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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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57/66

32.仮面の告白 【2017年 四大陸選手権 ⑥】

 今大会の日程は不規則で、男子シングルは最終日の午前中に行われる。

 ショート五位の俺は、最終組三番滑走になった。


「……やっぱり衣装負けしてませんか、俺」

「演じているうちに馴染んでくるって」


 負けてるようでは衣装変更を打診しない、と堤先生は笑う。

 タックの入った白いシャツ。ダークブルーのジャケットは、後ろの部分が燕の尾のように長い。燕尾服風に仕立てた衣装は、改めて着ると板についていないのをはっきりと自覚してしまう。

 前の滑走はショート三位のチャン・ロン。詳しく演技を見ていないが、観客の反応から、相当いいものだったようだ。


「哲也。君、『大聖堂』って読んだことある?」

「……なんですか、藪から棒に」


 演技前にこんなことを聞かれるのも、もう慣れっこだ。


「だから『大聖堂』。ケン・フォレットの上中下3巻ある小説ね。居間の本棚にあるけど、読んだことはある?」

「ないですけど」


 そっか、とフラットに先生が呟く。


「今回のフリーを選んだのは俺だけど、この曲聴くと、俺、『大聖堂』を思い出すんだよね。ほら、カトリックの教会にはオルガンがあるところが多いでしょ? まさに今回の曲! サン=サーンスの最高傑作は聖なる恩寵の音楽! オルガン付きっていうところがニクいよねえ」


『大聖堂』は、先生曰く、中世イギリスを舞台にした大河小説で、大聖堂を造るために奮闘した人々の困難を描いた作品らしい。

 教会に行ったことのない俺でも、教会イコールオルガンという図式は簡単に湧く。この曲はサン=サーンスがキリスト教ーー教会のために作った音楽ではないが、どことなく神聖な印象を抱く。これもオルガンの効果なのだろうか。

 聖なるもののイメージ。

 チャン・ロンの点数が出た。一番滑走のジミーを抜かしてトップに立つ。


「じゃ、そう言うわけだから、行っておいで!」

「言うだけ言ってそれですか!?」

「一つの見方ってだけ。どういう風に感じるかは、君次第ってことでもあるからね。さ、行っておいで!」


 前までの俺なら、行ってこいじゃない、と突っ込んでいたかもしれない。

 今の俺は、名前を呼ばれてリンク中央に向かうまで、しばし考え込んでしまった。

 

 唸りながら、曲と向き合いながら、今の自分ができる最良の演技をしてきた。全日本から一ヶ月、四回転ループの成功率は七割まで上がった。三回転ルッツがステップアウトした以外は、ジャンプに乱れはない。終盤多少へばったがレベルは取れているはずである。

 しかし。


「君って、悩み始めるとドツボにハマるタイプだよねえ」

「言わないでください……」


 悪くない。悪くはないけど、何かが足りない。


「練習の成果が出て、動きが良くなってきたのが救いだけど。でも、君の身体から、君の滑りから、どういう音楽を鳴らせたいのかがまだわかんないね。旋律だけ追わなくなったのは収穫だけど、富士山で言えば七合目だね」


 流石に演技前に変なこと言いすぎたか、と先生はバリバリ頭を掻く。

 七合目。世界選手権前の最後の試合で、あと三合残っている。


 モニターの自分の演技から、音楽が感じられない。無音になると、ここまで味気なくなるのかと愕然とする。

 俺はこの曲にふさわしい人格にたどり着いておらず、精神性を得ていないのではないか。雅のシェヘラザードを見て、自分を顧みる。よく彼女の演技に対して、あんな感想を抱けたものだ。立派に成績を残しているではないか。


「ねえ哲也、これだけは言っておくよ」


 先生がモニターから目を離さずに口を開く。結果が表示され、チャン・ロン、ジミーに次いで三位につけた。その後も、アメリカのネイト・コリンズ、日本の神原出雲、カナダのアーサー・コランスキーと続くので、表彰台は難しいだろう。


