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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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39.きみはそこにいる


 ガラガラゴロン、と缶紅茶が落ちてくる。

 アイスパレス横浜にところどころ設置されている自販機は、深夜でも電源が落ちずに使える。堤先生みたいに夜中に練習するスケーターもいるからだ。お陰で温かいコーヒーとミルク紅茶が買えた。給湯室に入り、ソファに座る雅に渡した。


「ほら」

「ありがと……」


 目は赤く腫れている。涙は収まったが、まだ完全に落ち着いたとは言えない。部屋着のままだと寒すぎると思い、俺は着ていたコートを雅の肩にかけた。


「ごめんねてっちゃん。迷惑かけて」

「もう謝るな。無事でよかったんだから」

「でもコート汚しちゃった……」

「そんなの、洗えばいいだけの話だろ。お前が気にすることじゃない」


 ソファに座る雅の隣に腰を下ろした。雅はすぐに蓋を開けず、缶で指を温める。ゴミ捨て場に、どのぐらい彼女が居たのかわからない。抱きしめた時の雅の体は冷え切っていた。今でも指や方が震えている。先生から給湯室の鍵を借りてよかった。エアコンの効きが悪くて、なかなか室内が暖まらないが。


 コーヒーのプルトップを開けて一口飲みくだす。


 ……どうしてあんなに大胆なことができたのか。多分、俺も限界だったのだ。理由もわからず拒絶されていたこととか。大丈夫だといいながら無理されていたこととか。無理して痛々しく笑うところとか。

 とにかく必死だった。このままだと、彼女の心が底なしの沼に落ちてしまう気がした。手放したら自分が壊れてしまう気がした。また霧の中で見つからなくなる前に、小さい体を抱き留めるしか思い至らなかった。

 しがみついた雅を、無理やり落ち着かせようとは思わなかった。うまく呼吸ができるまで、涙が出尽くすまでこうしていようと思った。


 いまだにぐずぐずと鼻を啜る音が響く。……先生たちに連絡するにはまだ早いかもしれない。このまま見たら、それでこそ星崎先生は心配するだろう。

 コーヒーが半分終わった頃、iPhoneが振動する。ラインの通知で、堤先生からだ。


『もし雅ちゃんと合流できたら、真っ先に彼女にこれを見せてあげて』


 その一言から、数件。確認して、声をかける。雅は首を傾げた。


「今先生から送られてきたんだ。雅に見せるように言われた動画がある。今、ここで見てみないか?」


 動画、という単語に雅の体がびくっと跳ねる。


「怖い。やだ。てっちゃんは内容知ってるの?」

「知らない」

「だったら嫌。本当に怖い。みんな言ったら満足してそれで終わりなの? じゃあ言われた私はどうしたらいいの? 私の言った言葉は、全部嘘になるの? 何も見たくないし聞きたくない」


 最後は涙声になっていた。顔が揺れて、首を横に振る。


「大丈夫だよ。堤先生が、わざわざ雅を傷つけるような動画を送るとは、俺は思わない。信頼していいよ」


 これでも十年あの人の弟子をやっている。茶化す癖もあるし、ふざけすぎるきらいがあるけれど、あの人は肝心な時は間違えない。

 俺は目線を合わせて雅の手を取った。瞳が潤んで揺れている。また決壊してもおかしくないほどの涙を溜めていた。信じたいけど信じるのが怖い。騒動があってから、雅が、何を誰から言われ、何を見たのかわからない。わかるのは、今、彼女が、言葉に、人に、怯えきっていることだけ。

 暗い沼は雅には似合わない。


「二人で見れば怖くない。変なものだったら、俺がお前の代わりに怒ってやる。傷ついたら、俺はその傷を塞ぎたい。泣いてもいい、悲しんでもいい。俺は隣にいる。霧の城の中でたった一人で囚われているなんて思わなくていい。たとえそうであっても、俺は絶対にお前を見つけて手を繋ぐ。だから大丈夫だ」


 頭で考えて伝えようとした言葉と、自分の口から勝手に滑り出た言葉は少し違っていた。俺はイコじゃないし、雅はヨルダじゃない。だけど、彼女が再び霧の中に囚われてしまう前に。

