表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/66

27.代打ののち、猫とネズミが平昌で戯れる 【2017年 四大陸選手権】

『堪忍、雅ちゃん。迷惑かけてしまう』

 

 そのメールが里村さんから入ったのは、年も明けて、一月も半ばを過ぎた頃だった。


 

 一月下旬の日曜日。横浜から東海道新幹線で一路京都まで。バスで京都市内の総合病院に向かう。外来受付で部屋を教えてもらい、彼女の病室まで。

 病室の前には「里村理沙」のプレートがかけられていた。


「里村さん」

「ああ、雅ちゃん。わざわざ来てくれはって、ありがとうな」


 私は首を振った。様子が気になっていたし、お見舞いにきたかったのは本当だ。

 彼女が練習の虫だという話は有名だ。一日6時間以上氷上にいるのもザラだと聞いた。勤勉で、努力を積み重ねるのを苦としない。

 私はお見舞い品を里村さんに見せた。


「綺麗やな。……桔梗か」

「花言葉は正義らしいですよ」

「ハーバリウムなのがええな。この足だと手入れもできひんし、目に楽しいわ」


 母から、見舞いの品を渡すなら、切花よりハーバリウムの方がいいとアドバイスをもらった。横浜のフラワーショップで買った観賞用の植物標本は、手入れの必要がない。そして、この足、と里村さんが指をさしたのは、包帯で厳重に巻かれた右足だ。生の花を管理するのも一苦労だろう。


「ほんま、すまん。うちが至らんせいで、負担をかけてしまうわ」

「謝らないでください。里村さんは練習していただけです。私だって怪我することがありますから。……今まで休みなく試合に出ていたんですから。神様が休めって言っているんですよ」

「そうやな。雅ちゃん。うちはもう、今季は出られへん。だから……」

「……精一杯、やってきます」


 ベッドの上の里村さんと視線を交わす。代わりに枠を取ってきて、と言わない里村さんが好きだ。

 彼女の代わりなどどこにもいない。

 だから、私は私ができることをやらなくてはならない。


 

 *


 

 江陵にあるアイスアリーナは、滞在しているホテルから車で四十分。他の選手や関係者の方と一緒にバスに揺られる。

 二月上旬。私は韓国の平昌にいた。


「……ちょっと遠いわねー」


 今回帯同するのは母だ。父は、今季国体で引退する男子スケーターの帯同でいない。今年の四大陸は国体と日程が重なっているのだ。父も引退する選手の指導も長いから、最後を見届けたかったらしい。


 ーー里村理沙、今シーズン絶望的。

 里村さんからメールが入った直後、そんな見出しがニュースサイトのトップ画面に躍り出た。


 記事によると、ホームリンクでの練習中、ジャンプの着氷に失敗してそのまま転倒したそうだ。右足を庇うように転倒した結果、左足首の骨折が判明。右足は NHK杯で痛めた捻挫である。治り切らないうちに、競技会と練習を重ねていたようだ。……怪我を抱えて、全日本であれだけの演技を披露したのは、凄まじいとしか言いようがない。


 手術から休養、リハビリを経て、復帰までは約半年かかるとの診断だった。

 シーズン後半の試合は全て欠場。世界選手権は補欠の槙島さんに。そして、四大陸選手権は私が代替で出場することになった。


「大変ですが、世界選手権に向けてのいい練習になるでしょう。それに、平昌のリンクで滑れる貴重な機会ですよ」


 代替出場が決まった後、父が言った言葉がこれである。

 今回の四大陸選手権は、2018年冬季平昌五輪のテスト大会も兼ねる。

 出場できるかはわからないが、来年の平昌五輪で使用する会場で滑れるのは、氷や会場の様子を知れるいい機会なのだ。


「ところで雅、本当にフリーは変えなくていいの?」

「なんで?」

「チカにプログラムを変えないか提案されていたんじゃない? あの子が意味深に提案する時って、大体何かある時だから。総ちゃんは変える必要はもうないって言っていたけど。わざわざチカがあなたに言ったのが気になっていてね」


