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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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38.ぼくはここにいる


 なんでこうなっちゃったんだろ。私は普通にスケートをやっていたかっただけなんだけどな。父さんにもアーサーにも迷惑かけちゃった。私がジョアンナに何かしたのかな。何かしていたのかな。自分が意識していなかっただけで、何かやっちゃったんだ。苦手だし、嫌われている気がしたから、それで嫌な態度取っちゃってたんだろうな。監督からSNSは見るな、マスコミと接触するなって言われていたのに。これが自業自得ってやつなんだろう。


 部屋にいたら息ができなくなった。過呼吸になる手前でiPhoneを手放した。それでも心の何かが、痛くて、痛くて仕方がなかった。見てしまった言葉から離れてもそれは突き刺さったまま抜けない。いまでも心からとろとろと血が溢れているのを感じる。


 このままだと両親にも余計な心配をかけてしまう。明日もまともに練習ができなくなってしまう。……ここで泣いてしまうと、私はもう立ち上がれない。両親に気が付かれないように、何も持たずに外に出た。誰かがいるところにいたくはなかったけど、どこに行けばいいかわからない。


 結局スケートリンクの、滅多に人の来ないゴミ捨て場で座り込んでいた。ここなら誰もこない。何かを言ってくる人はいない。……突き刺さってしまった言葉以外、何もない。何もない。何事もなかった顔していなければならないのに。もう滑らない方がいいのかな。何もしない方がいいのかな。でも、それもしんどいな。やめたくないし、やめられないのに。なんでこんなことで私は落ち込んでいるんだろう。普通の人だったら落ち込まないのかな。杏奈だったら。てっちゃんだったら。


 てっちゃんは……。

 てっちゃんは、ジョアンナのことを庇うよね。そんなの当たり前だ。てっちゃんから見たら、私は好きな人を傷つけた最低のアバズレだもんね。そう思われるのは辛いけれど、仕方がないんだよね。人の口に戸を建てられないように、どう思うかを止める資格はないんだ。悲しいけど。悲しいって思っちゃだめ。傷ついちゃだめなんだよね。


 冷気が全身を刺す。暗いから夜なんだろうけど、一体何時なのかわからない。寒くて寒くて仕方がない。眠くはならないけど、意識が曖昧になる。眠っていないのに、夢で感じた霧の気配がする。そっか、私は一人になったんだな。だったら、心の血も、溢れきったら何も感じなくなるだろう。それまで私はここにいる。何かを見て、何かを言われても、何も感じなくなればいいんだ。私を信じてくれる人なんて、本当はいない。だから、心なんてなくしてしまえばいい。そうすれば、全部楽になる。

 どれぐらいここにいるかわからなくなってきた頃。


「雅」


 霧の彼方から、誰かが私を呼んでいる。気のせいかな。てっちゃんの声に聞こえる。

 勘違いだ。弱い私が、てっちゃんだったらいいなと、心のどこかで思ってしまっていたんだ。そんなはずないのに。


「雅」


 少しづつ声が近くなる。幻聴の割にはっきりしているな。


「雅」


 今度は、真上から。よく知る男の子の声。

 霧が晴れるほどはっきりしていた。

 そんなはずはない、という思いで顔を上げる。

 驚きから、私は冷たい息を吸い込んだ。全身を悪寒が包み込む。でも寒さは気にならなかった。俄かには信じられない。何で。どうして。

 肩で息をして、冷気から顔を赤く染めたてっちゃんがそこにいる。冬物のコートとジーンズ姿で、夜の空をバックに佇んでいる。夜空は澄み切っていて、星の瞬きが美しかった。私に相応しくない輝きに居た堪れなくなる。


「どうしててっちゃんがここにいるの?」

「それはこっちのセリフだ。涼子先生から連絡をいただいて。……心配したんだ」


 口が、変なふうに歪んだ。泣いているような、笑っているような。そんな情けない顔をしてしまったかもしれない。

 馬鹿だなぁ、てっちゃんは。心配する相手を間違えているよ。なんで私なんかを心配しているんだろう。私は、てっちゃんから顔を逸らして立ち上がる。


「帰る」

「雅」

「ごめんね、余計な手間かけちゃって。もう大丈夫だから」


 てっちゃんに何かを言わせる隙間がないよう、淡々とした口調を意識する。しっかりしなきゃいけないのに。本当に私は全然だめだ。

 私の足が動く前に、てっちゃんの手が私の腕を捕まえた。思わぬ痛さから振り向くと、てっちゃんは怒っているような、真面目な顔をしている。


「痛い。離して」


 てっちゃんはだめだと首を振る。


「余計な手間とか、もう大丈夫とか、違うだろ。お前は、全然、大丈夫な顔をしていない。だったら、なんで家を抜け出したんだよ。どれだけ先生たちが心配してると思ってんだよ」

