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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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60/66

35.2017年2月、ジョアンナ・クローンの乱【星崎雅の視点 前編】

 

 それは最初、手紙の形でやってきた。

 

 四大陸選手権も終わった数日後の土曜の朝。早朝練習を早めに切り上げ、自室でスケート連盟から受け取ったファンレターを読んでいた。今日は午後に再び氷上練習を行う予定だ。


 基本的にファンレターは、自宅住所ではなく、所属しているスケートクラブやスポンサー、そして日本スケート連盟宛にやってくる。


 四大陸選手権は、杏奈と私がワンツーフィニッシュ。その影響からか、受け取る手紙も今までより多い。ちらちらと中国語や英語のものも混じっている。また、エキシでの私とアーサーのプログラムは、スケート関係者の中でも話題になっているらしい。インタビューでも「ペアの予定はありますか?」と聞かれたものだ。

 実際に応援してくれる人がいて、手紙まで下さる方がいる。自筆の手紙を見ると、なんだか元気が出てくる。これは韓国の方、これは北海道の方。便箋が最後になり、一瞬訝しむ。

 差出人の名前が書かれていなかったのだ。しかし宛名は、はっきりと日本スケート連盟、星崎雅様宛と書いてある。……癖のある筆記体で。


 なんだろう? と首を傾げる。封をハサミで切り、中身を改める。


「いたっ」


 カン、と小さいものが落ちる音と私の声が重なった。

 何故だか、右手の人差し指を負傷する。便箋を机の上に置き、私の指を傷つけた何かを見つけて心臓が飛び跳ねる。

 右手の人差し指から、みるみる赤い液体が溢れてくる。

 飛び出てきたものは紙だけではなかった。細長くて、手紙に入るぐらい小さい。触れると容易に傷をつけられるもの。

 これ、剃刀だ。

 そう意識した途端、痛みが増した気がした。

 わけがわからず戸惑っていると、自室ドアがノックされる。どうぞ、と返すと、険しい顔の父がいた。


「雅、今日の二時ですが、時間はありますか?」

「え……。まぁ。それよりも、どうしたの。そんな顔で」

「今日、私と二人で日本スケート連盟までくるようにと市川監督に呼ばれました。わけがわからないので、理由を聞きましたら、緊急に話すべきものでした。練習はその後になりますが……その指、どうしましたか?」


 言葉の途中で、父が私の指に気がつく。


「あー……、手紙の封を切ろうとして、間違えて指切っちゃった。でも大丈夫。大したことない」


 曖昧に笑って誤魔化す。まさか手紙の中に剃刀が入っていた、なんて言えない。

 父が、私の手と、机の便箋を見比べて、厳しい声音で言い放つ。


「その手紙、見せなさい」

「え、でも流石にファンレターだし、人に見られるのは……」

「いいから見せろ!」


 戸惑う私に、父が声を荒げた。練習以外で声を上げることがないため、驚いて固まる。その間にも父は、机の上の手紙をひったくり、音を立てて開いた。

 修羅の形相なり、そして、その手紙を一息に破いた。


「父さん!?」


 思わぬ父の行動に仰天する。怒りを抑えた顔で、何も言わずに復元不可能なまでに細かく破いて、手紙だったものをゴミ箱の中に入れた。


「あなたが見るべき価値がないものです。この手紙は忘れなさい。そこにある凶器も、一緒にゴミ箱に入れますよ」

「いや、これは」

「中に入っていたんじゃないですか? あなたはこういう嘘は苦手ですから。指もちゃんと見せなさい。……結構深いな」


 父は救急箱を取りに私の部屋から出ていく。

 私はしばらく赤く流れる血を見つめていた。手紙はもう読めない。ゴミ箱から拾ってセロテープで止めれば、何が書いてあるかわかるかもしれない。

 だけど到底そんな気にはなれなかった。

 何? 何が起こったの?