「今回、俺が君に振り付けた作品は最高だ。でも、それは君が滑るから最高なんだよ。他の誰かが滑っても、美しいオルガンの音色が鳴り響く至高の大聖堂は作れない」

「出雲さんやアンドレイが滑っても、ですか?」

「当たり前だろう」


 こちらを振り向いた先生は笑っていなかった。少し怒っているようにも見える。

 振付師として、指導者としての矜持がこの人にある。


「早く君のオルガンを聴かせてよ。このシーズン、俺はずっと待っているんだからさ」

 

 ✴︎

 

 廊下のモニターに最終滑走者が映し出される。コリンズさんの良演技、出雲さんの至高のフリーと続き、残るはダヴィデ像の顔面をもつ美青年。顔色が悪いのが少し気になった。

 カナダのアーサー・コランスキー。

 燕尾服風の衣装は俺と似ている。ただし、俺がダークブルーなら、彼は漆黒。左手に黒、右手に白の手袋をしている。

 アンドリュー=ロイド・ウェーバー作曲。

 フリースケーティングは、ミュージカル『オペラ座の怪人』。

 怪人と歌姫の物語は、フィギュアスケートで愛される定番の一つだ。

 

 歌姫の高らかなソプラノから始まる。ステップシークエンスから始まるプログラムの序盤。アーサーの滑りはソプラノと相反する力強さが魅力だが、繊細な歌声と不思議とマッチしていた。

 この歌声は誰だろう。透きとおる水よりも透明で、私の心に食い込んでくる。歌われる歌詞や声の美しさではなく、聞き惚れる怪人の心を表している。

 ステップを終わらせると少し長めの助走から、リンクを半周するイーグル。つま先を百八十度開き、そのまま前向きに高く飛び上がる。

 夜空をかける天馬のようなテイクオフ。馬鹿でかい。どれだけ高さがあるんだろう。そう思った瞬間ーー。

 一回転のまま彼はジャンプから降りてくる。


 音楽はそのまま続いていく。


 怪人は歌姫に恋をする。その様を、アーサーは豊かに演じていく。

 手をゆっくりと伸ばす。指先が何かを触れて、愛おしげにその輪郭をなぞる。その仕草が、一瞬見惚れるほど美しかった。

 


 ……得点が表示され、男子シングルの順位が確定される。モニターの中のアーサーは、やっちまったと言わんばかりに顔を覆う。ショートの二位から一転、総合成績は六位まで落ちた。


 体調に問題があったのかもしれない。冒頭のトリプルアクセルのパンクをはじめ、四回転の予定が二回転になったりと、ジャンプミスは多数見受けられた。それでも、惹かれてやまない何かがある。


『オペラ座の怪人』では、怪人の恋が叶うことはないが、アーサーの演技はこう言っていた。

 怪人の恋が享受してもいいだろう、と。


 彼にあって俺にないものはたくさんある。例えばジャンプのダイナミックさ、力強さ。スピード。スケートのスケールの大きさと、それに同居する優雅さ。バタフライの高さ。大柄な身体から繰り出されるスピード感あふれる豊富なフットワーク。

 ……誰かに対する愛しさとか、身を焦がすほどの嫉妬とか。愛というものに対する激しさを、惜しみなく身体で表現できること。それは、不調ながらも終盤のコレオグラフィックシークエンスで存分に発揮されていた。

 その感情を確実に彼は知っていること。


 彼は自分に酔って、浮かれて滑っているのではない。

 このプログラムの時のアーサーは、出雲さんのSAYURIに匹敵する。


「……スケーターって、自分の知っている感情しか表現できないんでしょうか」

「なんだい、藪から棒に」


 思わず呟いた独り言を、隣で見ていた先生は聞き漏らすことなく拾う。

 モニターでは今、優勝した神原出雲のインタビューが流れている。


「アーサーはたくさん恋愛をしているから、ああやって滑れるんでしょう。でも俺は違う」


 アーサーの恋愛遍歴について、一昨日、酒で酔っ払ったアーサーをホテルまで運んで介抱しつつ、出雲さんが呆れながら語ってくれた。


「俺がカナダに来てから五年経つけど、その間に四人ぐらい彼女が変わってるね」


 聞いた瞬間、思わず絶句したが、今改めて演技を見たら、何故だか納得してしまった。

 彼は自分が得た感情、経験を、全て演技の中に落とし込められるのだろう。


 ジュニアの頃の『ロミオとジュリエット』。今期のショートの『ボニーとクラウド』。さっきの『オペラ座の怪人』。滑りに感情を乗せることを良しとしないスケーターもいるが、彼は間違いなくそれに当てはまらない。でもそれは、彼が、豊かな経験を得て、自分が表現すべき感情の名前を、きちんと理解しているからだ。

