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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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40.夜明け前


 背中が凝り固まって、寒気を感じた。ものすごく辛かったはずなのに、なんだか気持ちが穏やかだ。何かに包まれるような心地よさ。

 ……シャープな滑走音が彼方からやってくる。もっと聞いていたいな。寝返りを打つと、私を包んでいた何かが、体から滑り落ちた。


 寒さから目を開けると、そこは自室ではなかった。アイスパレス横浜の給湯室だ。着ているのは部屋着で、滑り落ちたのは布団ではなく、黒いコート。


「あれ、これ、てっちゃんの? なんで?」

「起きましたか」


 ソファの横のパイプ椅子。座っているのは、父。


「父さん。どうして」

「あなたが給湯室で眠っていると、哲也くんから連絡をいただきました。起きる気配がなかったので、連れて帰らずに、起きるまでここにいることにしたんです。母さんには連絡してあります。昨日の夜、自分が何をしていたか、覚えていませんか?」


 昨日の夜。そうだ。あまりにもしんどくなったから、家を抜け出したんだ。探しに来てくれたてっちゃんに泣き喚いて、宥めてもらって。少し落ち着いた頃に、二人で給湯室に来た。父を待っている間に眠ってしまったのだろう。

 ……父が言いたいのは、そうではない。


「あんな夜中に一人で歩くなんて。一歩間違えたら、危ない目にあっていたかもしれないんですよ」


 淡々とした父の口調に、怒りを抑えているのがわかる。その通りなので、俯くしかない。てっちゃんにも迷惑かけたし、両親にもいらない心配をかけてしまった。前に、アーサーにも言われたことがあるのに。

 パイプ椅子から父が立ち上がる気配がする。私の目の前にやってきて、背中に手を回す。母とも違う優しい抱擁。


「無事でよかった」

「うん。心配かけてごめんなさい」

「あなたが無事なら、それでいいんです。父親として聞きたいことはありますが、指導者として言います。今日は一日休みなさい。それで3枠取れなくてもあなたの責任はありません。今まで何があったか、何を言われたか。後できちんと教えてください。……辛かったんでしょう?」


 私は父の腕の中で頷いた。もしかしたら、辛いことははっきりと辛い、って言ってよかったのかな。

 給湯室の壁時計で確認すると、朝の四時半だった。


「てっちゃんは……」

「練習しています。昌親もいますよ。二人にも、特に哲也くんにはお礼を言いなさい。あの二人も寝てないんですから。そうしたら帰りますよ」


 給湯室を出て、リンクサイドに立つ。氷上に目を向けると、てっちゃんが黙々と練習をしていた。氷の上には堤先生も居て、てっちゃんの滑りを冷静な眼差しで見つめている。二人以外誰もいない。二月下旬にもなると、ほとんどの選手の大会は終了している。このリンクを拠点にしている選手で、三月に国際試合があるのは、私とてっちゃんだけ。


「堤先生」


 フェンスを背もたれにしていた先生に声を掛ける。


「お、雅ちゃん、起きた?」

「ありがとうございました」

「俺は何もしてないよ。君を見つけたのは哲也だから。お礼なら哲也に言ってね。……昨日、哲也と何か話した?」


「……今回のこととか。あと動画を見せてもらいました。すごく、励まされました」


 キリルさんとリピンツカヤの動画だ。あの心遣いは、本当に嬉しかった。動画を送ってくれた堤先生にも。二人にも、メールで何か送らなくては。そして、顔を合わせたら直接感謝を伝えたい。

 よかった、と先生は顔を崩す。


「君にはたくさん味方がいるんだから。一人で暗くなっちゃダメ」

「はい」

「それ以外に、なんか哲也と話してないの?」


 ……なんでそんなこと聞くんだろ。


「昨日の夜リンクに来た時から、っていうか、連絡くれた時から、哲也の様子がおかしいからさ。練習するからスケート靴持ってこいっていうし、会ったらあったで、給湯室に近寄りもしないし。延々とフリーのランスルーだけやってるし、星崎先生の顔を見るなり目を背けるし。なんかあった?」

「昨日の夜……」


 てっちゃんとゴミ捨て場で会って、言い争って、それで……。

 ……顔が自ずと赤くなる。手のひらで頬を覆うと、火傷しそうなほど熱かった。

 抱きしめられた背中はもっと熱い。父さんの時はそんな風に思わなかったのに。


「はー。なるほどそういうことね」


 にやついている堤先生は、何かを理解したみたいだった。……なんでこの人にはわかってしまうんだ。


「君のお父さんには、内緒にしててあげる」

「ありがとうございます」


 堤先生が口元を抑えて欠伸をする。流石に眠そうだった。

 顔の火照りを誤魔化すために、氷上のてっちゃんの滑りを見つめる。何度も何度も呼吸をしながら、氷の冷たさに身を委ねる。そうすると、てっちゃんの滑りだけに神経が集中される。


