28.彼は語る、愛について 【2017年四大陸選手権 ②】
まただ、と思った。
男子シングルが終わり、荷物をまとめて会場を出ようとした時だ。
背中がぞくっとして後ろを振り向いた。人がまばらな廊下で、各々が帰る準備をしたり、同じように出口に向かって歩いている。俺に用がありそうな人はいなかった。
「どうしたのさ」
隣を歩く堤先生が、訝しげな声をあげる。ほっとする反面、妙な冷たさが背中に纏わりついている。この際先生に言ってしまえと俺は口を開いた。
「実はたまに、大会とかショーの時に悪寒を感じる時があって……」
「悪寒、ねえ……。ちなみに、大会っていつの?」
「えーっと……」
背中がぞくっとしたのがどの大会だったか思い出してみる。最初は、キャッスル・オン・アイス。大会じゃなくて七月のアイスショー。次はジャパンオープン。スケートアメリカにグランプリファイナル。そして、さっき。
「ロシア杯と全日本の時は?」
改めていつ、と考えると、その時の状況を詳しく思い出そうと頭がフル回転されるものだ。そして気がつく。
「……そういえばありませんでした」
感じている暇がなかったのかもしれないが。
「じゃあ、どんな状況の時だったかな?」
意外にこう言う時、茶化さないで聞いてくれる堤先生だ。
「ジャパンオープンの時は、公式練習の前ですね。振り向いたら北米チームがいました」
「ああ、あの時だったのか。いきなり君が後ろを向いたから何かと思った。じゃあ、ファイナルの時は?」
「近くにジョアンナがいました。何か話したいことがあったみたいで」
そういえばあの時、何を話したっけ? ジョアンナの切迫感のある瞳は覚えてはいる。でもそのあと、ルーティカ……アンドレイ・ヴォルコフに呼ばれてそっちに行ってしまったのだ。君がいないとつまらないと言われて。
バンケットで会うルーティカは、演技の時よりも数段幼く見えた。バンケットで出会っても今まであまり話さなかったが、ロシア大会から急に距離が近くなった。この料理美味しいの? と聞いてくるぐらいには。……今はそれを思い返している時ではない。
「スケートアメリカと七月のショーの時は?」
「……雅と話していた、後ですね」
言いながら、心に引き攣りを感じた。細い針が刺さってなかなか取れずに膿になっている。
堤先生が薄く笑った。
「な、なんですか」
「君がね、悩み多き年頃なのはわかった。それはさっきのショートプログラムでもよーく表れているしね」
ーーショートをどう滑ったらいいかわからなくなっている。
全日本のエキシビションが終わった後、正直に先生に打ち明けた。原因は色々だが、出雲さんからのアドバイスと、雅とのすれ違いが一番尾を引いている気がする。……前者はともかく、後者がどうして演技に影響されるのか、ちょっとよくわからないが。
具体的にどう、とは言えなかった。今まで信じて滑ってきたプログラムが、これでいいのかと聞いている気もしたし、本来どういう思いで滑るべきなのかが分からなくなっている気もした。街灯のない夜の道に霧が生まれて、その中を歩いているような心地さえした。
堤先生は俺の言葉を、最後まで口を挟まずに聞いた。
『とりあえずショートの演技の時はね、俺の言葉も出雲のアドバイスも、一旦全部忘れなさい。思い出しても、今の君にとっては妨げにしかならないから』
先生がそう言ってくれたのはありがたい。……ありがたいのだが。
今回、ショートで五位発進になった。表現が固いのもあるのだが、一番は四回転トウループが三回転になる凡ミスだ。転倒したわけでもジャンプが抜けたわけでもないから、ぱっと見ではノーミスだ。しかし周りは手強い。それに加えて、エッジが乗り切らずにステップの評価がレベル3になり、全体的なPCSもパッとしない。ショートでは一定の評価をいただいていただけに、地味に痛い。
嫌なわだかまりに冴えない演技。ラストに原因不明の悪寒の三点セットとなると、少し気が滅入る。
「まぁ、悪寒の原因は意外に近くに転がってるんじゃないかなー。君の周りの人が、君のことをどう思っているか。そこにヒントがあるよ」
「……何か恨まれることをしたってことでしょうか」
