鳴が記者から上がる。男が男に耳元で囁かれると、怖気が走るものらしい。そうでもない人ももちろんいるだろうが、少なくとも記者は違ったようだ。


「この、変態!」


 全く同意したい間抜けな捨て台詞を吐いて逃げていく。


「あーあ、行っちゃった。で、何者だったの?」


 そりゃ逃げるだろうよ、と先生の行動にドン引きしつつ、この人俺を助けに来たのか、と少し感動する。手も足も出さずに。……手も足も出してないし、指一本触れてもいないのに、先生から溢れる圧倒的勝利感は一体なんだ。


「ありがとうございます。先生、いつからいたんですか?」

「ん? 割と最初から。警備員さんがたまたま見てて、俺を呼んでくれたってわけ。リンクにいなくてよかったよ。靴履いたりするとタイムラグが出るからさ。で、あの人なんだったわけ?」

「もしかしたら、雅が言ってた人かもしれない」


 泣きながらしがみついた時、色々なことを雅が言っていた。週刊誌の記者がいきなりやってきて、あなたがやっていないなんて誰も信じない、本当のことを教えろと言われた。雅が一人の時を狙ったのだろうと思うと再び怒りが湧いてくる。

 ……今は俺の怒りを優先する場合ではない。俺は堤先生に渡された名刺を見せた。


「ナイス哲也!」


 もらうね、と言って、満面の笑顔で俺の手から名刺を奪い、iPhoneを操作する。耳をつけて、ワンコール、ツーコールで誰かが出る。


「あ、繭ちゃん? ちょっとアイスパレス横浜の周りで変なのいたから、報告しとくね。そう、週刊マンデーっていう雑誌の記者。うちの弟子が被害被ったから、抗議の電話出しといて。証拠もあるから」


 どちらかというと被害を受けたのはあの記者のような気がしたが、自業自得だから突っ込まないでおこう。電話をすぐに切って、これでよしと先生は満足そうに頷く。


「繭ちゃんって、麻生会長ですか?」

「そ。なんかあったら教えてくれって言われてるからね」


 麻生会長と先生は同世代で「繭ちゃん」「マサ」と呼び合う仲なのは知っている。同じ時代を戦い抜いた戦友だと前に先生が言っていた。ショーで何度かご一緒させていただいたことはある。会長になったのは今年度だから、俺の中ではスケート連盟の会長ではなく、プロスケーターという印象が強い。それよりも。


「証拠ってなんですか?」

「これ」


 先生はiPhoneをぶらぶらさせる。画面を操作して、ちょっと途切れてると思うけどと言って再生させる。

 さっきの俺と記者の会話だ。割と鮮明に取れている。


「無茶な取材はやめてくれって言ったのにね。とりあえず繭ちゃんに後は任せて、俺たちは練習しよっか」


 ……我が師匠ながら恐ろしいと背筋が凍った。

 

 ✳︎

 

 夕方練習を切り上げて給湯室に向かう。


 記者の件はもう頭から手放していいだろう。冷蔵庫に入れたタッパー弁当を電子レンジで温める。

 四回転ループの練習をしすぎたのか、右足の脹脛が張っている。アイシングのついでに夕飯を摂る。その後にプログラムの通し練習をする。フリーを二回、ショートを一回。


 動きが体に馴染むと、その曲が自分のものになる感覚がある。それは時として、作曲家の意思をおそろかにしているのかもしれない。その動きは自分のために振り付けられたものだけど、曲は違う。曲を咀嚼した上で、自分の色をつけていく。

 どう滑っていきたいのか。ぼんやりと考えているうちに、電子レンジが鳴いた。

 

「あ」

 

 タッパーの蓋を開けた時、俺しかいない給湯室に、雅が、弁当の包みを持ってやってきた。

 毎日同じ場所で練習していたのに、ずいぶん久しぶりに顔を合わせた気持ちになる。

 二人で会うのは、あの夜以来だった。

 




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