 年末に堤先生からプログラムの変更を提案されたことは、父にも母にも言ってある。だけど結局変えなかった。その後の全日本でそれなりに滑れたからだ。

 迷うな、と里村さんがアドバイスをくれた。もう振り付けや表現に対してウダウダ考えるのはもうやめた。


「うん。……後はやるだけだし。それに、今からプログラムを変えても、ジャンプの精度とか落ちそうだしね」


 一月中旬のヨーロッパ選手権。


 ロシアを含むヨーロッパ圏内の選手が一堂に会するこの大会は、五輪や世界選手権よりも古い歴史を持つ。

 今年の開催地はチェコのオストラヴァ。そこで話題になったのは、ロシアのアンドレイ・ヴォルコフの十六歳にしての二連覇でもなく、フランスのマリーアンヌ・ディデュエールの二連覇……でもない。


 二位に入った、ロシアのエカテリーナ・ヴォロノワのトリプルアクセルである。


 世界女王のエレーナ・マカロワがインフルエンザで欠場したこの大会。マリーの優勝は堅いと思われていた。実際に二連覇を果たしたわけだが、ヴォロノワとの点差はそれほど開いていない。


 現在十九歳のヴォロノワは、蠱惑的な瞳とたっぷりとした黒髪が魅力の女性である。スケート選手にしてはメリハリの効いた身体で豪快なジャンプを跳ぶ。十五歳でシニアデビューした時からジャンプには定評のある選手だ。トリプルアクセル習得も時間の問題だと言われていた。


 ……現状で、トリプルアクセルが飛べる女子は私の他にもいるということだ。ようやくフリーに活路を見出したのに。代表枠もかかる世界選手権で、プログラム変更なんていう大きなリスクなんて冒せない。


 里村さんの代わりにはなれない。だけど、私が代表になって不甲斐ない結果になった。それだけは避けたいのだ。

 なお、女子の三位はベラルーシのエフゲーニャ・リピンツカヤ、四位はスウェーデンのレベッカ・ジョンソンだった。男子シングルの銅メダルがキリルさんだったから、同門で表彰台に上がったことになる。


「まぁ、あなたがそういうなら、私は止めないけどね」


 母は窓の外を見て、ポツリとつぶやいた。

 止めないと言いつつも、何か言いたそうな顔だった。


 

 *


 

 2016–2017シーズン 四大陸選手権。


 日程は、一日目が全てのカテゴリーのショートプログラム。二日目が女子シングルとペアフリーと、アイスダンスのフリーダンス。三日目が男子シングルのフリーになる。


 今は女子シングルのショート。最終グループの六分間練習中である。

 最終グループは、アメリカのジョアンナ・クローンにジェシカ・シンプソン。カナダのステイシー・マクレア。中国の李蘇芳。そして、私と杏奈になる。


 先月のカナダ選手権では、ステイシーが文句なしの八回目の優勝を果たし、全米選手権では、ジョアンナ・クローンが、ベテランのジェシカを抑えて二連覇。文句なしの四大陸と世界選手権の代表に選出された。


 BS放送を見た限りでは、ジョアンナの調子は絶好調と言っても差し支えはない。特にフリーは……。思い出すのはやめよう。心の傷が広がる気がする。嫌な映像を振り払う。リンクの端でスピンの調整をしようとする。

 その時に。


「ひゃ!」


 ……あっぶな。

 ジョアンナが豪速で私の方に突っ込んできた。


 咄嗟に私は避ける。あと少しでぶつかるところだった。


 どうもジョアンナ・クローンは、集中すると周りが全く見えなくなるタイプのようだ。さっきも、杏奈の曲掛け中にぶつかりそうになっていた。もしかしたら、それにも本人は気がついてなさそうだけど。