そうじゃないと思うけど、と堤先生が返したところで、なあなあに話が終わる。
会場ロビーにはホテル行きのバスを待つ人がたむろしている。入り口付近に、見知った顔の美女が立っている。長身で、少し童顔。大きい瞳は、俺のよく知る少女と同じもの。
「あら哲也くん、チカ。お疲れ様」
「お疲れさまです。涼子先生」
美女が俺と堤先生に気がついて声をかけてくれる。この大会の関係者で、堤先生をチカと呼べるほぼ唯一の人物。
星崎涼子先生である。俺のサブコーチであり、星崎総一郎と共に堤昌親をソルトレイクシティ五輪から引退まで指導した女傑。
「哲也くん見てたわよー。超微妙な演技だったわね。悪くはないんだけど、ソフトクリームがない上にデニッシュの厚さが半減されたシロノワールみたいだったわ」
「涼子先生、それは言い過ぎです。せめて、ネギも生姜も挽肉も豆板醤も入っていない麻婆豆腐みたいな演技って言ってあげてください」
「それもそうねあっはっは! 今度作ってみようかしら。その時はチカと哲也くん、味見よろしくね。隠し味に青紫蘇ペーストと柚子胡椒入れてあげるから」
「人の演技を、変なものに例えないでください!」
……二人から教わる俺が言うのもなんだが、涼子先生と堤先生はちょっと似ている。教え方というか、性格というか。堤先生は、指導者として涼子先生から一番影響を受けたのかもしれない。ネギも生姜もひき肉も豆板醤も入っていない麻婆豆腐って、存在価値ゼロじゃないのか?
……ん? あれ? コーチである涼子先生がいるのに、肝心の、涼子先生がケアするべき生徒の姿が見当たらない。
「雅はどうしたんですか?」
「会見が終わった後、先に帰ったわ。私は京本くんの振り付けのチェックとかがあったから残ったんだけど。……会見で嫌な質問されたみたいでね」
何を質問されたか聞かなかった。苦苦そうな涼子先生の口調は、娘を案じる母親そのものだった。その様子に、少し複雑な心地になる。俺は涼子先生と同じ目線で、堂々と雅の心配をしていいのだろうか。
「ハイドロからのトリプルアクセルは、先生の提案なんですか?」
あれいきなり決めてビビりましたよと堤先生が驚きの声をあげる。
「そうよー。冬休みから結構練習してたし、成功率も高かったし。だったら入れなきゃ勿体無いじゃない! そう思ってショートの振り付けを考え直して、入れるならココしかない! っていうところでドンピシャ。我ながらいい作品作ったし、それを実現できるあの子の力ももっと出してあげなきゃね」
女子のショートは観客席から観戦した。ハイドロブレーディングからのトリプルアクセル。話しどころか顔も合わせなかったけど、練習していたのは知っている。それをいきなり試合で決めたのに心臓が止まるかと思った。右隣の堤先生はヒュッと短く口笛を吹いた。俺がこれだけ驚いたのだから、何も知らない観客はもっとだ。実際の反応は、賞賛よりも驚きの意味合いが強かった。
レアすぎるほどレアな技。その割に点が出ないなと思った。最終滑走のジョアンナの演技は確かに素晴らしかったけれど、雅の演技が劣っているようには見えなかった。つなぎが薄かったから、というのも理由の一つだろうけれど。
「ま、ちょっと悪目立ちしすぎちゃったかしら。最初、点数しょっぱいなーって腹たってたんだけど、客観的にみたら粗の目立つ演技ではあったからね」
そう言ってバスがやってくる。
堤先生は面白いものを見つけた、という顔をしていた。
*
ホテルに戻り、韓国のテレビ局の放送で男女ショートを振り返る。女子の演技を流した後、男子のショートに。男子が始まる頃、烏龍茶とiPadを手に持った堤先生が俺の部屋にやってくる。
男子シングルショートの結果は、SAYURIの凄みを増した出雲さんが堂々の一位。
二位がカナダのアーサー・コランスキー。
トロントを練習拠点とするアーサーは、出雲さんと同じクラブの所属だ。そんなアーサーのショートは、スウィングジャズの要素が入った小粋なプログラム。アメリカに実際にいた二人組の悪党、ボニーとクライドをイメージして制作したそうだ。
今回のショートは、出雲さんは別格として、アーサーが格別に良かった。演技に安定性がない……とか言われているらしいが、今回のショートではここぞとばかりに本領発揮した。