 ただただ己の中から湧き上がってきて、彼女に伝えたくて必死になる。

 心の奥底で眠っていた本心。


「俺はお前が大事だ。誰よりも、何よりも」


 アンドレイは、俺に、キスをすれば大事だと伝わると、小鳥に説教をするように教えてくれた。だけど言葉にしないと伝わらないことだってある。雅が誰かの言葉で傷ついたなら、俺は俺の本心を持って癒すべきだ。

 雅の大きい瞳が、極限まで見開かれた。手を伸ばして瞼に触れる。ここまで耐えてきた彼女の傷を愛おしむように。泣いてもいい。声をあげてもいい。溢れたものは、全部受け止めるから。


「わかった……」


 頷いた彼女の瞼から、大粒の雫がこぼれ落ちた。


 

 先生から送られてきたのは二つの動画だった。最初に送られてきた動画をタップする。

 映ったのは金髪の美少女。しかしデトロイトのディズニー・プリンセスではない。


 ベラルーシのエフゲーニャ・リピンツカヤだ。


 先日開催されたヨーロッパ圏の大会らしい。リピンツカヤは優勝したらしく、首には金のメダルをかけている。競技後の記者会見で、複数のマイクを向けられていた。


 

 ーー最近、女子シングルの間で話題になっていることは知っていますか? ジョアンナ・クローン選手が、大会中に妨害された件です。

 

 ーーええ。SNSで流れてきていますから。

 

 ーー同じ競技者として、どう思われますか?

 

 ーー馬鹿馬鹿しい。ミヤビ・ホシザキが誰かを突き飛ばした? あり得ません。彼女はドイツでの大会中、私の大事なものを見つけてくれました。

 

 ーー大事なもの、とは?


 ーー母の形見です。昨年、私は母を亡くしました。母は生前に、私に結婚指輪をお守りがわりにくれました。大会中、無くしてしまって動揺していたら、ミス・ホシザキが探して見つけてくれたんです。私は彼女を傷つけるような発言をしたことがありますし、彼女もそれを知っているでしょう。それでも彼女は、私のために動いてくれました。そんな人が、誰かを陥れたりはしませんよ。

 

 ーー6分間練習についてはどう思われますか?

 

 ーー6分間練習は一人の選手にだけあるのではありません。それを、妨害された、というのは、あまりにも自分にとって都合が良すぎるのではないでしょうか。私はミス・ホシザキと同じ組になったことが何回かありますが、彼女に妨害されたとも思いませんし、彼女が誰かの邪魔をしている風にも見えませんでした。そんなに気になるならば、私に聞くよりも実際に見ることをお勧めします。

 

 

 終始毅然とした態度のまま、動画は終わった。

 先生によると、日本語訳は、リピンツカヤの兄弟子のキリル・ニキーチンがやってくれたらしい。先生もチェックしたと連絡があったから、誤訳はないはずだ。キリルさんは7月のアイスショーで先生が紹介してくれたスケーターで、人懐っこい笑顔が魅力的な人だった。

 リピンツカヤが、雅を、ジャンプだけの選手、と評していたのは何かの記事で見たことがある。だが、ドイツでの「探し物」の件は初めて知った。彼女の大事なものを、雅は必死で探しただろう。


 それは俺の知っている星崎雅の姿そのものだ。


「……それからもう一通」


 もう一つの動画を再生させる。


 これちゃんと映ってる? 映ってる映ってると、動画の中の人物が話し合う。どこかのリンクで撮影したものらしい。暗くて、誰もいない。深夜に撮ったのだろうか。

 動画の中にいるのは、二人。一人は先ほどのリピンツカヤで、眠いのか仏頂面をしている。


『あー、あー。ちゃんと録音もされているね。よかったよかった。改めてマサチカ。久しぶりだね。突然で申し訳ないけど、この動画をミヤビに送って欲しい。俺たちの仲間では彼女の連絡先知らないからさ』


 訛りの強い日本語。訳が出来る時点で予想はついていたが、改めて彼の口から日本語が出てくるとは思わなかった。もう一人の人物は、キリル・ニキーチン。先ほどの動画の訳者。先生の古くからの友人。そして魂の義理の弟。


