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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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26.霧の中の旋律 【2016年全日本選手権 エキシビション】

 インタビューを打診されたのは、女子フリーの表彰式が終わり、世界選手権の代表選手が発表された直後だった。

 今日は最終日。先方が指定した場所は、俺が滞在しているホテルのロビーだ。


「改めて、銀メダルと世界選手権の代表入り、おめでとうございます」

「ありがとうございます」


 朝十時。テーブルを挟んで向かい合う長い黒髪の女性は、にこやかに賛辞をくれた。

 村上市子。本職はフリーライターだが、スケートアメリカの時もロシア杯の時も公式記者会見の通訳としてお世話になった。彼女はニューヨークを拠点に活動をしているから、英語が堪能だ。長年フィギュアスケートに携わっているからか造詣が深く、どんな選手にも敬意を表して接してくれる。また、余計な話題に足を踏み入れない。信頼して話ができるのだ。


「シーズンの前半が終わりましたが、この大会を含めで振り返っていかがでしたでしょう」

「そうですね……。やはり、フリーの四回転ループが鬼門でした」

「でもこの試合では綺麗に決めましたよね。素晴らしかったです」


 ありがとうございますと頭を下げた。四回転ループは、スケートアメリカ以来のまともな着氷だった。


「この大会、フリーはジャンプ構成を変えてきましたが」

「あれは前日ショートが終わった後、堤先生から打診されたんです。四回転を減らすのは嫌だったんですが、構成を変えて逆に攻める演技ができました」

「結果的には、良かったと」

「ええ、得意のトリプルアクセルを後半に二つ持ってきたことで、演技に少しゆとりが出ました。今までの演技よりも、より丁寧に音を拾えたと思います。四回転トウはあまり得意ではないんですよ」

「初めて覚えたクワドが、サルコウでしたからね。勝手ながら、鮎川選手はエッジ系のジャンプの方が得意な印象を私は持っています」


 よく見ているな、と本当に感心する。最初に覚えたクワドは市川さんのいう通りサルコウだったが、最初に飛べるようになった三回転はループだった。


 クワドは一つだけ減らした。四回転トウだ。その代わり、トリプルアクセルを二つと、コンビネーションジャンプを全て後半に入れた。四回転サルコウを飛び、その次に不安要素の高い四回転ループと、苦手意識のある三回転ルッツを前半に。前半は全て単独のジャンプだ。残りのジャンプを後半に持ってきた。

 これが功を奏した。後半のステップも息切れすることなくレベル4をもらえた。出雲さんには届かずとも、三位の晶を寄せ付けずに二位を死守したのだ。


「フリーについては、ジャッジの方から苦言をされたそうですが」


 私は好きなんですけどね、と村上さんが挟んだ。こういう意見を聞くと、このプログラムにして良かったと本当に思う。否定的な意見ばかり耳にしていると、気持ちは滅入るものだ。


「でも、これで少しは道が開けたと思います。曲を変えたほうがいい、というご意見はいただいたのですが、今季はこの曲で世界選手権に行きます。……ああ、でも。衣装は変えることしました」


 意外そうに村上さんが目を開いた。


「私としてはシンプルな今の衣装も素敵だと思いますが」

「僕もです。今の衣装は気に入ってますが、先生から四大陸からは変えたほうがいいと言われました。先生が強く言う時は、何か意味がある時なので。今はわからなくても、信じてみようかと思います」

「そうですね。彼、私と付き合っていた頃も、意味深なことをいう時は大体何かある時だったから」


 サーバーから持ってきたコーヒーを吹き出しそうになった。


「余計なことを言ってすみません。驚かせてしまいましたね」

「……本当ですか?」

「ええ。元カレです。これはオフレコで」


 村上さんは人差し指を口もとに当てた。

 俺は村上市子さんの顔を凝視した。年齢はわからないが、先生よりは年上かもしれない。オリエンタルな顔立ちの、長い黒髪が綺麗な女性だ。英語が堪能なスポーツライター。職業柄、フットワークは軽いのだろう。