もともと才能は認められている選手だ。180センチの長身が豪快に4回転トウループを完璧に飛べば、出るものも出る。十八歳のアーサーは、俺にはない、悪い男の色気というものを滑りの中で存分に振り撒いている。スピード感のあるスケート。イーグルからのトリプルアクセルは、今大会の男子ショートプログラムで一番高く飛んだ。豪快なデスドロップ、ハーフループ、バタフライからのキャメルスピン。ジャンプ力もさることながら、長い足が映える。拍と拍、音と音の間で時折混ざる銃声をフットワークで表現していく。
こういうプログラムは勉強になるなぁと、先生が感心する。アーサーの動きの良さもだが、一番はプログラムだろう。十八歳のアーサーに、色悪的なプログラムを用意するとは思わなかった。調子の良さとプログラムが相乗効果を醸し、今季のフリーとは180度違う魅力を引き出している。
アーサーの次が俺の演技。……なんだろう、この、改めて振り返って感じるこのぎこちなさは。動きどころか顔も硬くないか、俺。カヴァレリア・ルスティカーナの甘い旋律に乗り切れていない。
「……なんかいいたいことあるんじゃないですか?」
「さっきいいたい放題言ったし、今の君にとっては妨げにしかならないから。強いていえば、ねえ……」
「いえば?」
「レベルを取りこぼすような凡ミスはやめた方がいいかな。スピンの回転数とか、入りの甘さ。ほらここ。このスピンがレベル3認定なの、かなり勿体無い」
iPadでスコアシートを表示させ、これさえなけりゃ三位のチャン・ロンは無理でも、四位のネイトさんは抜かせたかもしれないのに、と先生が呟く。
実に真っ当な指摘がやってきた。……そりゃそうだ。
最終滑走のジミーの演技に差し掛かったところで、iPhoneがLINEの通知を知らせている。全米後に靴を変えたというジミーはジャンプの調子が悪く、俺に次いで六位だった。それでもスケートは乗っている。
ジミーの軽快な演技を流しながらメッセージを確認する。
*
夕飯の後、ホテルを出て平昌の街並みを歩く。
来年五輪が開催されるという都市は、都会という感じはあまりない。程よく垢抜けていなくて、地元の釧路を思い出す。湿気が多くて、ぱらぱらと雪が降りそうな空気を醸している。
年末に、一度釧路に帰省した。雅と話をしたいと言っていた姉に、十月から仲違いをしているからしばらく無理そうだと伝えると「この、馬鹿!」と一喝された。
「馬鹿ってなんだよ」
「あの子が大事なんでしょ?! だったらまず、仲違いをした原因を突き止めなさいよ! あんたが原因かもしれないんだし。この二ヶ月何やってたのよ、このボンクラ!」
それが出来たら苦労しない。突き止めようとした結果、余計に嫌な思いをさせてしまった。以降、再び顔も合わせず口もきかなくなってーー二月になった。
時たま訪れる悪寒の原因はなんなのか。もし誰かに恨まれているのなら、それは雅以外に考えられない。しかし俺が何をやったのだろうか。
思考の堂々巡りをしているうちに約束の場所にたどり着く。待ち合わせの相手は既にやってきていた。ホテルから歩いて十分の、通りのカフェ前。
「テツヤ」
ちょっと話したい。そうメッセージを入れた相手は、深海の瞳のディズニー・プリンセス。
女子シングルショートプログラム一位の、ジョアンナ・クローンである。USA代表のジャージではなく、ダッフルコートとジーンズのシンプルな格好。それでも見た目の華やかさはまるで失われない。
「お疲れ様。ショート一位おめでとう」
「ありがとう。テツヤは調子が悪いの?」
いつもよりスケートが乗っていなかったみたい、と言われる。まぁ、ちょっと色々あってと答えた。
ジョアンナはいつも美人だ。それでも今の綺麗さは、平常とは違う。ショートプログラム一位という現実が、彼女の美しさに磨きをかけているのだろう。
「お礼を言いたくて」
「お礼?」
……何かしたっけ? 思い当たる節もなく考えていると、ジョアンナがはにかみながら口を開いた。
「前に、『好きな人を思い浮かべて滑ればいい』って言ってくれたじゃない。そうしたら、ショートもフリーもすごく滑りやすくなったの。恥ずかしいだけかと思ったけど、そうやって滑ったら」
