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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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24.ある少女の闘志【2016年全日本選手権 女子シングル前編】

 女子ショートから明けて、最終日の朝。


 朝食を摂るために、私は滞在しているホテルのレストランへと向かった。父は早めに済ませたらしく、ホテルの周りを散歩に出た。


 ビュッフェから適当に料理を取ってくる。麦ご飯。味噌汁。冷奴。蒸し野菜と、蒸し鶏のサラダ。それから温泉卵。移動先でも摂るご飯には気を使ってーーというのは母の言葉だ。


 1人でテーブルについて食べ始めようとしていると、小柄な女性が近づいてきた。

 色白で、肩甲骨あたりまでの艶やかな髪を後ろに流している。背中や肩は、薄くもしっかりとした筋肉がついているのが服越しにもわかる。薄い唇に、切長の瞳の横には黒子がある。着物が似合いそうな和風美女だ。


「おはようさん、雅ちゃん」

「おはようございます、里村さん」


 里村理沙。齢19歳の、全日本2連覇中の日本女子のエース。153cmと私より背が低いから、女子選手の中でも特に小柄な方だ。


 相席いい? と聞いてきた里村さんに、どうぞと答えた。里村さんはありがとさんと言いながら椅子を引く。彼女がバイキングから取ってきた朝食は、おしゃれなカフェご飯のようにワンプレートでまとめられている。五穀米。コリンキーのサラダ。スクランブルエッグ。サラダチキン。ブロッコリーの和物。それからコーヒー。


「怪我は大丈夫ですか?」

「うん。まあ、だいぶ良くなったけど、あんま無理はいかんなぁ。心配してくれてありがと。昨日も色々とやらかしてしもうた」


 間延びをした口調。今は練習拠点が京都の里村さんは、生まれ故郷は埼玉県の川越市だ。イントネーションと使い方が微妙に違う独特な関西弁は、「関西に行ったからそっちの方がウケると思って」と言うのが彼女なりの理由のようだ。


 GPファイナルに出場した里村さんは、ジャンプの回転不足が響いて総合5位に終わった。それでもPCSは全体の3位ーー総合4位の杏奈や、銅メダルのジョアンナよりも上だったのだ。こういうところを見ると、本当にフィギュアは技術一辺倒な競技ではないのだなと思わされる。


 昨日のショートも、そうだった。


 昨日のショートプログラムは、今シーズン好調の杏奈が1位に躍り出た。里村さんは、コンビネーションジャンプに回転不足判定がついて、3位になった。それでも演技構成点は、全体の一位だった。


 私は2位だ。ジャンプは全て決められ、見た目はノーミスでまとまったが、ステップや最後のスピンでレベルを取り損ねてしまった。ジャンプミスを避けることを念頭に置いていたら、多少動きが雑になってしまったのだ。選手の演技の荒さを、ジャッジは見逃さない。


 対する里村さん。ショートプログラムの「アンダルシア」は、コンビネーションジャンプのセカンドで回転不足を取られてしまったが、スピンもステップも表現も、全てが一級品だった。リズムを刻むカスタネットの音に合わせたステップ、体幹のしっかりとしたスピンが目に浮かぶ。


 ……ジャンプさえ、というもどかしさはあるのだろう。里村さんも。回転不足さえ取られなければ、ファイナルで表彰台に上がっていたはずだ。


「雅ちゃんも、調子は良いとは言えんみたいやな」

「……わかりますか」


 そんなことありません、と言えない自分が恨めしい。こんなところで変に素直だ。


「まぁ、雅ちゃんのフリーを見て、絶好調とか言える人間の方が頭に花咲いとるやろ。大方のマスコミさんがそうなんだけど、あいつら何見とんねんな。宇治川にでも沈めたろかと思ったわ」


 大和撫子を絵にしたような外見の美女の口から、強烈な言葉が飛び出てきた。私に対する批判ではなく、マスコミに対する批判だ。


 先日の取材は、民放の夕方のニュースで放送された。あんまり見たくはなかったけれど、母が録画しておいたのだ。確認の意味合いと、好奇心に負けてみたところ……今の現状の自分とはかけ離れた編集をされていた。見るんじゃなかった、と激しく後悔した。


 結果だけ見れば、出た大会の表彰台から転がり落ちていないのだ。全部3位だけど。加えて私にはトリプルアクセルがある。今季連続表彰台、トリプルアクセルジャンパーのサラブレット。絶好調の新星が、最強の武器を携えて今季の全日本選手権の表彰台と世界選手権の代表を目指す……。みたいな。