「大丈夫だった?」


 鼻をかみに母の元に戻ると、ジョアンナとの追突未満を心配された。残り時間を見ると、あと1分。……第一滑走だから、戻って練習できるほど時間がない。


「ちょっと危なかったけど、大丈夫。びっくりしたけど」

「まぁ、そういうこともあるから。お互い様。あなたが不注意でぶつかるかもしれないこともあるからね。故意にぶつかる人なんていないから、責めてはダメよ」


 最終グループの選手は、往々にして滑りに勢いがある。母の言うことはもっともだ。ぶつかりたくてぶつかる人間なんていない。鼻をかみ、水を飲んで早まる心臓を宥める。

 演技開始が近い。


「……ねえ、雅。ショートでちょっと冒険してみない?」

「冒険?」


 いきなり母は何を言い出すのか。美しい菩薩の母は、にこやかな顔を崩さない。なんだろう、いやな予感が半分と、少し面白いんじゃないかという予想が半分。あんまり失敗したくないんだけど。

「このショートはだいぶ安定しているでしょ。だから、ちょっとこうやってみない? ……トリプルアクセルの前に……」


 母は私の耳元に口を近づける。小声で言われた言葉は……。


「え、ちょっと。本気?」


 菩薩は鬼の言葉を吐くのか。いや、そもそも母は鬼神だったか。


「本気の本気。それにあなた、練習で成功率高かったじゃない」


 いや確かに。年明けから時間があったから、「こういう技ができたらいいなぁ」と思って練習していたりした。四大陸に出る予定がなかったから、世界選手権まで三ヶ月ほど時間が開く。モチベーションを一定に保つために、誰もやらなそうな技を身につけたかったのだ。

 でもまさか、自分の演技の直前にいうかな? 


「もし総ちゃんに何か言われたら、こう答えなさいよ。失敗したら、『お母さんがやれって言ったでも失敗しちゃったてへぺろ』。成功したら『やってみたかったからやったら成功したよてへぺろ!』で」

「でもさ、流石にリスクが高すぎない?」

「この試合はまぁ『平昌の氷の感触を確認できてラッキー! だからちょっと冒険してみようと思ったてヘぺろ』って感じでいいの。それに試合でできたら、自信がつくでしょ? 冒頭のステップをすっ飛ばせばいいんだから」


 母の中で、てへぺろが流行っているのだろうか。


 ……これ、父さんがここにいたら絶対に言ってないな。母さんの帯同は二回目だけど、まさかこの大会で突拍子もない提案をされるとは。だけど……

 いつの間にか、六分練習が終わっていた。全てのスケーターが吐き出されて、私一人になる。


「失敗するかもしれないけど、思いっきりやってくる」

「そうこなくっちゃ。はい、行ってらっしゃい!」


 力強く背中を押された。コールされてリンク中央に向かう。


 ショートでトリプルアクセルを跳ぶ場合。いくつかのターンを組み合わせて跳ぶ。最後はモホークからカウンター、そしてアクセルだ。


 カウンターから直接跳ぶトリプルアクセルは、男子シングルでも数え切れるぐらいの選手しか飛べない。このつなぎのおかげか、トリプルアクセルの加点は2点以上いただけていた。


 しかし母の提案はもっと上を言っていた。そして、その提案に、ちょっとわくわくしている自分もいる。


 ……曲の始まりと共に、スケーティングスピードを一気に加速させる。今からやる技は、いつも以上にスピードを出さないと決まらない。アーサーやマリーアンヌのスケートみたいな、足にフェラーリでも搭載しているんじゃないかってぐらい。腕の振り付けを気にしつつ、ぐっと腰を落とす。後ろ向きになり、左膝を曲げてインサイドエッジに体重を乗せる。フリーレッグは、滑っている方の足の後側から氷に垂直になるよう伸ばしきる。両手を広げ、リズムを取りながら、スピードを落とさないように気をつける。


 ハイドロブレーディングという、ムーブスインザフィールドの一つだ。イナバウアーやイーグルと同系列の技で、直接的な点数にはならないけれど、技と技の繋ぎの一つとして重宝される。


 後半の単独三回転ループの前にやっていた繋ぎを、トリプルアクセルの前につけてみる。これが母の提案だ。

 腰を落としたままリンクに半円を描く。立ち上がり、前向きに体を向き替えてーー

 えいやっと跳ぶ。


 一回、二回、三回。回転をしっかりしたまま。いいジャンプが飛べた時、360度全てがぐるっとよく見える。

 右足のエッジが氷を捉える。真っ直ぐに伸びたトレースを確認して、次の要素に向かい……。


 ん。……あれ? 私、今、成功した? 