「俺は何もしていないよ。ジョアンナが頑張った結果なんだから」
何かしたといえば、堤先生だろう。スケートアメリカ後にデトロイトに行った際、相当ダメ出しして演技指導してきたみたいだから。それに応えられたジョアンナ自身の努力を誉めるべきだ。
「あなたってそう。初めて会った時から本当に変わらない。自分がどれだけ相手に影響を与えているか。全く想像がつかないのね。……私がグランプリファイナルで言ったこと、覚えている?」
初めて会った時。確かジュニアグランプリのイギリス大会だったと記憶している。ジョアンナのコーチのリチャードと堤先生が昔の師弟関係だったから、その縁で紹介してもらった。……マサチカ、この子が俺の今の教え子のジョーだよ。ここから、大会ごとに話しかけられて、現在に至る。
そしてファイナルの時。
「……ごめん、何か話したっけ?」
正直に告げるとジョアンナの瞳から光が失われた。話した内容を忘れましたと言われれば、誰でもショックだ。ジョアンナはその時必死だったのだろう。何一つとして覚えていない自分を恥じる。普通に失礼だろ、俺。
気を取り直したようにジョアンナはちょっと笑った。
「いいわ。じゃあ、私が世界選手権で表彰台に上がれたら、一つお願いを聞いてくれる?」
「……それはいいけど。なんで世界選手権の時なんだ?」
「今言っても、テツヤは忘れちゃいそう。それに、世界選手権に向けてのいいモチベーションになるもの。だから今度は、ちゃんと覚えていてね」
深海の瞳がぐっと近くなる。俺の顔に何かついて……いや、待て。ここからの展開は覚えがある。過去二回、それで不意打ちをもらった。目線を逸らして……
「あれー? テツヤにジョアンナ。こんなところで何やってんの?」
後ろから甘い美声が届く。
助かったという思いから振り向いてーー思わず息を呑んだ。
「アーサー……? それに、出雲さん」
男子シングルショートプログラムのツートップ。神原出雲とアーサー・コランスキーが並んで歩いている。……いや、並んではいるが、アーサーは千鳥足で歩けていない。出雲さんが肩を抱えて、背丈もあり大柄なアーサーを支えながら歩いている。
「哲也。お疲れ様。……見ての通り、アーサーが酔っ払って歩けなくなってる。説明はそれだけ」
声音には呆れが混じっている。出雲さんは口元にマスクをつけて、冷たい空気を肺に入れないようにしている。マスク越しにも、息が上がっているのがわかる。そうだ、この人、体がそんなに強くないんだった。少しきつそうな出雲さんをよそに、アーサーは酔っ払い特有の陽気さで話し出す。
「いやー、久しぶりにいい演技ができたから、酒飲みたくなっちゃってさー。したら、マッコリしかないんでやんの。ちょっとしか飲んでないのに」
「マッコリをロックで五杯飲むのは、ちょっととは言わない」
「……何やってんだ!」
出雲さんが冷静に解説をし、思わず俺は突っ込みを入れた。男子フリーは明後日だ。一日空くとはいえ、試合期間中に酒を飲んで動けなくなっているとか、アホの所業じゃないだろうか。いくらなんでも、堤先生だってやらないぞ。アーサーはこんなに酔うとは思わなかったんだよーと脳天気につぶやいた。
アーサーは十八歳。日本では飲酒が禁止の年齢だが、カナダでは解禁されている。……韓国ではどうだっただろう。もし、韓国の飲酒解禁が二十歳だとして、十八歳のカナダ人が飲酒をしていたら法律的に引っかかるのだろうか。この場合責任を問われるのは成人の出雲さんだ。
「一応説明するけど、哲也。俺は止めたから。聞かずに調子に乗って飲んだアーサーが悪い。帰ったらちゃんとヴァローチャに報告するから」
「お願いだよイズモ、パパには言わないで! それか、マッコリを牛乳のロックだと間違えて飲んだって言うことにしておいてよ!」
「見苦しい嘘はやめた方がいい。いやなら、今すぐ全部吐きな」
赤い顔で懇願するアーサーを、出雲さんが冷たくあしらった。何気に最後の一言は迫力がある。それは無理だと情けなく言いながら、アーサーは眠ってしまった。