 少しづつ朝の気配がする。建物の構造上、リンクには朝日は差し込まないのに。氷が、朝独特のきらめきを纏わせているように見える。

 その上でてっちゃんが滑る。無駄のない、綺麗なスケーティング。てっちゃんらしく、豊かな音が溢れている。清涼な川の流れに乗って、水底の泡をまとわせて泳ぐ。泡は息吹で、命だ。水は生命の源。その人なりの哲学と理想を身に宿している。魚が水の中で生きるように。


 水の中から生まれた水竜はどこまでも美しく、氷の上で生きる。


 スケートにはその人の命が宿っている。その人らしさ。その人の世界。好きで好きでたまらない、てっちゃんのスケート。

 昨日流し切ったと思っていた涙が、再び込み上げてくる。

 この人に、私は私らしく滑ると宣言した。だけど、今の私は、私らしく滑れているだろうか。


「雅? どうしましたか?」


 リンクサイドに父がやってきていた。私がいつまでも給湯室に戻ってこないから、見にきたに違いない。


「父さん」


 手の甲に涙が落ちる。ぽろっと出てきた、本音。


「フリー、変えちゃ駄目かな」

「は?」


 背伸びをするのはいいのだ。だけど、そのスケートに、私の本質が宿っていない。それが、今回の騒動で実感してしまった。

 伸び切ってしまったものは、折れるしかない。


「フリーのプログラム、変えたい」

「今更何を言ってるんですか。全日本が終わった後、変えないと二人で決めたでしょう」


 呆れ果てる父に、私は首を横に振る。


「もう無理だ。今の私は、あのプログラムを滑れない。四大陸で十分滑れた。でも、あれが今の私の上限なんだよ。どうやっても、私はシェヘラザードになれない」

「人から何か言われたんですか? それともネットに何か書かれていたんですか? そんなものは放っておきなさい。調整をしていけば、いい評価はついてきます」

「でも……」


 四大陸は、自分でもよくできたと思った。だけど、あれ以上に滑れるだろうか。今のままでは無理だ。

 来季の枠もある。里村さんはいない。杏奈に負担はかけられない。少し落ち着いたらまた滑れるかもしれない。あのプログラムが、嫌いなわけではないから。


 だけど、このままの気持ちでプログラムの練習をするのは無理だ。

 膠着する私と父の空気を破ったのは、フェンス越しに私の目の前にいる堤先生だった。


「そうだね、君はシェヘラザードみたいに、頭の回るしたたかな女の子じゃない」


 私の顔を見ず、黙々と滑るてっちゃんから目を離さない。


「もしシェヘラザードだったら、今回みたいなことがあったらもっと上手く立ち回るだろうしね」


 父が堤先生の背中を睨みつける。

 わかってはいた。堤先生から見て、私の滑りとプログラムが、私の個性とシェヘラザードというキャラクターが、決定的に食い違っていたのだと。……改めて人から突きつけられるとショックを受けるのだから、私も勝手なものだ。

 押し黙った私に、堤先生が素早くエッジを動かして顔を向ける。


「勘違いしないでね。多分ね、君は素敵な女性になる途中にいるんだよ。君が成長したら、あのシェヘラザードはもっと魅力的に滑れると思うよ。だってあのプログラムを嫌いなわけじゃないんだろう?」

「はい」


 嫌いじゃない。だからこれまで頑張ってこれた。プログラムについて考えたり、調べたり、どう滑ればいいのかと考える時間も、評価されない辛さはあったけれど、嫌いではなかった。


「だったら、その時までちょっと休ませておくのも手なんじゃないかな。ワインは熟成すればするほど上手くなるんだから。それに、君が、今までこのプログラムのために考えた時間は、絶対にこれからの君を助けてくれるはずだからね」

「昌親、あなた何を言って」

「今の君は」


 語気を強めて、堤先生が父の言葉を遮る。


「可愛くて最強の女の子なんだよ。したたかは一瞬だけど、可愛いは永遠なんだから。そして君は、シャリアール王なんて、うまく立ち回らなくても捻り潰せるぐらい強いんだよ。それは君が可愛いから」


 横で父が絶句する気配がする。


 ーーミーシャの滑りは強者だよ。力強くて、潔くて。僕は好きだ。

 数ヶ月前に聞いたアンドレイの言葉がよみがえる。私はその言葉を心の奥底で封印していた。少しばかり傷ついたし、女子シングルの滑りとして求められているものではないから。それでいいのか、と思った。でも……。


 

 今の君は可愛くて最強の女の子。

 したたかは一瞬だけど、可愛いは永遠。

 強いって可愛いなんだよ。


 

 心の中に、水になって染み渡る。

 実は、アンドレイって、今の堤先生と同じようなことを言っていた?


