36.2017年2月、ジョアンナ・クローンの乱【星崎雅の視点 後編】
会長の言葉通り、日本スケート連盟は、私にヒアリングをした当日にUSフィギュアスケートに返信し、その文書をスケート連盟の公式サイトに掲載した。
動画は最後まで見られなかったが、ジョアンナが言及したのが私だけで、同じ大会に出ていた杏奈については何も触れていなかった。
親友は傷つけられていない。それには心底安心した。
あれから数日経った。テレビもつけず、ネットニュースを見ないように注意を払いながら、練習して過ごした。
ホームリンクのアイスパレス横浜は、スケート連盟の公式サイトに文書が掲載されたのを受け、マスコミの出入りを当面禁止とし、しばらく取材の受付はしないと公表した。
「迷惑をおかけいたしますが、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます」
父と私は、アイスパレス横浜に所属するインストラクター全員を集めて事情を話し、もしマスコミから接触されても何も答えないよう願い申し出た。
「大丈夫ですよ。ここにいる人は、みんな雅ちゃんを信じてますし。そのうちマスコミも何もないって気が付きますよ、バカじゃないんだし」
信じている。一人の先生がそう言ってくれた時は、泣きそうなほど嬉しかった。他の先生たちも同意してくれた。堤先生は無言で、何かを考えているみたいだったけど。
しかし 情報は完全にはシャットアウトできないもので、ネットニュースのトップに掲載された記事を思わず見てしまった。
『女子フィギュア星崎、妨害騒動』という見出しの記事は、主に6分間練習の私の行動を主に記述していた。6分練習は誰のものではないから、慎んで然るべきである、とまとめてあった。全面的にジョアンナを擁護していて、読んで気持ちが滅入る。連盟が文書を出しても、こういう記事は出てしまう現実がそこにある。
杏奈からはすぐに電話が来た。
「大丈夫? ちゃんと過ごせている?」
正直、大丈夫とは言えない。でも心配させたくなかったので、全部連盟に任せているからなんとかやっていけてるよ、と伝える。何かあったらちゃんと知らせて、と言ってくれる杏奈が好きだ。だからこそ、何かあっても言うべきではないと思った。
指に残った傷はなかなか治らなかった。絆創膏を貼り替えるたびに、猜疑心が膨らんでいく。これが民意だ、と言われているみたいだった。
あの動画、どれだけの人が見てるんだろう。
みんな、本当はなんて思ってるの?
ラインの連絡はミュートにした。スケート仲間や学校の友達から、何か連絡が来たかもしれないが、見る気になれなかった。
朝6時半。練習のためにアイスパレス横浜に向かっていると、入り口で記者らしき人たちがたむろしている。スケーターの朝は早い。スケーターを支える保護者の朝も。クラブの保護者の方に聞き回っているみたいだった。あれからテレビを見ていないけど、マスコミが来ているっていうことは、記事に載せたり番組を作るのが目的だ。入れずに途方に暮れていると、誰かに肩を叩かれた。振り向くと、三十代半ばの中肉中背の男性が真後ろにいる。くたびれたジャケットと軽薄そうな面持ちの男性は、私の顔を確認すると、捕食者特有の笑顔を浮かべた。
「星崎雅さんだよね? 今回の件について、ちょっと話を聞かせてもらえないかな?」
こういうものですが、と名刺を渡される。週刊マンデー、記者 滝本明夫。私でも聞いたことのある週刊誌の記者だ。
やばい。入り口に気を取られてわからなかった。監督からも接触しないように言われていたのに。
「すみません、話せることは何もありません。お聞きになりたいことがありましたら、連盟にお問い合わせください」
何かあったらリンクの裏口から入るようにと父に言われている。失礼しますと頭を下げて裏口へと走ろうとした。
「今、あなたがここにいるって大声で叫んでもいいんですよ。俺は一向に構わないし。ですが、あなたは困るんじゃないですか?」
その言葉に驚いて、思わず記者の方に振り向いた。
これは脅しだ。話さないともっと大変なことになるぞ、という。ここでこの記者に話して終わりか、逃げて別の誰かに追いかけられるか。
わかっているのに、足が固まって動かない。
立ち止まる私に、記者が距離を詰めてくる。
「ちょっと話を聞くだけじゃない。ねえ?」