出雲さんは遠征の時に外食はあまりしない。ホテルで済ませるか、持ち込んだ日本食を食べていると話してくれた。今回はアーサーに誘われたのだろう。そして、酔っ払ったアーサーの介抱役を担わされている、と。ロシア人は酒に強い印象があるが、彼は年相応には弱いらしい。
出雲さんも背は低くないのだが、いかんせん体格が違いすぎて不安になる。ウエストまわりなんて、出雲さんはアーサーの三分の二程度しかないんじゃないか。
俺は、アーサーの左腕を自分の肩に回した。これで日本人二人に担がれている酔っぱらいのロシア人の図の出来上がりだ。自分に掛かっていた負荷が軽くなり、出雲さんはマスク越しにもわかるほど大きく息を吐いた。今俺は半分しか担っていないが、それでも相当にきつい。胸板や二の腕にがっちりとした筋肉を感じる。
「ありがとう哲也。手伝ってもらっちゃって。……二人の邪魔しちゃったかな?」
……そうだ。目の前の状況の異常さに意識を取られていたけど、ジョアンナと一緒にいたんだ。
「ハイ、ジョアンナ。ショート一位おめでとう。さっきテレビで見たよ」
「イズモにそう言われるなんて光栄。あなたのSAYURIも、本当に素敵。女性より女性らしくて、見ていて嫉妬を覚えるわ。テツヤにはちょっと話を聞いてもらっていたの。彼のお陰で、私のプログラムはよくなったから」
「恋しているみたいだね。それが演技にも溢れている。……でも、君のリトル・マーメイド、見ていてあんまり綺麗なものじゃないかな」
その場が固まった。
ジョアンナの顔から笑顔が消え、和やかに話していた二人の間に細かい亀裂が入る。
「……どういうことかしら?」
俺の頭にも、同様の疑問が浮かび上がる。
男女シングルのショートプログラム一位同士の視線が絡み合う。
「この人が本当に大事で仕方がないのか。この人が好きだと思っている自分が好きなのか。現実はディズニーのストーリーにはならない方が圧倒的に多いから。君は本当にその人が好きなのかな。演技には誰も映っていない。たまに略奪したいだけの人とかいるからね。もしそうなら、今すぐそんな恋はやめた方がいい。誰も幸せにならないから」
……この人が大事だ、だから、この人のために滑りたいと語った出雲さんの昔話が蘇る。
「ごめんなさいイズモ。あなたの言っていることは見当違いも甚だしいわ。それに私のショートは評価されている。何も間違っていない」
「そうだね。演技そのものはとても綺麗だ」
「なら……」
「だけどそれだけだ。何も残らない」
今度こそ、本当にジョアンナは言葉を失った。
「ジャッジはスケーターが何を思い描いて滑っているのか。その心までは評価できないし、PCSには入れられない。主観の話になるから。これはあくまで俺の印象の話だ。ショート一位は君の努力の結果だから、気を悪くしたら謝る。俺はこんなこと言うような立場でもないからね。でもそこでムキになるなら、君自身も思い当たる節があるんじゃないかな」
綺麗だけど何も残らない。
……何故だろうか。そう言った出雲さんの言葉だけは、端から聞いている俺にも電極が繋がったように理解ができた。ジョアンナのショートは確かに素晴らしかった。だけど、繰り返し見たいとは俺は思わない。見たいのは、ハイドロからのトリプルアクセルを飛んだエキサイティングで邪気のない雅のハンガリー狂詩曲だ。
もちろんこれは俺の主観だ。他の人に聞けば逆の答えも返ってくるだろう。PCSには反映できない、見た人間の心の問題。話さなくなっても、雅が一月中どれだけ練習していたか、俺は知っているつもりではあったから。
ジョアンナは目を見開いたまま、しばらく出雲さんを睨みつけていた。目端が吊り上がり、視線だけで射殺せそうなほど強い眼差しだった。対する出雲さんは、アーサーを抱えた体勢ながら余裕そのものの瞳を返している。
「いくらあなたでも、言っていいことと悪いことがある。あなたに私の何がわかるの」
そう吐き捨てて、ジョアンナは背中を向けて走り去っていった。怒らせちゃったね、と苦く微笑む出雲さんは、それでも自分の発言に後悔はしていないようだった。
ロシア語のうめき声を発しながら、金髪の少年の顔が動く。
「……あれ。今俺寝てた? ジョアンナは?」
目を開いたアーサーの寝ぼけた言葉が、凍りついた空間を溶かしていった。