 ニューヨーク在住の彼女と、横浜に住んでいる先生が、いつ知り合い恋人になり、そして別れたのかは全く知らない。そんな素振りも見せたことがなかった。

 一緒に住んでいても、あの先生はわからないことがたくさんある。


「すみません、話の腰を折って。次の大会は四大陸選手権になりますが……」

「あ、はい」


 村上さんは何事もなかったように話に戻った。

 大人には色々ある。聞かなかったことにしよう、と心に決めた。

 

 *

 

 村上さんとの話が終わり、ホテルの周辺を散歩した後、昨日まで戦った会場に向かった。日本代表によるエキシビション、メダリスト・オン・アイスに出演するためだ。


 会場入りして、出演するスケーターたちと最初と最後のグループナンバーの練習をする。昨日まで競い合っていたスケーターは、今日はただの友人だ。


 氷上にいる堤先生が、出雲さんと、長身のスケーターと、三人で談笑している。長身のスケーターは、アイスダンス優勝の神月ヒカルさんだった。グループナンバーの打ち合わせをしているらしい。神月さんとは、知己の間柄だと先生は話していた。神月さんの出身は盛岡。同郷同士だからか、出雲さんともそれなりに仲がいいようだ。


 スケート連盟も何を思ったのか、今回のグループナンバーは堤先生の振り付けだ。近くにいて安い振付師を探したら、先生に辿り着いたのだろうか。


 グループナンバー自体はそんなに難しくない。昨日まで競技者だった俺たちスケーターを慮ってのことだ。呼ばれたら氷上で自分の特技を披露して、手拍子を叩きながら最終登場者を待つ。そして全員集まったら、オープニングとエンディングのグループナンバー。今回のトリは五連覇を果たした出雲さんである。


 エキシビションが始まると、全日本ノービスの優勝者、全日本ジュニアの表彰台の選手も交えて一気に会場のテンションが上がってきた。ノービスやジュニアの頃を思い出す。優勝したら全日本選手権に招待される上に、エキシビションに出演できる。当時はそれが嬉しかったものだ。


 俺の出番は杏奈の次。その後が、全カテゴリーの優勝者になる。それまでは体を適当に温めたり、モニターで他の人の演技を見たりして待っていることにする。


「しっかし雅、なんか変わったなぁ」


 軽く屈伸をしていると、隣の晶が廊下のモニターを見つめながら呟いた。氷上では、今、ロングスカート姿の雅が滑っている。ワルツスリー。がらくたの電子音と、霧の中から聞こえるボーイソプラノ。


「変わった?」

「なんて言うかなー。影がある時があるよな。さっきも杏奈と化粧のことで盛り上がってたなーと思うと、急に黙り込むし。普通に喋っててもたまに元気ないし。滑りだってそうだよ。昔はただの元気な女の子って感じだったし、プログラムにもよるんだろうけど。これを見ると綺麗すぎるよな」


 俺には杏奈っていう将来のヨメがいるけどさあ、という晶の言葉を受け流す。

 軽い衝撃が俺を襲っていた。


「喋ったのか? 雅と」

「え? 普通に話すよ? 当たり前じゃん。友達なんだから」

「……そんなことより、次、出番だろ」


 あー、いっけねと騒ぎながら、晶がリンクサイドに向かっていく。「iCO」の曲も終盤に入ってきていた。

 改めてモニターに目を向けた。晶に言われるまでもない。雅の「iCO」は、初めて披露したアイスショーの時よりも、ずっと体に馴染んで、ずっと綺麗だった。スケーター仲間からも、観客からも評判のいいプログラムだ。

