34.二人は最強 【2017年 四大陸選手権 ⑧】
これはなんだ? と思わず首を傾げた。
四大陸選手権、上位入賞者が出演するエキシビション。
俺の出番は早々に終わり、後半が始っている。
氷上で生き生きと滑っているのは、女子シングルの二位の星崎雅とーー男子シングル六位の、アーサー・コランスキー。
二人による即興のプログラム。曲はアーサーのショートプログラムのスウィングジャズ。アーサーがクライド、雅がボニーになった『俺たちに明日はない』。
アーサーのプログラムをベースに、所々に、昔雅が滑った『二億四千万の瞳』の要素が散りばめられている。こんなことを思いつくのは、一人しかいない。俺の師匠の堤昌親だ。
背中を合わせて、アーサーと雅が縦横無尽に氷の上を駆け巡り、立ちはだかる敵にドカドカとマシンガンを乱射をする。タイミングを合わせてダブルアクセル。これは確かに面白い。
面白いけど、面白くない。不自然なほど息が合っている。
「仲良いわよねー、あの二人」
リンクの裾で演技を見つめる俺の隣立つのは、カナダの女傑。
「ミス・マクレア」
「ステイシー、でいいわよ。テツヤ」
ミルクティー色のボブカットが揺れる。黒のキャミソールタイプのセクシーな衣装を身に纏っている。
「やだ、あなたも結構かわいい。もし弟が生きていたら、あなたと同じぐらいの歳になるかしら」
「……あの時はご愁傷様でした」
カナダ女子のエース、ステイシー・マクレア。バンクーバー、ソチの二大会の五輪を経験している豪傑。バンクーバーでは銅メダルを獲得しているが、その一ヶ月前に弟をインフルエンザで亡くしていた。
良いのよ、と手をひらひらと振る。
「若いスケーターを見ると、みんな弟をみる気分になっちゃって。年下のスケーターは私にとってみんな弟や妹みたいなものよ。私、ミヤビのことも気に入っているのよね」
出雲さんもですか? と尋ねると、頷きながら、あの子は弟を見る気分になるじゃなくて第二の弟よと、赤い唇を弧に描いた。きたばかりの時は結構危うかったのよ、とも。
「そういえば、テツヤは聞いた? ジョアンナとミヤビの話」
「なんですか?」
この二人がセットで話題に出るのは珍しい。雅はジョアンナが苦手だし、ジョアンナから雅の話題が出たこともない。
「ジョアンナが階段から落ちて、捻挫したらしいんだけど、たまたま居合わせたミヤビが処置したって話。咄嗟にできるもんじゃないわよ」
階段から落ちたのは知らなかった。てっきり、急な発熱か練習中に怪我を負ったものだと。近くに雅がいたのが不幸中の幸いだろう。苦手でも、怪我をした相手を放って置けない。あいつはそういうやつだ。
彼女とのすれ違いは続いている。それでも、彼女のいい話があると、自分まで誇らしい気持ちになる。
わっと会場が沸き立つ。半分は驚愕、半分は感嘆。
「ーーえ?」
心臓が激しく波打つ。次にやってきたのは、混乱と動揺。
氷上で二人が行なっているのは、ペアならではの技、デススパイラル。男性が中心になり、女性のブレードで氷上に円を描く技。コンパスの針が男性、鉛筆が女性といえばわかりやすい。要するに、アーサーが雅を振り回している。
二人に聞いたらこう答えそうだ。「ちょっと練習したらできた」。
……即興でできるものなのか、これ。雅の母の涼子先生は元アイスダンサー。カップル競技出身だ。アーサーの両親は言わずもしれた元ペアチャンピオン。
アーサーの体格は父親に似ている。大柄で、肩幅ががっしりしている。ジャンパーとしての才能もあるが、女性を頭上に軽々持ち上げる姿も簡単に想像できる。ペアに転向する噂も、数年前から出ている。それに向けたトレーニングも行っているのかもしれない。
でも雅は違う。ずっとシングルスケーターで、誰かとペアを組んだことなんてない。合宿の時に、晶とアイスダンスのパターンダンスをやったぐらいだろう。
デススパイラルは、ツイストやスロージャンプ、リフトほど危険なわけじゃない。だけど、二人の息が合わないと絶対に成立しない。
知っていたはずの雅が別人に見える。
