30.彼女たちのプライドについて(星崎雅の場合) 【2017年 四大陸選手権 ④】
イヤホンを耳に入れて、再生させるのはフリーの曲。男子シングルの決勝は明日の最終日だ。午前中の氷上練習を早めに切り上げて、ホテルの中庭でひたすらイメージトレーニングをする。堤先生は昼を食べた後、アイスダンスの観戦に行った。俺も女子シングルの最終グループ前には会場に行くつもりだ。雅と杏奈が残っているから。
動きと曲を止めて、iPhoneで時間を確認する。午後三時。今ごろ、女子の第二グループが始まったぐらいだろうか。
「あれ……?」
公式ページに飛ぶと、最終グループの人数が少ないと気がつく。滑走順を追っていく。ショートプログラム四位のジェシカ・シンプソン、六位の李蘇芳、五位のステイシー・マクレア、二位の星崎雅、最終滑走で三位の安川杏奈……。
ショート一位、ジョアンナ・クローンの名前がない。
目を動かすと、一番下の行にあった。名前の横にWDとある。棄権だ。
昨日の夜は何もなかった。怪我をしたという話も、体調が悪いという話も。体調であれば、出雲さんの方が心配ではある。今日の氷上練習にはこなかったから。代わりにアーサーはぴんぴんした顔で現れた。ロシア人が酒に強いのは本当らしい。そんなことはどうでもいい。
公式練習で怪我をしたとか? それか、今朝、いきなり高熱に襲われたとか?
「……ま、いっか」
何かの調子が悪くて、大事を取って棄権しただけだ。彼女が言うには世界選手権の代表にはなっている。そうすると、無理してワールドに出られなかったらたまらない。
それにしても、彼女の言うお願いとは一体なんなのか。演技のブラッシュアップ? それとも、何か演技のアドバイスか? 流石にシーズン最後の試合でそれはないだろう。それなら、テイラーの新曲聞いてくれか? 別にお願いするようなことじゃない。
何も思いつかないので、練習に戻る。人のことばかり心配してもいられない。曲を再生させる。指先をのばし、終盤のステップの動きをする。足に乳酸がたまる終盤のステップは、プログラムを通して一番の見せ場だ。現時点の出来で満足してはならない。向上の価値がある。
音と向き合い、動きと向き合い、全ての調和へと向かう。重厚なオーケストラの音も、一つ一つの音が重なりあって生まれるものだ。
サン=サーンスの荘厳な音楽が、自分の演技へと神経を引き戻してくれた。
「哲也、こっちこっち」
席をとっておいてくれた堤先生が手招きをする。氷上では、女子シングルの最終グループの六分間練習が始まっていた。
「遅いから来ないのかと思った。彼女の勇姿を見逃すところだったじゃん」
……前だったら。30半ばのおっさんが気持ちの悪いことを言うなと思っていた。
今では何も思う気にならず、無言で先生に隣に座る。何も思わないように気をつけたと表現すべきか。
第三グループ終わって、現在のトップは日本の槙島亜弥。ベテランの意地を見せている。
五人だけの六分間練習。一人減っただけなのに、60×30のリンクに妙にゆとりがある。各々が最後の調整に向かっている中、誰かが誰かにぶつかりそうな雰囲気もない。見ていて安心感があるのはこれ如何に。この大会の女子ショートの時とか、スケートアメリカの時とか、危なっかしい場面を何度か見ているからだろうか。
「そういえば哲也、聞いた?」
「何がですか」
ジョアンナのことだろうか。競技直前に棄権の知らせが来れば、誰だって驚くし噂にもなるものだ。
しかし先生は別の角度の話を持ってきた。
「違う違う、杏奈ちゃん。さっき門田先生から演技構成の予定表もらったんだけど、これ見て」
堤先生から、A4の用紙が手渡される。選手ごとの演技構成表だ。雅、ステイシー・マクレア、李蘇芳、ジェシカ・シンプソンと見て……。
目が大きく開くのを自覚する。
……女子シングルで久しく見ていないジャンプが予定されていた。
「昨日の会見、一応会場にいたけど、あれは雅ちゃんだけじゃなくて、彼女も何か思うところがあるのかもしれないね」
昨日の女子の公式会見の概要は、先生から朝のうちに聞いた。ジョアンナの考え方は女子シングルでも保守的だなと思う。だからと言って考えを改めろとは言わない。高い難易度のジャンプでリスクを背負うよりも、総合的に演技を底上げして、彼女が点が取れるのならそれでいい。時として通用しない理屈ではあるが。