『……本当に大丈夫なの? あなたの魂のお兄さんは。ちゃんと渡してくれるんでしょうね』

『ジェーニャ、これはマサチカにも届いているんだよ? あんまり疑っちゃ悪いよ』

『……だといいけど』


 ロシア訛りの英語と、ロシア語訛りの日本語が混在している。


『ミヤビ? 聞こえてるかな? ジェーニャと俺から、メッセージだよ』

『ミヤビ・ホシザキ。……ドイツではちゃんとお礼いえなくてごめんなさい。あの時は本当にありがとう。こっちでも聞いているわ、あなたの話。本当に馬鹿馬鹿しいわね』

『今色々辛いと思う。俺たちは遠いから、君の気持ちを推し量ることはできないけど……。でもこれだけは言っておきたくて。俺たちは、君を信じているよ』

『そうよ。あなたにそんな大層なこと、できるはずないもの。あなたができるのは、せいぜい演技直前に怪我した選手に、湿布を渡すぐらいだわ。そんなのも、あのメリケン女はわからないのかしら』

『ジェーニャ』


 動画の中のキリルさんが苦い笑いをする。リピンツカヤの言い方には棘がある。その棘は彼女の人となりなのだろう。正直者で嘘がつけない。きっと彼女は誤解されやすい。だけど彼女は周りに忖度をしない。キリルさんをはじめとした周りの人間が、彼女を理解しているからだ。


『だってそうだもの。……そうでしょう?』

『そうだね。君が誰かを妨害するなんて、想像力に乏しい俺には全く予想がつかないな。……俺からのアドバイスはね。周りがどう言おうと、君のことを何も知らない人間の言葉に耳を傾ける必要はないってこと』


 キリルさんの言葉に、隣のリピンツカヤがうんうんと頷く。


『もっと周りを頼って。それから、君の信じている人の言葉にもっと耳を傾けて。暗くて辛い言葉もあるけど、そればっかり聞いていると気持ちがどんどん沼に入っていっちゃうからさ。じゃ、ヘルシンキで元気に会おう。俺もジェーニャも、君に会うのを楽しみにしているから』


 じゃあね、と二人が手を振るう。

 動画はそこで終わった。


 雅は今見たものが信じられない、という顔をしていた。俺も、この二人の心遣いが嬉しかった。リピンツカヤは本音しか言わない。そんな人となりが、二つの動画に溢れていた。キリルさんも優しい。雅のことを信じていなかったら、こんな動画を編集したりはしない。二人と雅は、レベッカや杏奈みたいに、深く知り合っているわけではないだろう。


 それでも誠意や真心は伝わるものだ。


「お前を知っている人間はちゃんとわかっている。杏奈も堤先生も。晶もステイシーもアーサーも、みんな心配して連絡くれた。お前の周りに、誰もいないわけじゃない。もちろん俺もその一人だ」

「……本当に? てっちゃんも?」


 おそるおそる雅が尋ねる。


「当たり前だ。……疑ってたのか?」


 もし雅に疑われていたら、ちょっとじゃなくてだいぶショックだ。雅はその、だいぶショックな答えを返す。こっくりと頷いた。てっちゃんもみんなと同じことを思っているんじゃないかって思っていた、と俯きながら呟く。みんな、は、ネットの書き込みのことだろう。

 ……そこまで思い詰めるほど傷ついたんだなと今更ながら実感する。俺はそんな雅を責めなかった。俺の何かが信頼できなかったのだろう。今は? と尋ねると、そんなことはないよと答えた。