 ハイドロブレーディングから直接とぶトリプルアクセルを。


 音楽が続く。それの成功は、あとからあとから私を高揚させた。歓声とどよめきが遅れてやってくる。ピアノの迫力。ヴァイオリンの高音。それに負けないだけの技とスケートを繰り返す。スピード感とリズムを重視したステップ。ディープエッジもスピードを殺さずにコントロールできている。トムとジュリーの軽快さをイメージする。このプログラムは、昔の「トムとジュリー」のショートフィルムを参考にしている。気ままな悪ふざけに、重苦しい表現なんて必要ない。体が軽い。なんでも決められる気がする。ルッツからトウループの三回転+三回転も、連続スリーターンからの三回転ループも。いつも以上の出来で飛べた。


 リンクサイドに戻ってくると、母はよくやったと手放しで褒めてくれた。


「何かノリノリだったわねー。今後も私が帯同して、演技直前に右斜め上から三十度の言葉を言おうかしら」

「……それ、絶対やめてね」

「ラストのポーズでよろけたのはご愛嬌ね。ドーナツスピンで回りすぎたのよ」


 得点はすぐに表示された。トリプルアクセルは認定。……やった、自己ベストを超えた!

 母とハイタッチをする。突拍子もないことを言われるのも、悪くはないのかもしれない。が……。その直後、いややっぱり今回限りがいいなと思い返した。

 今回はたまたま成功できて良かったのだ。演技直前に振り付け変更なんていう非常識な提案をするのは、母だけで充分だ。


 


 その後、私はバックヤードのモニターで最後の演技者まで観戦した。状況としては、スケートアメリカの時と同じ。一番滑走で、その後の選手までたっぷりみられる。ステイシーやジェシカのような一流の選手を間近でみられるいい機会だ。


 次滑走は中国の李蘇芳。今年、私と一緒にシニアデビューした。ドラマ「宮廷女官ジャクギ」の主題歌。三番滑走がステイシー。MUSEの「バタフライ&ハリケーンズ」。次がジェシカ。「エル・チョクロ」。第五滑走は杏奈で、見事な「月の光」だった。だけど、残り一人の時点で、私の上を行っていない。……思い出しても、ショートプログラムで私が杏奈を超えたことはない。ハイドロからのトリプルアクセルの効果だろうか。それとも、今シーズン、ショートが安定していた結果だろうか。


 最終滑走はスケートアメリカの時と同じように、ジョアンナ・クローン。

 映画「リトル・マーメイド」のサウンドトラック。


 ブルーのドレス調の衣装がよく似合う。これだけをみたら、本当にディズニー・プリンセスだ。


 人魚姫の恋が生授したかのような素晴らしい出来だ。彼女を見ると苦い思いが広がるが、それは今は関係ない。……本当に、堤先生はどんな魔法を彼女に与えたのだろう。顔がものすごく輝いているし、何というか、幸せそうに見える。動きにもそれは反映されている。最初は三回転ルッツ。三回転フリップ+三回転トウループはお手本のような出来ばえだ。私はフリップでエッジエラーをもらうことが多いから、彼女のフリップは尊敬する。無駄のないエッジワーク。最後のダブルアクセルは、イーグルから直接跳ぶ。レイバックスピンからの両足のビールマンスピン。演技が終わり、リチャード・デイヴィスコーチと抱き合う。


 77.23。


 電光掲示板で示すのは、ジョアンナ・クローンが自己ベストを出したことと、ショートプログラムの最終順位。


 

 ……私を僅かに上回って、ジョアンナ・クローンがショートプログラム一位で折り返すことになった。

 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 雅ちゃん、涼子先生の帯同だと伸び伸びと演技できるのでしょうか? すごく良いコンビのように感じます。 ハイドロからの3A、目に浮かぶような描写でした。 かっこよかったです!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