それに対し、日本の二人はどう思ったか。
トリプルアクセルを常用の武器として使える星崎雅は。
そして、その雅が一度も勝てていない安川杏奈は。
アメリカのジェシカ・シンプソンを残して、他の選手がはけていく。考え事をしているうちに、最後の練習が終わってしまっていた。
✴︎
最終グループも三人終わり、日本の星崎雅が登場する。現時点で一位はカナダのステイシー・マクレア。一月半ばに七度目のカナダ国内選手権を制した貫禄をこの大会でも発揮させていた。
雅のフリーはニコライ=リムスキー・コルサコフのバレエ音楽「シェヘラザード」。
今まで雅がこのプログラムを滑って、大きなミスはなかったように思う。トリプルアクセルも好調で、技術そのものに乱れはない。
しかし、心に残るほどいいかと聞かれたら返答に困る。溌剌としたショートが際立ってしまっているからか、それとも、シェヘラザード姫という題材が彼女に合っていないのか。横に座る先生が、意味深な顔で中東風のドレス姿の雅を見つめる。
進んでいく演技を見ながら、今までとは違う、と思った。
ネーベルホルン、アメリカ大会、フランス大会。シーズン前半は、シェヘラザードという題材がどこか不安で、表現の落とし所がいまいち見つからなかった。俺と同じように、表現の模索が続いていたように思う。今まで取り扱ったことのない表現に手を出すことは、思考の沼に陥ることもあるとよく分かった。
この大会では、技術的に吹っ切ることにしたのだろうか。いつもよりジャンプが高い。いつもよりステップも切れている。ヘアーカッタースピンで本当に髪でも切れてしまいそうだ。冒頭のトリプルアクセルは完璧で、他のジャンプに乱れがない。最後のジャンプで三回転ルッツ+三回転トウループを持ってくるのは 彼女ならではのものだろう。最終盤でもスピードが落ちず、スピンのレベルもきっちり取れている。
伸びやかに流れるコレオグラフィックシークエンスは、シャリアール王に物語を優しく語りかけているように見える。スパイラルのポジションが、シーズン初めよりも格段に美しく、エッジチェンジもスムーズだ。
その美しさと裏腹に、彼女が語る物語は荒唐無稽なものだ。海賊船を乗っ取って自分が棟梁になって宝を探しにいくとか、魔法のランプを探しにいくとか、そんな感じの。
千夜一夜物語のページをめくっているようだった。
誰もが想像する、美しくて容量がよく、女性として強かなシェヘラザード姫ではない。品はあるけれど、アグレッシブな個性が際立つ。これは、面白い物語を武器に、残虐なシャリアール王に真っ直ぐに向かっていく命知らずな中東の姫だ。
これはこれで……。
「まあ、これはこれでいいんじゃないかな」
堤先生の呟きが、歓声にかき消されずに俺の耳に届く。
最後のドーナツスピンを説いたシェヘラザードは、シャリアール王の蛮行をやめさせる。その人ならではの強さで、気難しい王の心を変えたのだ。
ノーミスだった。今シーズンで一番いい動きだった。大量のアルパカとパンダのぬいぐるみが投げ込まれる。スタンディングして拍手を贈る観客も多い。
雅と入れ替わりに杏奈が氷上に滑り出る。一瞬、二人がアイコンタクトをしているのが見えた。杏奈が親指を上に立て、雅がそれを見て頷く。……二人にしかわからない何かがある。
深呼吸をしながらブレードを氷に馴染ませる杏奈の横で、リンクサイドに上がった雅が涼子先生と抱き合った。
キス&クライに涼子先生と座る雅は本当に満足そうだ。ややあって発表された点数を見て、それは新鮮な驚きに変わる。シーズンベスト、自己ベストを更新し、杏奈を残して暫定一位に躍り出る。歓声が湧き上がる。銀メダル以上が確定した瞬間だった。
……何故だろうか。
点数に見合うような素晴らしい出来だったのは事実だ。雅も、持っている技術以上のものを見せた。
だけど、本当はもっと魅力的に滑れるプログラムなんじゃないか。しかし、今の彼女では、ここがこのプログラムの天井なのだと思ってしまった。
このプログラムが似合う選手は他にもいる。
プログラムのポテンシャルに、彼女自身が追いついていない。そして、今の彼女では、その良さを引き出せるのがここまでなのだと。
堤先生が惜しまずに拍手を送っている。
よくできました、と言っているようだった。