 でもその反面、フリーのPCSは芳しくない。どう滑ったら上がるんだろうと、ぐるぐると考えてしまっている。


「なんかぎょうさん考えて滑ってるのはわかる。今が踏ん張りどきや。でもな、考えてもええけど、肝心な時に考えすぎて迷ったらあかん。迷いからは中途半端な演技しか生まんからな。私から言えるのは、これだけやな」

「……ありがとうございます」

「手ェ止めてしまって堪忍。食べよか」


 思わぬ激励に胸が詰まる。里村さんは強い。でもそれ以上に優しい。

 いただきますと手を合わせて2人で食べ始めた。


 

 *


 

 公式練習が終わった後、一旦ホテルに戻って仮眠をとる。靴下を脱いでベットに横になり、眠気が訪れるのを待った。


 カチカチカチと壁の時計が秒を刻む。

 やけにうるさい。


 ばふっと枕に顔を埋めてみる。息苦しくなって、余計に音が気になるようになった。

 ……公式練習の時、ジャンプは何も問題がなかった。三回転ルッツ+三回転トウのコンボも、トリプルアクセルも綺麗に決まった。


 だけどジャンプの調子が良いのに反比例するかのように、他の動きがぎこちなくなっているみたいだった。腕の伸ばし方。目線の送り方。公式練習でフリーを滑ったが、一つ一つの動きがしっくりこない。

 これでいいのか、と迷ってしまう。

 本当にこの動きでいいのか。この腕使いでいいのか。


「眠れない……」


 考えすぎているのだろうか。

 体にプログラムが馴染むのと、そのプログラムが本当に自分のものになっているかは違う。私はこれでいいのだろうか。

 ……目をつぶりながら、雅ちゃん、と呼ぶ堤先生の声が不意に蘇った。


 

「雅ちゃんさあ、フリーの曲、変更する予定ある?」


 そう堤先生が声を掛けてきたのは、グランプリファイナルが終了した三日後だった。

 てっちゃんのファイナルに帯同した先生は、この日の午前中に横浜に帰ってきた。試合に出たてっちゃんはリンクに顔を出さなかったが、堤先生はスケジュール調整や報告でやってきたのだ。


「な、なんでですか?」


 堤先生とは普通に話せる。てっちゃんとはまだ全然だめだけど。てっちゃんがこの場にいなくて良かった、と、私は酷いことを考える。


「うーん、なんなんだろねえ。さっき、フリーの練習してたでしょ? あれみたら、ちょっと不安になってしまってさ」

「不安ですか?」


 堤先生は目を細めながら、言った。


「なんていうかね、ちょっと無理してない? 自分の動きがPCSに反映されてないか、ものすごく過剰になってないかな。ぶっちゃけ聞くけど、今のフリー、滑ってて楽しい?」

「それは……」


 喉がつかえた。図星を言い当てられて、目が泳ぐ。


「俺だって覚えがあるよ。目一杯やっているから、評価もされたいし。それはアスリートのどうしようもない性っていうものだからね。けどさ、無理してるのがバレバレだと、ジャッジの評価だって辛くなるし、よく頑張りましたねっていうことしか伝わらないよ」


 堤先生は、今季の私のプログラム制作はエキシビションだけだ。エキシのプログラムはたまに見て口を挟んでも、フリーやショートでアドバイスすることはなかった。振り付けに携わっていても、直接の指導者ではないからだ。

 ……その先生から見て、よっぽど目に余ったのだろうか。


「でも……」


 このまま、出来ないままシェヘラザードから逃げたくない。


「楽しいとか、楽しくないとか。そういう話じゃないんです。もっとレベルアップするために、必要なんです。これで評価されたいし、私はジャンプだけじゃないんだって、滑りで証明したい。……変ですか」

「変じゃないさ。俺の杞憂だったらそれでいいんだ。でも、気が向いたらいつでも言って。君のためのプログラムは、もうできているから」


 頭をぽんぽんと優しく叩かれる。なんだかそれが居た堪れなくて、少しだけ苦いものが込み上げてきた。

 アーサーといい、堤先生といい、なんで私に関わる人は私に優しいんだろう。

 

 

「……雅、雅。起きなさい」


 目を開くと、見慣れた父の顔がそこにあった。窓の外は暗くなっている。眠れないと思っていたのに、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


「父さん。なんでここにいるの?」

「フロントから鍵を借りました。何度か鳴らしても出てこなかったので」


 今何時? と聞くと5時ですと返答された。女子のフリーが始まる時間だ。今日の日程の最後。……全ての結果が出る競技が始まる。


「先ほどアイスダンスのフリーが終わりました。……そろそろ行きますよ」

「うん」


 