ヒルみたいな笑顔だった。
ここには誰もいない。監督も、両親も。今は私一人だ。スケートバックを持つ手に自然と力が入る。
「この写真、SNSで出回っているの知ってる?」
スマートフォンを画面を見せる。階段の踊り場で倒れているジョアンナと、それを上から見下ろす私の構図。……何これ。いつの間に、誰が撮ったの? 目を白黒させている私に、記者が追い討ちをかけてくる。
「この写真から、あなたがスケート連盟に虚偽の報告をしたっていう噂もあるんですよ。連盟に、あなたはクローン選手の邪魔はしていない、突き落としてはいないと言ったそうですが、それ自体が本当は嘘なんじゃないですか?」
足が凍りつく。
なんでそういう話になるんだ。
「話してくれませんかね? あなた、何をしたんですか?」
「……何もしていません。本当にたまたまなんです。たまたま通りがかったらクローン選手が倒れていて、応急処置を施しました。それだけです。6分間練習は何もしていません。みんな必死なんです」
「そんなたまたま誰も信じませんよ。火のないところに煙は立たないんだから。だったら、なんで、そのクローン選手のコーチは何も言わないの? 君が本当に恩人なら、真っ先に違うっていうんじゃないの?」
それはその通りだ。今のところ、リチャード・デイヴィスコーチの発言はメディアから出ていないようだ。私が見ていないだけかもしれないけど。……なんでジョアンナの言葉は正になって、私の言葉は無かったことなるのだろう。
「君のお父さんが一枚噛んでるっていう話もあるし、ねえ、どうなの?」
プツン、と何かが切れる音がした。
「父さんは何もしてません。あなた、なんの権利があってそこまで聞いてくるんですか!」
思わず、大声で反論してしまった。でも一線を超えたのは記者の方だ。私のことならまだわかる。でも、何も関係ない父さんまで巻き込むのはどうなんだ。
記者は私の声に動じることなく目を細めた。
「父さん、は、何もしてないんだ。じゃあ、君は何かしたんだね。何をしたの?」
はっと我に帰る。
やられた。言葉の罠に簡単に引っかかった自分を呪いたくなる。
「なんの権利って、俺は記者だから、真実を書かなきゃいけないんだよ。それがお仕事なの。だから、嘘ばっかり言っていないで、本当のことを教えてくれない? 今のままじゃ、誰もあなたの言葉なんて信じないよ?」
……ゴシップまがいの嘘ばっかり書いて娯楽で真実というのなら、あなたの仕事のなんの意味があるのか。あなたに、私を卑怯だと批判できるのか。
私は嘘なんて言っていないのに。
溢れ出る嫌悪感と、自己嫌悪に苛まれながら、なんとか言葉を絞り出す。
「話はありません。もし詳しく知りたいなら、連盟にお願いします」
私は記者に背を向けて走り出す。他のマスコミが私の気がついたようで、カメラを向けていた。
その記者は追いかけてこなかった。代わりに、またきます、という不吉な言葉を背中で受ける。
もう来ないでほしい、と願いながらリンクの裏口に入る。
父は私よりも早い六時にはリンクに来ている。リンクサイドに佇む父の姿を見ると、力が抜けて、ばくばくと心臓が早鐘を打つ。気持ちが悪い。私の顔を確認すると、俄かに血相を変えた。相当ひどい顔をしていたようだ。
「雅? 何かあったんですか?」
「なんでもない。大丈夫。用意してくる」
なんでもなくはない。でも、ここで父に話してしまったら、私はもう動けなくなってしまう。
誰もあなたの言葉は信じない。火のないところに煙は立たない。
……私は、何を信じればいいんだろう。
✴︎
見ないようにしていても情報は加速していて、思いもよらない方向に話題が飛んでいく。一つの騒動が、別方面の問題を生み出したりする。
週刊誌の記者と鉢合わせしてから二日経ったが、あれから姿は見ない。マスコミも少し減ってきたように思う。書くことを書いたから姿を現さなくなったのか。それとも、別のところに行ったのか。
騒動があって少し変わったことがある。アイスパレス横浜の一般客が俄かに増えたのだ。一般客の利用時間と私の練習時間は少し被っている。その時に、私が滑っているところを見ているような気がした。思い違いであって欲しいけれど。
「雅ちゃん、あなたなんかやったの?」
リンクサイドで休憩をしていたら、保護者に声をかけられてギョッとする。