 それならいい。それなら、俺も安心できた。さっきよりは大分落ち着いた。


「飲み終わったら星崎先生に連絡するよ。そうしたら帰ろう。明日は、一日ゆっくり休めばいい。寝不足なんだろ? それで練習したら怪我するよ」


 俺はコーヒーを飲み干して、雅の缶紅茶が空になるのを待った。

 不意に、右肩に重みを感じた。首を動かすと、雅の頭が肩に乗っている。


「雅?」

「ごめんねてっちゃん。本当は、てっちゃんにこうやって甘えちゃいけないって、わかってる」

「雅、そんなことは……」

「……ごめんね。もう少しだけこうさせて」

「ああ」

「疑ってごめんなさい。大事だって言ってくれてありがとう。……そでも嬉しい」


 そう言って、雅は静かに目を閉じる。

 黙って俺は雅に肩を貸した。


 しばらくして、肩に乗っていた小さな頭が、ぐらっと傾いた。

 このままだと床に頭をぶつけてしまう。そう思うよりも早く、俺の腕が動いていた。

 倒れそうになった雅の体を、左腕だけで抱きとめる。

 力を失った手から、缶紅茶が滑り落ちた。


 目の下に、隈が色濃く残っていた。眠れていなかったと涼子先生は言っていた。でも練習は行っていたから、疲労も溜まっていただろう。体も精神も限界が訪れて、今の雅は、唇を半開きにして穏やかな呼吸で眠っている。体の力は完全に抜けて、全てを俺に委ねていた。


 俺は雅の目尻に溜まった水を、親指の腹で拭った。寝ていてもまだ止まらないらしく、じわじわと再び涙が溢れてくる。


 あの時手を振り払われた時から、こうしたかった。傷つく雅を見るたびに、自分に対する不甲斐なさと、強い怒りを感じてしまう。


 同時に、こうも思ってしまった。やっと俺に顔を向けてくれた、と。


 俺はiPhoneをポケットから取り出してタップした。星崎先生に、雅が見つかったと連絡しないといけない。堤先生にも。電話を掛けようとして……その手を止めた。iPhoneを横に置き、右腕も彼女の背中に回す。

 喉の奥の熱い塊が広がって、胸にまで侵食している。触れれば触れるほど、抱きしめれば抱きしめるほど、苦しさが増していく。擦り切れるほど痛いのに、手放せない。手放したくない。雅の細やかな寝息が、布を通して肌に伝わってくる。それがくすぐったくて、胸の苦しさを加速させる。


 嘘じゃない。俺はお前が大事だ。

 もう少しだけこうさせてと、雅は俺の肩に寄り掛かってきた。

 もう少しだけじゃない。もっとずっとこうしていたいと、抱きしめながら願ってしまっている自分がいる。

 自分の腕の中に雅が収まっている。

 その事実が、どうしようもなく喜ばしかった。


 誰にも渡さない。この顔を知っているのは俺だけでいい。少し苦味を感じる細い息遣いも、安心し切って全てを預けているこの重さも、全て俺のものだ。もっと彼女のことが知りたい。もっと彼女の笑顔がみたい。もっと彼女の寝顔がみたい。もっと、この柔らかさを感じていたい。それだけだと足りない。やっと顔をむけてくれたんだ。体の境がなくなるほど抱きしめていたいのに、互いを隔てる隙間が煩わしくてたまらない。頭が熱くなって、呼吸が少しづつ荒くなる。再び腕の中に閉じ込めた雅の身体は先ほどと変わらずに冷たい。反して俺の身体は今まで感じたことのない熱を帯びている。彼女を温められるなら、もっと熱くなってもいいと思う。背中に回した両腕に力がこもる。頭を撫でた指が頬をなぞり、珊瑚色に艶めく唇に触れる。彼女との唯一の隙間に顔を近づけてーー。

 

 だめだ。

 これはダメだ。これは、愛でもなければ恋でもない。

 こんな汚い感情を、彼女に向けて抱いてはいけない。

 

 閉じ込めていた腕を解いた。大事な人の体をソファに横たえて、コートをかけ直す。目が開く気配がない。

 俺が行おうとした過ちを、雅は知らない。


 iPhoneを持って給湯室を出る。彼女の無事を、誰よりも願っている人に連絡しなくてはいけない。底なしの沼みたいな銀盤を眺めながら何度も呼吸をする。冷たい静けさが、熱った身体と荒ぶった心臓を宥めてくれた。


 感情は沼だ。一度足を踏み入れたら抜け出せない。


 俺は引き攣る胸の痛みと共に、奥底から湧き出た感情に鍵をかけた。きっかけがあったら、すぐに壊れてしまいそうな脆い鍵。しっかりとした施錠を意識して、iPhoneをタップした。


 


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