「あの二人、フランス大会のあと一緒に遊んでいたのよ。と言っても、あいつが勝手に雅を連れ回していただけなんだけどね。ホテルに一緒に帰ってきて、ずいぶん打ち解けていたみたい」
知ってる。パリの街でルリシューズ食べてたやつだ。
心の中に黒い墨がじわっと広がる。
「ずっと元気がなかったって、アーサーも心配してたわ。やっぱりあの子は笑っている方が可愛いわ。ICOも素敵だけど、こういうはっちゃけたやつも意外と似合うのよね」
……知ってる。多分、ステイシーやアーサーよりも。
一体どういう仲なんだろうか。即興でペアのスケートを滑れるほど信頼し合っている相手。呟こうとしていた言葉が口の中で消える。俺は一体、何を見つけせられているのだろうか。それとも、見せつけられていると思っているのは、俺だけなのか。
「落ち込んでる?」
「……そんなことはありません」
ステイシーは額面通りに受け取っていないだろう。飽きれたように鼻で笑った。
「テツヤはミヤビのカレシでもなければ、カノジョにしたいほど好きでもないんでしょ? だったら、勝手に落ち込むのが間違ってる。むしろ彼女が笑顔になったことを喜んであげなさい」
次出番だからいくわねと言ってステイシーはリンクへ向かっていく。
俺は袖から離れて、廊下の長椅子に座った。
演技が終わっていてよかった、と心底思った。こんな精神状態で滑っても、余計な恥を晒すだけだ。フィナーレまでに落ち着いていればいい。そう自分に言い聞かせていたら、ぞわっとした悪寒に襲われる。このシーズン、ずっと感じていたこれはなんだ。
少しうんざりしながら振り向くとーーその疑問がするりと消える。
「テツヤ」
その人物の姿が、一昨日までの輝かしい笑顔とは一転して暗澹としていたからだ。
テーピングをして、右手に松葉杖をついた姿に、自ずと目が見開かれる。思ったよりも捻挫は重症だったらしい。
「ジョアンナ。足は、大丈夫か?」
「平気よ。でも、しばらく安静にしてなきゃいけなくて。それはちょっと痛いかも」
「それは……。大変だったな。骨に異常はある?」
ジョアンナが首を横に振る。捻挫の割に重症だ。雅の処置が遅かったらもっと酷かったかもしれないのか。そういう意味でも、ジョアンナは運がいい。
「大丈夫だよ、焦らなくても。焦った方が、余計な怪我を増やすだけだから」
怪我をした状態で練習しても、ろくな結果にはならない。それは俺もよく知っている。
「ねえ、テツヤ」
何? と目で聞いてみる。……何か話したそうにしている。言いづらいことを打ち明けたい、そんな顔。
「私が落ちたあの時、本当は……」
ーー鈴のような声が、歓声にかき消される。二人の即興プログラムが終わったのだ。
「……何か言った?」
「なんでもない。何も言ってないわ。世界選手権までに足を治さなきゃね。頑張るから」
暗さを抑えた顔で、ジョアンナは笑う。少しだけ明るくなったので、ホッとする。
「お大事に。無理するなよ」
これ以上演技は見ないらしい。ショートの調子から、優勝するかもしれなかった大会だ。見ていても辛いだけだろう。
ジョアンナと別れの挨拶をする。背中を向けて、彼女は松葉杖を動かし始めた。フィナーレが近いから、俺も落ち込んでばかりではいられない。そう思って立ち上がる。
……さっきまで話していたディズニー・プリンセスのつぶやきが耳に届き、背筋に寒気が走る。
思わずジョアンナに目を向けた。
ジョアンナはリンクに至る入り口をじっと見つめている。彼女がどんな顔をしているか、ちょうど俺にはわからない角度だった。
なぜだか、その顔が見えなくてよかった、と思う。
あの先に、演技を終えたばかりのアーサーと雅がいるはずだ。
誰かが出てくる前に、ジョアンナは再び松葉杖を駆使して去っていく。音楽はステイシーのプログラムに変わった。廊下には俺以外誰もいなかった。舞台裏で俺に起こったことなど、ジョアンナが何をつぶやいたのか、誰も知らない。
謎の悪寒が襲ってきた時、ジョアンナは確かにこう言っていた。
どうしてあの子は何もかもうまくいくの? と。
嫌な予感がする。
そんな予感こそ、どこかに霧散してほしい。そう願っても、しこりみたいに胸に残り続けた。