 可愛いって言う言葉が苦手だった。幼い、って言われているみたいに思えたから。アーサーに怒鳴っちゃったぐらいだし。幼いからみんなが可愛いというのだと思っていた。


 アンドレイは、別に私の滑りを「女子シングルっぽくない」とは言わなかった。むしろ、私の滑りを、強いのが私らしいと認めてくれた。


 私は私らしい滑りを、もっと目指してよかったのかな。


 私らしいって、強い?

 強いって可愛い?

 可愛いって強い?


「っていうことで、雅ちゃん、星崎先生」


 パッと堤先生が顔を明るくさせる。横を見ると、


「フリーのプログラムを、俺に預けてくれる気はないですか? 世界選手権まで一ヶ月弱。移動時間を考えればもっと少ないですけど、作品はもうできてます。あとは彼女が覚えて滑り込むだけ。もし雅ちゃんがノーミスで滑り切れたら、3枠どころか世界選手権の表彰台が狙えます」


 え、と私の瞳が勝手に丸くなる。

 今この人、世界選手権の代表って言った? 私が? 世界の強豪を押し除けて?


「……昌親」


 絶句していた父が堤先生を睨みつける。何でしょう? と堤先生が目で尋ねる。かつての師弟が正面から向き合う。


「そんなプログラムを、いつ作ったんですか?」

「六月。リチャードのところに行った時ですけど。その後もちょいちょい修正してました。いやー、面白い映画を見たあとなんでテンション上がっちゃいまして。雅ちゃんが滑ってくれたらいーなーと思いながら作っちゃいました。正直、雅ちゃん以外滑れません。難しすぎて」


 堤先生は全日本前にフリーを変更しないかと私に打診した。同時に、君のためのプログラムはもうできている、と。それですか? と尋ねると、堤先生は肯定する。


「……そんなその時のノリで作ったものを信頼しろっていうんですか?」

「今シーズンのルール用に内容を詰めましたから安心してください。はっきり言います。俺の作品の中でも、最高傑作の一つです。星崎先生も、俺が有能な振付師だって知ってるでしょ?」

「言い切りましたね。それでシェヘラザードより劣るプログラムだったら、私は承知しませんよ。その可能性だってあるんですから」

「見れば安心しますか? じゃあ、今から滑りますんで、見ててください。……哲也! ちょっとおいで!」


 てっちゃんが練習を中断し、堤先生のところにやってくる。先生が事情を説明すると……てっちゃんは一瞬ドン引きしたような顔を作る。そんなてっちゃんをお構いなしに、ポイっと先生がiPhoneを渡す。iTunesにプログラムの曲を入れているようで、てっちゃんに扱い方とどの曲を再生させるかを教えている。


「……本当にこれを滑るんですか?」

「大マジ。合図したら曲かけてね」


 てっちゃんは内容を知っているらしい。正気を疑うような顔をしている。

 堤先生は力強いスケーティングでリンク中央に向かう。

 かけていいよ、という声で、てっちゃんが音楽を再生させる。

 そして堤先生は滑り出す。

 

 

 そのプログラムは、四分間の……。

 大量殺人だった。

 

 

 ……何、これ? 一体何? 私、今何を見たの? ギャル化した堤先生? ていうか、堤先生がギャルに見えるってどう言うこと? この人の演技力どうなってんの? 滑り一つで人肉の山を築き上げた超絶技巧のプログラム? なんかよくわからないけど……。


 その世界が「視」える。


「……っていうプログラムなんですけど、如何ですか?」


 いやー、おっさんには辛い、と肩で息をする堤先生に、父が顔を真っ赤にして抗議をする。


「反対だ! 昌親、お前は正気か!? とうとう気が狂ったか!?」


 父が堤先生を「お前」呼びしている。


「正気正気。これすごいでしょ? 最後まで決めたら、絶対に盛り上がるしGOEもPCSも爆盛り! いけるいける」


 イエーイと両手でギャルのようなピースをする。


「ダメに決まってるだろうが! こんなの、倫理的におかしいし、女子のプログラムとして間違っている!」


 脳に強すぎる衝撃を受けると、周りを俯瞰して見られるらしい。こんなにエキサイトしている父さん初めて見た。横ではてっちゃんが微妙な顔をしている。面白いけど、どうしたものか、みたいな。


「昔、拘束衣を着て精神病院に入れられて発狂した男のプログラムがあったでしょう? あれがオリンピックでよくて、なんでこれがダメなんですか? そっちの方がおかしいでしょ!」