 だけど見ていると綺麗すぎて不安になる。

 このまま本当に、霧の中に消えてしまうのではないか。俺の知らないどこかに、誰かが連れ去ってしまうのではないか。


「お疲れ」


 廊下には俺以外誰もいなかった。演技が終わり、戻ってきた雅に、晶がしているように声をかける。ありがとうと小さく返して、雅はさっと視線を下に向けた。

 ……釈然としない。


「雅」

「何?」


 この二ヶ月、まともに雅と話していない。互いに練習と大会で忙しかったからだ。でも、この全日本でシーズンの前半は終わりだ。

 このまま、彼女とすれ違ったまま、わだかまりを残しておきたくはなかった。


「……大丈夫なのか?」

「何が?」

「本当は、俺に何か、話したいことがあるんじゃないのか?」


 本当に話したいのは、俺の方だ。だけど、何か言いたいことがあるなら、溜め込んでいないで伝えてほしい。……そう伝えると、雅は俯いたまま首を振る。


「大丈夫。話したいことはないし、てっちゃんが私に何かをしたわけじゃないよ。てっちゃんは関係ないから、気にしないで」

「本当に関係ないなら、なんで避けるんだよ」


 原因が俺なら、その理由が知りたい。ただそれだけだったのに、責めるような口調になってしまったのに後悔する。

 唇を引き結んで、雅は俺に背を向けた。


「待って」


 俺は、立ち去ろうとする雅の手首を掴んだ。気が急いて、勢いがついてしまったのは否めない。思ったよりも強い力で掴んでしまった。俺の指が、雅の細い手首に食い込む。

 いきなりのことに驚いたのか。振り向いた雅は、目を見開いて固まっている。

 唇が震えて、怯えていた。


「離して。本当に大丈夫だから。てっちゃんが心配するようなこと、何もないんだよ」


 瞳が揺れて、ぎこちない笑顔をむけてくる。俺が知っていて、俺が向けてほしいと願う顔とは全く違うもの。一寸先に、それでこそ霧の中でだって見つけられるほど近いのに。透明で分厚い隔たりが邪魔をする。晶は、雅は友達だから普通に話すと言っていた。では、彼女にとって、俺は、友達でもなんでもないのだろうか。

 喉の奥がかっと熱くなる。


 ーー信じがたい言葉が、喉から出そうだった。その言葉は音にならず、舌の中で転げていった。力が抜ける。動揺が広がる。


 その間に雅は、俺の手を振り払って駆けていった。

 しばらく、呆然を自分の手を見つめてしまっていた。彼女を呼び止めて、捕まえて、結局何がしたかったと言うのか。余計に苦しめただけなんじゃないのか。


「哲也くん!」


 振り向くと、長身のスケーターが俺に手招きをしていた。アイスダンスの神月ヒカルさんだ。アイスダンサーらしく長身で、誰もが振り向くような美貌を持つ。……アイスダンスの優勝者である彼の出番は、俺の次の次だ。


「次出番だろ? はやくリンクサイドに行ったほうがいいよ。……顔、青いけど大丈夫?」


 顔を覗き込まれて、初めて氷上を意識する。杏奈のU2が鳴り響いている。やばい。さっき晶に、出番だからさっさと行けと言ったのは俺なのに。


「大丈夫です。すみません、ありがとうございます」


 神月さんに頭を下げて、俺はリンクサイドに向かった。


 *

 

 アナウンスと共に氷上に出て、清澄な箏の音が流れていく。

 俺は無心でエキシビションナンバーの「水の変態」を滑り切った。この曲をどうして先生が選んだのかはわからないが、体の隅々まで水が通り切っていく感覚がして、滑っていて不思議な気持ちになる。自分が本当に水になったかのような。……音が本当に、自分に合っている気がする。自分の心を、あるべき氷上へと調整してくれる。


 滑り終わり、拍手がひと段落したところでアナウンスが入る。全日本は表彰台に上がったスケーターはアンコールを滑るのだ。選んだのはショートの終盤。フリーよりもショートの方が、アンコールに向いている。


「カヴァレリア・ルスティカーナ」の「間奏曲」。

 愛に満ちた人生を送ったマスカーニが作曲したアヴェ・マリア。


 

 ーー感情に名前をつけて、行き場を意識してあげて。

 ーー大事な人に大事だって言えるように、愛を込めて滑ってきなさい。


 

 頭がチカチカする。堤先生と出雲さんのアドバイスが耳の中に残っている。あの二人は何を知っていて、俺は何を知らないのだろうか。意識していないってどういうことだ。出雲さんが言うように、滑りに美しい思いが溢れているなら、それでいいのではないか。現に雅は、すごく綺麗だったよとスケートアメリカで言ってくれた。