 もちろんその理屈が通用しないスケーターもいる。アンドレイ・ヴォルコフがその筆頭だ。年よりもいとけないアンドレイが、スケート靴を履くとあらゆる感情を滑り上げる。

 経験がないと、表現できないものがある。


 そう吐き出すと、そうかな、と先生が首を傾げた。


「経験していなくても、想像することはできる。小説家が、自分の経験したことは書けないっていうのかい? だったら、ケン・フォレットは十一世紀のイングランドに生まれていなきゃいけないし、女性にひどい暴力を何度もしていることになるね」


 俺だって同じさ、と先生が続ける。


「身を焦がすほどの恋を知らなくても、特別な経験していなくても、自分ごとに落とし込んで表現できるかもしれない。俺はアーサーをよく知らないから、どんな恋愛をしているかは知らないし。彼が経験じゃなくてああやって滑れてるんだったら大したもんだよ。でもまぁ、君の場合は知らないわけじゃないと思うよ」

「どういうことですか」


 よくわからずに聞き返すと、先生が、ショートのこと、とモニターから目を離してゆっくりとこちらを向く。


「気がついていないだけかもしれないし、単に目を逸らしているだけかもしれないってことさ。アーサーが、想像で滑ったのではなく、ちゃんと大事な人がいて、その人を思って滑ったのかもしれないし。じゃあ、君には大事な人がいないのかな」

「……それは……」

「君がこう聞いてきたのもいい機会だ。一旦忘れろと言ったのは俺だけど、このままだといけないからちょっと踏み込むわ。哲也、前に俺、大事な人に大事だって言えるように愛を込めて滑れって言ったよね。それを意識しながら滑るだけで、君のショートはだいぶ変わるはずなのに、君は何かを恐れて足踏みをしている。それってものすごく勿体無いと思わない?」


 先生の鋭い瞳が、俺の顔を見据える。茶化す要素もなく真剣だった。俺の迷いも、恐れも、全て理解している。先生は俺の何かに気がついていて、俺はそれを何も理解していない。

 次の試合は世界選手権。足踏みした演技で通用する世界ではない。

 そんなことはわかっているはずなのに。


「俺は……」

「君の心に、誰がいる?」


 胸の奥に、引き攣った痛みが走る。

 離したくない手ならある。

 向けてほしい顔ならある。

 振り払ってほしくなくて、泣き顔なんて見たくない。辛いことがあるなら言ってほしいし、何もなくてもあなたの隣にいたい。

 呼吸が浅くなって、頭がチカチカする。どうしてこう思うのかよくわからないが、一歩足を踏み出さなくてはならない。

 今、この感情に名前をつける時なのかもしれない。


「先生、俺は……」


 息苦しい。

 頭に浮かぶその人はーー。


「あー……。テツヤだ」


 思考が途切れた。

 声の方向を振り向くと、さっきまでミスがありつつも優雅な演技を見せていたカナダ人がやってくる。俺が話題に出していたそのひと。


「アーサー……。お疲れ様」


 胸の痛みが引いていく。少しホッとしつつ、演技中よりも顔が白いので、どうしたんだ? と尋ねる。


「お疲れ様ー。あー、やっちゃった。なんで今日の競技って午前中なんだよ。なんか、昨日食べすぎたみたいで、朝からめっちゃ腹痛いんだよね」

「何やってんだ!」


 トイレ行ってこい、トイレ! とダヴィデ像に向かって怒鳴る。そうするー、とアーサーはー呑気に手洗いに向かう。午前中に演技をしなきゃいけない大会なんて今までも経験しているだろうに!

 呼吸が正常に戻り、思考が霧の彼方に消える。

 視界の端で、先生が頭を抱えていた。

 



 四大陸選手権は、神原出雲が圧勝し、俺はショートと変わらずに五位に入った。掴みかけたものは手のひらから滑り落ちて、理想とは程遠い。

 それでも考え続けなくてはならない。

 世界選手権まで、あと一ヶ月半。

 

 


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