 

 *

 

 高速を使えば、横浜から新宿まで三十分ぐらいだ。運転する父は終始無言で、話しかけていいかどうかわからなかった。走行音とラジオだけが無作為に流れていく。

 絆創膏に包まれた指がじくじくと痛む。

 新宿の日本スケート連盟が入居しているビルに辿り着くと、すぐさま会議室に通された。待ち構えていた人物は、市川美佳監督。そして。


「麻生会長」


 さしもの父も顔色を変える。

 そこにいたのは、ドルトムントの白百合。

 三十半ばの、セミロングの痩身の女性。堤先生と同世代のクールビューティー。ソルトレイクシティ五輪女子シングル日本代表。04年世界選手権優勝の実績を持つ、現役のプロスケーター。

 日本スケート連盟の若き会長、麻生繭子。


「いきなり呼び出してごめんなさい。流石に私も看過できない案件なので、同席させていただくわ」


 会長まで出てくる案件なんて、よっぽどのことだ。私、何かした?

 かけてください、と監督に促されて椅子に座る。私と父の座るテーブルには、あらかじめペットボトルのお茶が用意されていた。


「単刀直入に言うと、海の向こうであなたが炎上しているわ」


 炎上?

 切り出したのは市川監督だった。監督が座る席には、ノートパソコンが設定されている。

 監督がパソコン画面を私に向けた。海外の動画サイトみたいだ。


「この動画、ちょっと見てくれない?」


 動画のタイトルは、『デトロイトニュースナイト 2017/2/22 衝撃の独占インタビュー、全米女王の苦悩』

 静止された動画のサムネイルでは、見覚えのあるインタビュー記者が、もっと見覚えのある金髪の美少女にマイクを向けている。二人は向かい合って座っている。美少女の右足首は、頑丈にテーピングがされている。アメリカのニュース番組らしい。記者は、スケートアメリカで、私と杏奈に失礼な質問をしてきた人。金髪の美少女は言うまでもない。デトロイトのディズニー・プリンセス。


 ジョアンナ・クローンだ。

 監督がクリックをして、動画が再生された。


『今夜は我々NYウィークが、この場をお借りして独占的に全米女王にインタビューさせていただきます。まずはジョー、全米選手権優勝おめでとう。あれから一ヶ月経ちますが、調子はどうですか?』

『どうもありがとう。ナショナルの時は全てが当てはまったかのようにうまく滑れたの。振り付けが体に馴染んで、私の感情のままに滑れるようになったわ。何よりも、ストレスのない環境だったのが一番だったかしら』

『ストレス? どう言ったことでしょう?』


 記者が大袈裟に尋ねると、ジョアンナは、そんなの言いづらい、みたいな仕草をする。顔色はあまり良くなく、どことなく覇気がない。少し控えめで、男性の庇護欲をそそるような仕草。弱っている美少女ほど、守りたいと思わせるものはないのかもしれない。


『ジョー、あなたが何か悩みを抱えていたのは知っています。私も視聴者も、みんな味方です。ここで打ち明けてくれませんか?』

『いいの?』


 もちろんです、と記者が微笑む。

 その答えに安心したのか、ジョアンナの顔が崩れた。


『ずっと苦しかったの。大会のたびに邪魔されて。私はそのたびに調子を狂わされて』

『邪魔。それは誰に、どのような?』


 6分間練習、と目を伏せながらジョアンナが呟く。


『6分間練習は、演技の前、最後に氷上で調整できる時間ですよね?』

『ええ。実は、スケートアメリカと四大陸選手権の時の6分間練習に、私が練習しているところを日本の一人の選手に妨害されたの。ジャンプの直前とか、ぶつかるんじゃないかと怖かったわ。でも、今まで辛くても誰にもいえなくて』


 ……スケートアメリカと四大陸。

 それ、私が出ていた大会だ。かつ、ジョアンナと出場が被っていた大会。

 そんなことがあったんですか? と、両手をあげてオーバーに記者が驚く。


『それでは検証してみましょう』


 どうぞ、と記者が手のひらを見せ、画面が切り替わる。

 心臓が、嫌な感じにどくんと跳ねた。

 私だ。スケートアメリカの時の、6分間練習。確かにあの時、ジョアンナとぶつかりそうでひやっとした瞬間があった。

 動画では、スピードを出しすぎた私を、ジョアンナがさっと避けたように見える。その瞬間だけ、スローモーションに編集されている。

 私の中の事実は逆だ。滑る軌道上に、よろよろと彼女が現れたので、ぶつからないように避けた。


 もしあれでぶつかっていたら「お互い様」で済んでいた話だと思う。……そう思うのは私だけなのかもしれない。


 今度は彼女が「ひどい」と言ったもう一つの大会、四大陸選手権に動画が切り替わる。

 これも私だ。やっぱりショートプログラムの6分間練習。ジョアンナと私が、ぶつかるスレスレで……彼女が避けたように編集されていた。……いや、ちょっと待って。これは私がいるところに、彼女が突っ込んできて、やっぱり私が咄嗟に避けた。