「なんの話ですか?」
心に鎧を纏わせながら尋ねる。
保護者の方は、名古屋から移籍したジュニアの女の子の母親だった。研究熱心なスケートママ。横浜はぬるい、もっと練習させて欲しいのにってこぼしているのを聞いたことがある。
「SNSでも流れてるのよ。アメリカのこの子が、あなたに妨害された上に、突き飛ばされたって。だめよ、気に食わないからといって、そんなことしちゃ」
女の子の母親……真紀ちゃんのお母さんは、父に対して苦い思い出がある。移籍した時に、真紀ちゃんを父に師事させようとして断られのだ。父は、自分より相性の良さそうな指導者がいたら、そちらを紹介する。ただ、真紀ちゃんのお母さんは門前払いされたと思ったようだ。私に面と向かって、あなたのお父さんは傲慢ねと言い、返答に困った過去が蘇る。
私のことを、真紀ちゃんのお母さんがどう思っているかはわからない。あまり快く思っていないのかもしれない。このクラブに所属しているからと言って、私のことをしっかり知っているわけではないのだ。
「そんなことしてないですよ、私」
なるべく明るく聞こえるように努めた。ここで、この間の記者みたいに声を荒げてしまったら、自分がやったと認めたと思われてしまう。
「本当に?」
「はい。詳しいことはスケート連盟に聞いてください。それが全てです」
SNSを見ただけの一般の方から聞かれたら、スケートリンクに通っている保護者から聞かれたら、なんて答えればいいのか。
練習に戻ろうと靴を履くと、真紀ちゃんのお母さんは勝手に喋り出す。
「わかってるわ。あの子、とっても綺麗だものね」
「え」
反射的に振り向く。あの子、綺麗。ジョアンナのことだ。
「検証動画。あら、やだ知らないの?」
こういうの、SNSでたくさん出回ってるのよ、とスマートフォンを扱う。見せてきたのは、動画サイトとツイッター。
『星崎雅とジョアンナ・クローン、どっちの技術が優れてる?』
動画再生数二十万回。投稿日は昨日。
全く知らないアカウントが作った私についての動画が、SNSでバズってる。
それは、私とジョアンナの、一つ一つの技を検証し、どちらがより加点をもらっているか、どちらの技術が優れているかを評論している動画だった。自称フィギュアスケートYouTuber。それから、曲に対する表現、音楽性がどちらが感じられるか、リズム感があるか、プログラムと一体化しているか……。動画は総合的にはジョアンナの方が上手で、劣っている私が妨害して精神攻撃していたのではないか、という言葉で締めくくられていた。
「やっぱりアメリカの子、スケートも滑っている姿勢も綺麗ねえ。あなたもジャンプだけじゃなくって、ビールマンぐらいできるようになったらいいんじゃない? 直接あなたを見た人の感想もみんな呟いとるわ。この人の動画とかに色々話題になっとるわ」
マスコミは遮断できても、一般人を装ったYouTuberは見抜けない。一般客が増えた理由に怖気が走る。SNSでの話題作りだ。
真紀ちゃんのお母さんは、その人なりの善意で言っている。そう言い聞かせないと、心の均衡を保てない。でも、スケートを少しでもやっている人だったら、ビールマンスピンを「ぐらい」とは称さない。あれがどれだけ難しい技か理解できるからだ。
氷に立たない人は、どんなに難しい技でもできて当たり前だと思っている。真紀ちゃんができる技だからだ。
「こう見ると、あなたのシェヘラザードって、なんだか子どもっぽいわねえ。クローン選手は、姿勢が綺麗で本当にうっとりするわ。ガラスの靴で滑っているみたい。内面が美しいのは演技に出るのよ。妨害なんてしていないで、見習わなきゃいけないわね」
この人は多分、私がジョアンナに嫉妬して妨害したのだと思っている。ジャンプしか取り柄のない星崎雅が、勝つために場外で画策している。
「だから私は……」
「こういうの、みんな見とるのよ。だから、たまにはSNSでのファンの言葉に耳を傾けたら? おばさん応援してるから。こう言われることを、ありがたいと思わなきゃね」
私の言葉をかき消して、氷上にいる娘の練習に目を向けた。私に言ったことなんて、通り過ぎの言葉ですよ、と言わんばかりの態度だった。
気にしちゃダメだ。検証だって、真紀ちゃんのお母さんだって、氷の上での厳しさを知らないひとの言葉だ。だけど。
みんなって何?