 思えば、あれが、俺が雅の笑顔を見た最後だった。


 雅はどうして、ずっと苦しそうにしているのだろう。他の人には普通だ。杏奈とじゃれあい、晶と言葉を交わしている。俺にだけだ。あんなに余所余所しくて、別人みたいなのは。目が合いそうになると、さっとそらして避けていく。カナダのアーサー・コランスキーに至っては、パリのパティスリーで一緒にお茶をしていた。送られた写真の中では、さっきみたいなぎこちなさ満点の笑顔じゃなくて、綺麗な瞳で笑っていた。


 アーサーにはそんな顔をしないだろ。


 ……雅の腕を掴んだ時、喉から、そんな言葉が出そうになっていた。


 何故そう言いそうになったのか、自分でも原因を探ろうとしてーー高らかなソプラノの一節が、天上に舞い踊っていた。頭を上げると曲が始まっていた。俺がいるのは氷上。エキシビションのアンコールの中だ。慌てて、ワンテンポ遅れて滑り出す。滑り出して……頭が真っ白になった。


 混乱で汗が吹き出そうになる。

 一寸先の自分の動きに躊躇いを感じてしまう。霧の中にいるみたいに。


 

 待ってくれ。

 俺は今まで、どうやってこのショートを滑っていたんだ?



 腹の中の動揺を押し殺して、観客に手を振った。氷から上がって廊下やバックヤードでスケーター仲間たちとねぎらいを掛け合う。神月さんの演技が終わり、今は女子シングル優勝の、里村さんのエキシビションナンバー「エル・フラメンコ」が聞こえてくる。俺のミスらしいミスは、ワンテンポ遅れただけ。アンコール時の演技の変化に、みんな気がついていないようだった。


「アンコール、らしくない演技だったね」


 ーーこの人を除いて。

 自分自身で自覚していることを、堤先生が見逃すはずがない。


「……わかりましたか」

「うん。もうバレバレ。動き固すぎだよ」


 アンコールの「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、堤先生のいう通り、ぎこちなさ満点の演技になってしまった。今まで躊躇いなく動き、滑っていたのが嘘みたいだった。


「演技前なのに様子がおかしいって、ヒカルが心配していたよ。……迷子の迷子の子犬さんって顔しちゃって。君はもう子犬っていう歳でもないだろう?」

「……それを言うなら子猫でしょう」


 返せる余力があったのに静かに驚いた。

 堤先生は俺の背中を軽く叩いた。


「そういう日もある。わかってるならいいのさ」


 俺の周りの大人はみんな優しい。神月さんは出番間際に声を掛けてくれて、出雲さんはショートプログラムの前に演技のアドバイスをくれた。堤先生に至っては、エキシビションで情けない演技をした教え子を全く責めなかった。


 何かを吐き出したいと思った。喉の奥の熱いものでも、頭の中の混乱でも、わだかまりでも、戸惑いでも、なんでもいいから。


 でも今の俺には、その感情の名前が何もわからない。


 本当に吐き出すべき何かがわからないまま、長くて重いため息だけが虚空を漂った。

  

 *

 

 フィギュアスケート 2016–2017シーズン ISUチャンピオンシップ シニア日本代表


 ○世界選手権 三月 ヘルシンキ(フィンランド)

 ・男子シングル

  神原出雲

  鮎川哲也

  小林晶

 (補欠)京本敏

 

 ・女子シングル

  里村理沙 

  安川杏奈 

  星崎雅 

 (補欠)槙島亜弥

 

 ・ペア

  須藤ありさ&柴田航平組

 

 ・アイスダンス

  小倉奈々&神月ヒカル組



 ○四大陸選手権 二月 平昌(韓国)

 ・男子シングル

  神原出雲

  鮎川哲也

  京本敏

 (補欠)小林晶

 

 ・女子シングル

  里村理沙

  安川杏奈

  槙島亜弥

 (補欠)星崎雅

 

 ・ペア

  須藤ありさ&柴田耕平組

 

 ・アイスダンス

  小倉奈々&神月ヒカル組


 


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