 画面がインタビューに戻る。


『確かにこれは危険です。6分間練習は出場する選手する誰もが必死で行っているのに、これは故意にやっているように見えますね。このシーズン、あなたの成績が安定しなかったのは、彼女の妨害によるストレスだったのですね?』

『ええ。彼女がいる試合は怖かったわ。私のジャンプの軌道を徘徊しているんだから。いない試合はものすごく落ち着いたの。それでも私は頑張ったわ。こんな卑劣な真似をしてくる人に負けたくなかったから』


 脳がショートして、喉がからからに渇く。6分間練習で誰かの邪魔をしようなんて、私は考えたことがないのに。


『それだけじゃないわ。この足見て』


 この足、とジョアンナは右足首を指差す。


『四大陸の時、女子フリーの開始直前に、彼女に階段から突き飛ばされたのよ。彼女はそれで表彰台、私は棄権せざるを得なかった。……ねえ、私が何したの? 何もしてないわ』


 ガタン、とパイプ椅子が派手な音を立てて床に倒れた。

 インタビューは続いていく。


『ジョー、それだけひどいことをされたのに、どうしてその時に言わなかったの?』

『口止めされていて。自分で突き飛ばしたくせに、勝手に転んだ私を、彼女が助けたようにしろって言われた』


 そんなこと、一言も言ってない!


『そんな卑劣なアスリートが存在していいのでしょうか』


 記者が何か言っている。ジョアンナが何か喋っている。記者が何かを聞いている。でも聞こえない。耳の奥がぐわんぐわん鳴っている。衝撃が大きすぎると、言葉をシャットアウトする機能が頭についているみたいだ。

 足元が不安定に感じる。足に力が入らなくて、息ができない。


 これを見た人は、みんな彼女のことを信じるの? 私のことを、卑劣なアスリートって思うの?

 手が震える。

 気が遠くなる。

 気持ちが、悪い。


「雅、もう見なくていい」


 監督、もうやめてください、と言う父の声が遠く感じる。


「父さん……」


 いつの間にか私は立ち上がっていて、父に肩を抱かれていた。しっかりとした父の手に支えられて、椅子に座る。用意されていたペットボトルのお茶を半分ほど飲み干して、何度も何度も呼吸をする。

 パソコンの画面を見ると、暗く静まり返り、恐ろしい動画は終わっている。

 監督が私に頭を下げた。


「……嫌なもの見せてごめんなさい。最初はミシガン州のニュースだったんだけど、誰かが動画サイトにアップロードしたみたいね。ニューヨークの大手新聞でも載った上に、動画が全米中に拡散して騒ぎになっているわよ。それを踏まえて、今朝方、USフィギュアスケートから正式に抗議文が届いたわ。これが事実であるならば、スポーツマンシップの欠けた行為であり、大変遺憾に思うと。どう責任を取ってくれるのか、と」

「抗議文、見せていただけますか?」


 父が冷静に監督に尋ねた。メールできたらしく、監督がプリントアウトしていた。


「星崎雅がもし世界選手権に出場する予定なら、辞退させろと書いてありますね。こちらの事実確認もせずに、せっかちなことです」

「星崎さん」


 改めて、監督が私に顔を向けた。


「私はあなたがそういうことをやる人間じゃないって知っている。小さい頃から見てきたんだもの。これだって、向こうのマスコミやテレビ局が仕組んだヤラセだって思っているぐらいだし。でも、念のため確認しないといけない。申し訳ないけど。ーー本当に妨害なんてやっていないわよね?」


