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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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50/66

25.ある少女の矜持 【2016年全日本選手権 女子シングル後編】

 里村理沙と言えば。

 フランスのマリーアンヌ・ディデュエールと世代は同じだが、シニアデビューは里村さんの方が早かった。2014年に、当時十五歳にして日本代表としてソチ五輪に出場。五輪後はエースだった浅井真由の引退と共に、実質日本女子を一人で引っ張ってきた。


 そんな彼女の滑りは非常にバランスがいい。


 スケートのキレのよさ。鋭さ。そして、スケートのスケールの大きさだ。体はビールマンが両足でできるほど柔らかく、両足で時計回りと反時計回りのスピンが回れる。ステップも一つづつ深く刻んでいく。スパイラルは前傾姿勢が綺麗で、うねるような伸びがある。トータルバランスの取れた選手なのだ。

 ジャンプの回転不足を多く取られてしまうことを抜かせば。


 回転不足を差し引いても、彼女のジャンプは加点がつきづらい。ルッツとフリップで巻き足になる癖があり、これがジャッジの心証を悪くさせている。加えて、高さがあまりない。もちろん私が気がついていることを、里村さんが何も感じていない筈がない。


 そんな欠点を抱えていても、彼女が日本のエースであることに変わりはないのだ。


 * 

 

 正面ではなく、横向き。肩を落とし、右足のつま先を真横に開き、左足を引いたポジション。

 立っているだけで、一本伸びた百合の花みたいな美しさがある。


 スローなイントロから始まる。伴奏の繰り返し三音をじっくり聞いて、腕を広げた。デコルテが綺麗に開き、発達した肩甲骨が緩やかに動く。旋律の始まりが、トーンと一音落とされる。

 イントロに合わせ、スーッと三十センチ滑って止まる。開いた腕を、胸の前でクロスさせる。余計な装飾はない。シンプルな音と動きの、静かな導入。再びトーンと音が落とされると、右足のインサイド、アウトサイドと細かく切り替えながら、バックスネークで滑り出す。いくつかのターンを組み合わせて、一気に加速する。


 ここまでが目が追いつかないほど速い。バッククロスの姿勢一つをとっても、エッジと体と氷が一体化しているような余裕を感じる。連続のスリーターンから、ルッツの助走に。しっかりと左足のアウトサイドエッジに乗って離氷。


 背筋が伸び、三回回って降りてくる。着氷姿勢は驚くほど綺麗だ。回転は足りているように見えた。ジャンプの余韻を残しつつ、再び腕を広げてバッククロス。

 このプログラムは燕をイメージして作製したと、インタビューで里村さんは語っていた。白鳥の羽ばたきのような優雅さではなく、青空を飛ぶ燕のシャープな飛翔である。

 序盤に、派手な振り付けや技はない。ただただシンプルに、足元のエッジワークだけで魅せてくる。単独の三回転ルッツから、単独の三回転フリップ、二つのスピンと続く。

 スケートに澱みがない。どこまでも鋭く研ぎ澄まされ、ひと蹴りが大きい。


 

 女子シングルの日本のエース、里村理沙。

 フリースケーティングは「エクソジェネシス交響曲 第三部」。

 静謐で壮大。そして美しい交響曲。

 イギリスを代表するロックバンド、MUSEの名曲だ。


 

 序盤の静かな旋律は、曲が進むにつれて少しずづ盛り上がりを見せてくる。中盤のコレオグラフィックシークエンスは、リンク全体を細かく刻み、得意のアラベスクスパイラルで半周する。カーブする時のチェンジエッジがスムーズだ。前傾姿勢の美しさから、会場から大きな拍手が上がる。


 ……今の私は、この曲を滑るのが難しい。静かだが深みのある曲に、私の滑りが負けてしまう。

 里村理沙だから負けていないのだ。


 スパイラルの終わりからが本番だ。

 ここからのジャンプは1.1倍される。後半に、三つのコンビネーションジャンプを含む五つのジャンプを組み込んできていた。


 ヴォーカルの始まりとともに、スピードが倍増される。この曲のマシュー・ベラニーの声は、祈るような切なさがある。もう一度やり直そうという一節を聞いて、ダブルアクセル+三回転トウループ+二回転ループのコンビネーション。ダブルアクセルはカウンターからの難しい入り。しかし、ジャンプの前も、三連続を飛び終わった後もスピードが全く落ちない。軽くバレエジャンプを飛んで、次のジャンプに向かう。バレエジャンプは180度開脚したオーソドックスなものではなく、右足を前に伸ばし、左足を後ろに引いて膝を曲げた難しい形だった。畳み掛けるように、インサイドイーグルから直接飛ぶ三回転ループ。