「いいからダメだ! 私の雅に、こんなもの滑らせられるか! 郷ひろみだって抗議したいぐらいだったのに!」

「じゃあ、その、雅ちゃんに聞いてみましょうか。雅ちゃん、このプログラム、どう? 滑る? 滑らない?」


 もう決めた。


「父さんごめん。父さんに従えない」

「雅!」


 このプログラムを滑っている自分が、見える。


「堤先生」


 なんかよくわからないけど、よくわからないほど心臓がばくばくしている。嫌なものを見た時の、精神がグニャッと曲がりながら動悸がする感じじゃなくて。


「これって、私が滑り切れることが前提の、賭けでもありますよね。変更して失敗したら終わり。3枠どころか2枠に減らしてしまうかもしれない。プログラムを変えただけで、批判されるかもしれませんし、失敗したら周りから変な博打を打った身の程知らずって思われるかもしれない」


 堤先生は目で答えてくれた。そうだね、と。


 今見たプログラムは、シェヘラザードより難しい。第一に体力の限界を超えている。初めて見る動きもたくさんある。そしてジャンプの難易度は今までの比ではない。加えて世界選手権直前のプログラム変更。ハイリスクすぎるし、成功できるとは限らない。


 それなのに、ばくばくが止まらない。


 最高に面白い映画とか、ものすごく綺麗なものを見た時に、テンションが上がる感じ。てっちゃんの滑りを始めて見た時の感じ。


「でも私はこれを滑りたい」


 要するに、ものすごく興奮している。


「私は、このプログラムを誰よりも魅力的に滑ってみせる。私以外、このプログラムは合わないと言わせるぐらい。私はこれで……」


 昨日までは心が落ち切ってしまっていた。周りが全部敵に見えた。でも、これを見た以上、滑りたいと決めた以上、言えることは一つだ。

 失敗するかもしれない、なんて思わない。

 私は一人じゃない。みんながいてくれる。

 心を鼓舞させながら、その場でいい放つ。

 

「私は世界選手権の表彰台に上がる。だから堤先生。このプログラムを、私にください」

 

 てっちゃんと父の前で、堤先生に頭を下げた。


「顔を上げて、雅ちゃん」


 言葉に従って頭を上げると、びっくりするほど優しい兄弟子の顔がそこにある。


「言われなくても、あげるよ。君は俺の可愛い妹弟子だからね。……さて、どうしますか? 星崎先生。雅ちゃん、やる気十分ですけど」


 堤先生が父の方を振り返る。父は頭を抱えて考え込んでいる。何が最善か、どうするべきか、唸り声をあげる。


「……わかりました、許可します! ここまで言うなら、やってみましょう。全ての責任は私が取ります」


 普通だったら反対するだろう。それでも決断してくれた父に、なんて感謝したらいいのか。


「ありがとう、父さん」

「感謝は滑り切れてからにしなさい。ただし、条件があります」


 何? と堤先生が目で尋ねる。


「昌親。あなたは世界選手権が終了するまで、雅のスタッフになりなさい。必要があればリンクサイドに立ってもキス&クライに座っても構いません。あなたが雅の練習を見ている間、哲也君の練習は私と涼子が見ます」

「え?!」


 声を上げたのはてっちゃんだ。反対に堤先生は、了解、と敬礼を作る。

 父がじろりとてっちゃんを睨みつける。


「何か不満はありますか?」

「いえ、ありませんが……」

「あなたの氷上練習はほとんど涼子が見ることになるでしょう。私はそれ以外です。……あなたの作品もまだ出来上がっていません。何ですか、あんな、まるで音楽性のない演技は。一から見直して差し上げます」


 いきなり自分に話を振られてびっくりもするだろう。

 戸惑うてっちゃんと、てっちゃんにメンチを切る父を無視して、堤先生は私に、iPhoneの画面を見せる。画面に映っていたのは、一つの映画のジャケットだった。


「じゃあ、雅ちゃん。プログラムの練習をする前に、この映画を見ておいて。十五歳以下は見ちゃダメだけど、もう大丈夫だもんね。よーく想像しておくんだよ、君が何と戦うべきか、何が敵だったのか。……君はこれから生まれ変わるんだよ。儚くてミステリアスなヨルダ、したたかになりきれなかったシェヘラザードから、最強無敵の正義ヒット味方ガールに」


 差し詰め俺と星崎先生はビッグ・ダディだね、と、堤先生は手を私に差し出した。

 私は堤先生の手を握り返す。

 自分が魔法少女でもなった気分だ。力を得るために、人外と契約する。


 ……夜明けが迫ってきていた。

 


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