 この質問そのものが、私だけではなく、監督にとっても辛いものだと理解はできる。

 だからはっきりと答えた。


「やってません」

「四大陸の時、フリーの直前でクローン選手を突き飛ばしたりはしていないわよね?」

「やってません。そう言われるのは心外です」


 そもそも、その時の応急処置をしたのは私だ。感謝されるのはわかる。だけど、階段から突き飛ばしたなんて言われる筋合いはない。大体、証人もいる。リチャード・デイヴィスコーチだ。

 ……リチャードは何も言っていないのだろうか。

 それともわかった上で許可しているのだろうか。

 市川監督と麻生会長が頷き合う。そして、監督が私の顔を見据えて言った。


「わかった。なら、頭を下げる必要なんてないわ。こちらの落ち度は全くないんだから。あなたは堂々と、世界選手権に向けて練習していなさい」

「え……」


 信じてくださるんですか、と尋ねると、当たり前でしょうと憤慨する。


「代表は変えない。里村さんが怪我している今、あなたと安川さんに負担がいってしまうけれど。来年の平昌五輪の代表枠がかかっているの。いい成績を残せる可能性がある選手を、こんなくだらないいざこざで下ろすわけにはいかないわ。……総一郎、情報の取り扱いはきちんとしてね。向こうの騒ぎを聞きつけたこっちのマスコミが突撃するかもしれないし、テレビも変な情報が流れるかもしれない」

「言われるまでもありません。涼子にも、不安を煽りそうな番組はつけないよういいます。それは大丈夫でしょうけど。一応固定電話の電話線も外しておきます。日本のファンは信用していますが、万か一ってことがありますからね」

「その方がいいわ。マスコミがかぎつけてくるでしょうから。星崎さん、SNSは何かやってる?」

「……ツイッターを多少」

「インスタとフェイスブックは?」

「やってません」

「なら、ツイッターは今すぐ鍵をかけて。変な輩がコメント残すかもしれないから」


 久方ぶりにツイッターを開くと、幸いながらコメントはなかった。安心して鍵の設定をする。

 それでも、タイムラインを見ると、うわっとするほどの情報や言葉が流れてくる。それだけで激しい胸焼けを感じた。


「……しばらくツイッターのログインはやめます」


 その方がいいと市川監督が肯首する。これを眺めるだけで、気持ちが悪くなる。


「星崎さん」


 それまでずっと黙っていた麻生会長が口を開いた。


「USフィギュアスケートとデトロイトのテレビ局には今日中に返信するわ。事実無根であり、言いがかりも甚だしく、選手個人の名誉を著しく傷つけるものだと。それから、最近何か変わったことはあった?」


 私がアメリカから届いた一通の手紙に剃刀が入っていたと報告すると、監督は眉間に皺を寄せた。


「しばらく星崎さん宛に届いたファンレターは、全部連盟で検閲した方がいいかもね。申し訳ないけど、それでもいい?」


 監督の気遣いに、頷くより他はない。日本のファンは信用しているけど、万か一を考える。


「マスコミから質問されても、絶対に答えないで。連盟に任せてます、取材は連盟にお願いしますって投げちゃっていいわ。そうじゃなくても、接触されないように注意して動いて。私からの話はこれで終わり。会長は、あとはありますか?」

「では……。星崎さん」


 麻生会長の切れ長の美貌が私を見据える。


「一番怖いのは、マスコミをも使う大きな民意よ。民意はファンも巻き込むし、余計な誤解も生み出す。昔と違って今はSNSも発達している。あっという間に言葉が拡散していく。私たちは全力であなたを守る。だからあなたは、毅然とした態度で自分を守りなさい。あなたは、何も悪くないのだから」


 ✴︎


 会長と監督に頭を下げ、フォレスターの助手席に座り込む。会長と監督が信じてくれたことに、心の底から安堵する。


「まだ気持ちが悪いですか?」


 ……推し黙る私に、父が尋ねてくる。

 話し合いが終わったあと、全身が総毛だって吐き気が込み上げてきた。あまりの気持ちの悪さに耐えきれずにトイレに駆け込んだ。口から何も出てこなかったのに安心しつつ、体の奥に残った不快感は消えない。