 端から端まで、それでこそリンクの全てを使って燕が飛翔する。先日の神原出雲の流れる演技とは少し違う。一瞬たりともエッジがフラットな部分がない。どこを切り取っても姿勢が崩れない。氷とエッジと体が三位一体になっている。匠の技だ。


 燕は空を飛ばなくては生きてはいけない。

 今の里村さんが燕ならば、リンクは60×30の範囲を超えた無限の空である。


『誰が何を滑っても、今日勝つのはうちや』


 演技前の彼女の言葉を思い出す。

 ひと蹴りのスケートから感ぜられるのは静かな気迫。

 自らを律し、戦い続けたスケーターの矜持。

 ……無限という単語すらも。今の彼女のスケートの前では小さいものなのかもしれない。


 

 三連続コンビネーションから始まる五連続ジャンプは圧巻だった。全てのジャンプを着氷し、コンビネーションは、一つが三回転ルッツ+二回転ループ、残りの一つが、三回転サルコウ+三回転トウループ。


 ……ここまで見て、本当の彼女の強みは、後半になっても息切れをしない体力だと実感する。七つのジャンプを全て決めても、全くスピードが落ちていない。むしろ序盤より速くなっている。


 加点は少ないかもしれない。それでも、スケートの質がネガティブな印象を全て吹き飛ばす。


 マシュー・ベラニーの最後の一節が、静かに落とされる。自分を許す最後のチャンスだと言い募る。静かな余韻を残して、曲は再び……序盤と同じように静かな進行に戻る。スピードが少しづつ緩やかになった。


 三度の分散和音。後半の五連続ジャンプに続く、本当の見せ場。巧みなエッジワークとステップワークを活かした、最小限まで音を閉じ込めたステップシークエンス。


 エッジを深く使いながら演技を実施する里村さんを見ながら、私は今シーズンの彼女に思いを馳せた。

 もどかしさはあるのだろう。ジャンプの回転不足さえ取られなければ、もっと上位に立っていてもおかしくはない。優勝していた大会もあったかもしれない。


 ステップの中盤。リンク中央まで来て、ピポットで小さくまわりピタリと静止する。燕が翼を休ませる瞬間。

 ぞくっとするほど美しい顔でジャッジ席側を向いた。


 再び翼を広げて、何事もなかったように滑りだす。……左足だけで、残りのステップシークエンスを滑り切る。

 ラストはコンビネーションスピンだ。左回りのキャメルスピン。足を変えて、右回りのキャメルスピン。彼女にしかできない技のひとつ、スイッチスピン。そのまま右回りでシットスピンになり、体をひねる。

 ラストのビールマンスピンの時、歓声で曲が聞こえなかった。


「……負けたわね」


 いつの間にか、隣に杏奈がきていて、小さくつぶやいた。杏奈は苦笑いをしていたが、少し嬉しそうだった。

 これだけのものを見せられたら頷くより他はない。私は杏奈の言葉に肯首して、静かに拍手を送った。負けて清々しい、というのもある。


 それでも一番は、美しい四分間を見せてくれたスケーターへの、感謝と賛辞である。

 殆どの観客が立ち上がっている。今日一番の拍手が、里村理沙に向かって送られていた。


 

 *


 

 表彰式で、里村さんは少し涙ぐんでいた。今季初の優勝だ。ショート三位、フリー一位での大逆転だった。私は里村さんの左側に立ち、杏奈は右側に立つ。


 銅メダルが、またひとつ増えた。

 今季四個目の銅メダルに、ちょっと切なくなりながら三位の表彰台から手を振った。


 一瞬だけ笑顔が固まった。

 暗い気持ちを思い出したくはなかった。メダルを首にかけ、花束を振りながら杏奈と里村さんとリンクを一周する。

 ……滑りながら見えたてっちゃんの顔を、私は見て見ないふりをした。



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