「そうだね。だから帰る。帰って、父さんと母さんに謝らないと。何にもないから、もう大丈夫だって言わなきゃ」

「そんなの嘘だ。お前は何でも顔に出るんだから。俺が知らない筈ないだろ」

「わかったように言わないでよ!」


 怒鳴って、一瞬で後悔する。

 てっちゃんの顔が揺れた。前に見た、銃で撃たれた人の顔をしている。私の言葉に、まっすぐ傷ついている。なんでこうなっちゃうんだろ。てっちゃんを傷つけるのは私の本意じゃないのに。


「ごめん。ごめんなさい。でも、てっちゃんが心配することじゃないから。本当に大丈夫だから、お願い。離して」


 あなたには大事な人がいるんだから、そっちに行かなきゃだめだ。


「私のことはいいんだよ」


 表情筋を駆使して、なんとか頬の筋肉と口角を釣り上げる。

 水みたいにスッとした綺麗な顔が、真顔になる。切れ長の瞳が、私の瞳を捉える。私の腕を握る手は緩まない。てっちゃんの顔が見ていられない。精一杯の抵抗として、顔を背けて目を閉じる。

 息を吐く音。少しだけてっちゃんの手が緩む。その隙に抜けようとして、予想していなかった力に体が引っ張られる。


「ーー!」


 視界が何かに奪われて、息苦しさがやってくる。背中に何かが回されて身動きができない。耳元に感じる温かな息遣い。頬に柔らかく波打つ確かな鼓動。頭を撫でる滋味深い指先。

 状況を把握し、喉元から悲鳴が迫り上がってきた。

 焦がれてはいけない人の顔が、そこにある。


「嫌、嫌! 離して! やめて!」

「お前は俺の顔を見たくなさそうだったから。でも俺は、今のお前を離したくない。だからこうするしかない」

「だめ、だめだよ。離して」


 この人には大事な人がいるのだ。てっちゃんはその人のところに行くべきだ。たとえそれが、私を傷つけた人間だったとしても、てっちゃんにとってはかけがえのない恋人のはず。それなのに、私なんかを抱きしめちゃだめだ。

 腕の中から逃れようと必死でもがく。だけど、私がもがけばもがくほど、てっちゃんの腕はどんどん強くなっていく。大木に括り付けられているみたいだった。


「このままお前を一人にしたら、きっと俺が壊れる。……教えてくれ雅。お前を苦しめているものは、一体何なんだ」


 何もかも辛い。ジョアンナがなんで私を責めたのか、わからないのが辛い。何にもしていないのに、私が何かをやったことになっているのが辛い。突き飛ばしていないのに、お前がやったんだと言われるのが辛い。みんながみんな、私のことを責めているようで辛い。話が飛び火して、父さんやアーサーを巻き込んでしまったのが辛い。誰も信頼していないという言葉が辛い。私の人格を否定されたのが辛い。お前の技術は紛い物だと言われているのが辛い。


 何よりもあなたの存在が辛い。あなたがジョアンナと抱き合っていたのが辛い。それが何で辛いのかわからないのが辛い。でも、私はあなたのことが、苦しくて、辛くて、息ができなくて仕方がなかった。お願いだから優しくなんかしないで。ほっといて。……そう言いたいのに。

 口から出てきたのは、別の言葉だった。


「……私。本当に何もしてない。何も知らない。父さんとか監督は堂々としなさいって言うけど、でも」

「ここには俺しかいない」


 体に、てっちゃんの音が滑って、私の言葉を強く遮った。


「誰もいない。何も聞こえない。お前を傷付けるものは何もない。だから、我慢するな」


 硬い胸板に顔を押し付けられる。縋り付く形で、私の体はてっちゃんの腕の中に収まった。腕の力は強いのに、頭を撫でる手は何よりも優しい。傷口を癒すような仕草に、私の体がびくっと跳ねた。


 それが合図だった。


 一度流れはじめると、止め方がわからない。止められない。ぼろぼろと落ちてくるそれを、てっちゃんのコートが全て吸い取っていく。


「私、本当に何もしてない! どうしてみんな信じてくれないの!? 勝手なことばっかり言って! 私がみんなに何をしたっていうの!?」


 私は大きな声を上げて泣いた。出てくる言葉は支離滅裂で、その度にてっちゃんは何も言わずに、私の背中をさすってくれた。突き刺さっていた言葉の棘が丁寧に抜かれて、心の底から溢れていた血が少しづつ収まっていく。大きくて広い手は、ガラスよりも繊細なものを取り扱っているみたいだった。


 てっちゃんはひどい。ひどくて、ずるい。ずっとずっと、この人のことで私は傷ついていたのに。まともに話だってできなかったのに。顔だって見られなかったのに。心なんてなくしてしまいたかったのに。てっちゃんは泣いていいなんて優しい言葉を言う。


 でもそれを言ったら、私だって弱くてずるい女だ。


 本当はこうやって甘えちゃいけないのに。彼には大事な人がいるのに。迎えにきてくれて、抱きしめてくれたことに、この上ない喜びを感じてしまっている。


 今だけは許してくれるかな。

 この人の温もりが、どうしようもなく嬉しかった。ずっとこの中にいたい。そう思ってしまうほど。

 


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