 ジョアンナの弱々しい嘆きが、私の耳のあたりに残っている。

 小さく頷くと、父は私の頭を抱いた。


「辛いですね」


 思い遣る父の言葉に涙が出そうになる。父はいつも厳しい。だけど、いつも私のことを考えてくれている。氷上の修羅の面影は今はない。私のたった一人の優しいお父さん。


「あの動画はよくできています。誰かが、故意に、あなたが妨害したように編集したのでしょう」

「でも……。一体誰が」

「それを考えるのはあなたの役目ではありません。ここは周りの大人に任せなさい。私も涼子も、あなたの味方です」

「……ごめん、父さん」

「謝るのはよしなさい。あなたは何も悪くないんですから。帰ったら練習できそうですか?」

「大丈夫、できると思う」

「では、行きましょう」


 父は冷静にエンジンをかけた。

 来月末の世界選手権まで時間がない。落ち込んでいる暇なんてない。

 ……一度沈み切った気持ちはなかなか浮上しない。

 横浜になり、車は高速道路を降り、アイスパレス横浜の駐車場で停車する。


「少しでも危ないと思ったら、すぐにやめなさい。それか私が止めます。いいですね」

「ありがとう」


 なんでもない顔をして私は着替えて靴を履く。ロッカールームでリンクメイトと会話して、リンクサイドでノービスクラスの男の子と挨拶をする。

 ただそれだけで、ものすごい猜疑心が生まれてしまう。

 あの動画、誰かもう見てるんじゃないの? みんな私のこと、卑怯な人だと思ってるんじゃないの?

 そう疑ってしまう自分が、ものすごく汚く見えた。


 

 その日はあまり集中できず、くたびれ果てて家に帰った。今日は仕事のなかった母が、青い顔で帰った私の顔を見て、何事かと父を問い詰める。

 事情を全て話し、母は事態を重く受け止め、しばらくSNSは開かない、と宣言した。管理栄養士としても活動している母は、SNSにレシピを公開している。自分だけじゃなくて、周りにも影響をしてしまう。母に頭を下げると、よしなさいと笑った。


「雅が気にすることないわ。テレビだって面白くないし、ネトフリかアマプラを見ればいいのよ。SNSだって大した問題じゃない。たまにはデジタルデトックスもしないとね。固定電話きれば勧誘の電話もこないし、逆に気が楽よ」


 母さんは私がこれ以上暗くならないように、わざと明るく話している。

 両親は優しい。だから、もっとしっかりしなきゃ。私は、何も悪いことはしていないんだから。


 ……それでも眠ろうとして布団に潜って目を瞑ると、痛々しく語るジョアンナの姿が目に浮かぶ。

 明日も練習があるから眠らなきゃ。眠らなきゃ。会長も監督も、私を信じて代表に残したんだから。私は二人のためにもいい成績を残さないといけない。


 そう思えば思うほど、ジョアンナの顔、言葉、声が頭の裏側にこびりついて離れない。


 完全に眠れずにうとうとと夢と現実の間を行き来する。

 ……空が白くなる頃、濃い霧に包まれる。目の前にうっすら見えるのは硬い壁。着ているのはパジャマじゃなくて、母からもらったワンピース。……これは夢だ。ここ数ヶ月頻繁に見ていた悪夢。

 こんなところにもう居たくない。声が届かなくて、誰の手も取れない寂しい場所。逃げたいのに霧が重くて体が動かない。

 座り込む私の横を、風が通り過ぎる。


「痛っ」


 右の二の腕に鋭い痛みが走って、反射的に声が出る。袖口が裂けて、赤い線が出来上がっている。次は左側。脇腹から赤い血が流れる。


「何? 誰かいるの?」


 問いかけはほとんど叫びに近かった。

 返事はない。代わりに強風がやってくる。反射的に顔を庇うと、今度は体のあらゆる場所が切り付けられ……。


 自分の声で起き上がった。

 心臓が破裂しそうなほどうるさい。


 夢の中で痛みを感じた箇所全てを確認する。昨日切った指先以外、傷はない。……夢で私は、見えない何かに傷つけられていた。剃刀で指を切った時と同じ痛み。

 体に、夢で感じた痛みがじくじくと残っている。

 自分の体を抱きしめる。全てを清らかに照らす朝日が疎ましく感じられた。




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