「一日ぐらい休んだら? 最近、ちゃんと眠れてないでしょ?」
練習を早めに切り上げて、父の車で家に帰った。夕飯を半分以上残す私に、母が提案してくれた。食べられたのは、豆腐の味噌汁とサラダだけ。体はくたびれているのに、何かを食べようという気力がない。神経が尖りすぎていて、空腹を感じない。
「大丈夫だよ。休んでいる暇なんてないし、眠れてなくても体は休めているから」
「でも心は休めてないでしょ?」
母の言葉に、私は首を振った。
「だめ。休めない。私は世界選手権でちゃんと結果を出さないと。時間もそんなにあるわけじゃないし、一日休んだら怠けちゃうよ」
明日もあるからもう寝るね、と母に言って自室に入る。
ちゃんと眠れていない。あの霧の夢を見てから、私の睡眠時間は平均して三時間ぐらいだ。起きている間は神経が尖っていて眠くならないし、布団に入れば眠るのが怖くて仕方がない。もう二度とあんな夢を見たくない。数時間目を瞑ったまま意識を保ち、浅い眠りと覚醒を繰り返しているうちに朝になる。
パジャマに着替えるのが億劫になり、部屋着のままスマートフォンだけ持って布団の中に潜る。自分の中の、何かがすり減っている。
あれから何回かアーサーから着信があったけれど、出る気になれなかった。
アーサーは優しい。薄っぺらいことは言わない。でも、本当はどう思っているかがわからなくて怖かった。
誰もあなたの言葉は信じない、という記者の一言が背中に張り付いていて。
たまにはSNSでも覗いたら? という真紀ちゃんのお母さんの言葉が耳に残っている。
みんな本当は、どう思ってるんだろう。
自分の預かり知らないところで、自分のことが話題になっている。
見るべきじゃないってわかっている。だけど限界まで膨れ上がった疑心暗鬼が、ネットを開かせた。
『この間、アイスパレス横浜まで練習を見に行ったよ。本当にジャンプだけの選手って感じ。クローン選手が相手にするほどじゃないっていうか』
『スケ連が声明出したのはグッジョブだけど、マジで調べたのかな? いまいち信用できないよな。本人が何か言えば別だけど』
『親父がコーチなんでしょ? 今までの成績だって、親父がジャッジに金でも積んだんじゃない? よく見りゃトリプルアクセルだって回転足りてねえじゃん』
『この動画見ると、どっちがどう邪魔しているか一目でわかる。6分連は自分だけのものじゃないんだから、もっと気をつけてやって欲しい』
『クローン選手って、三人兄弟の一番上で、バイトしながら競技続けているらしいね。心が綺麗なんだね。今までよく我慢してきたと思うよ』
見れば見るほど、動悸が激しくなる。吐き気がする。
知っている。見なければいいだけの話だって。それでもスワイプする手が止まらない。もしかしたら、私を擁護する言葉もあるかもしれない。だけどそんなものは見つけられなかった。
『こいつ、カナダの選手とペアの真似事して調子に乗ってるんだろ? 人の邪魔して怪我させておいて自分はイケメンと滑ってるとか、マジ最低のアバズレじゃん。スケーターの恥』
これが、みんなが思ってることなんだ。
てっちゃんもそう思ってるんだろうな。だってジョアンナが好きなんだから。
涙は出てこなかった。
代わりに、心から大量の血が噴き出てきた。
ダメだ。息ができない。息が……。