 *


 

 ショートの1位は杏奈。2位が私で、3位が里村さん。最終組は他に、ベテランの槙島さんや浅間さんに、去年までジュニアで一緒に大会に出場していた本島藍もいる。


 フリーでは、先の滑走は杏奈だった。ショート1位に相応しい演技を、フリーでもやってのけた。グランプリファイナルで4位だったのが相当悔しかったらしく、三回転ルッツ+三回転ループのコンビネーションをきっちり決めた。


「雅」


 フェンスを挟んで父と向き合う。前の滑走の槙島さんの演技がモニターに映し出されている。キス&クライに座る槙島さんは笑顔だ。今の自分の演技に満足、という感じ。しばらく私がしていない笑顔で座っている。

 ……意識してはだめなのに、こういうのも結構緊張を煽る。


「今までの自分を信じなさい。あなたには、トップを狙える実力があるはずですよ。だかから、何も考えずに思いっきり飛んで来なさい」

「思い切り?」

「迷うな、ということです。ここまできたら、自分ができる精一杯しかできないんですよ」


 ーー肝心な時で迷ったらあかん。迷いは、中途半端な演技しか生まんからな。

 朝食時の里村さんの言葉が浮かんでくる。……今、父からも同じことを言われた?


「プログラムがどうこうは、今は考えるべきではありません。今はただ、今できる全てをやってきなさい」


 22番。星崎雅さん。アイスパレス横浜。


「行ってくる」


 力強く頷いてリンクの中央に向かう。

 今日の合言葉は「迷うな」。

 

 

 自分を信じきれたかどうかはわからないが。ここで表彰台を死守しなければ、世界選手権に行けなくなってしまう。


 そんなギリギリの状態が、私に迷わせず、逆に力をくれたようだ。


 全てのジャンプをミスなく降り切って、何も考えずに音楽に身を任せて滑っていたら、いつの間にか演技は終わっていた。ジャンプは綺麗に降りる。スピンもきっちり回りきり、ステップもしっかり踏み込む。余計な動きはしない。シンプルに。迷いなく、これが私のシェヘラザードだという動きで。「私が主人公のアラビアンナイトの世界はこれである」と言う動きで。


 演技が終わって驚いたのは拍手量だ。今季、今までもらっていたものよりも格段に多い。振ってくる花束の量も。全日本で、お客さんのほとんどが日本人だからだろう。

 父は戻ってきた私を、何も言わずに抱きしめた。


「何か考えて滑っていましたか?」


 キスクラに座りながら、父に聞かれたのがこれだ。

 私は首を横に振った。何も考えていなかった。ただ、音に身を任せていたら終わったと素直に伝えた。


「このプログラムに於いては、あなたは考えすぎないほうが良かったのかもしれませんね」

「え?」

「あの大澤ジャッジが、多少意地悪だったってだけです。……出ましたよ」


 父がモニターに目くばせをする。表示された点数は、今までよりも遥かに高い点。総合では杏奈に届かなかったが、フリーは1点だけ点数が上だった。総合では二位だが、フリーでは現在一位。PCSも、7点台は繋ぎだけで、あとは8点台。

 歓声が上がった。


「よくやりました」

「……まだ、あと2人残っているけどね」

「それでも、今季では一番の演技でしたよ。今日は考えるなといいましたが、考えるのは、悪いことではありません。これからも、プログラムをブラッシュアップする努力を怠らずに」


 父が私の肩を抱いた。思わず苦い笑いが漏れ出た。最後の一言だって結構意地悪だ。それでも、今季の苦労が、少しだけ報われた気がした。


 

 *


 

 キス&クライを早めに明け渡して、私はリンクサイドで次の選手の滑走を見ていた。23番滑走は、ジュニアの本島藍。今年の全日本ジュニアの優勝者だ。


 映画「アーティスト」のサントラに乗せて滑る本島さんの演技が後半になった頃。ウォームアップを終えた里村さんが私に近づいてきた。


「ちょっとだけ吹っ切れたようやな。今までのフリーで、一番やったよ」

「里村さんのおかげです。今日話していなかったら、もっと悪かったかもしれません」


 ありがとうございますと私が頭を下げると、里村さんは口端だけを崩して笑った。


「ほんなら良かったわ。でもな、うちも負けへんで。誰が何を滑っても、今日勝つのはうちや」


 その言葉は、自分を鼓舞するためか。私への宣戦布告か。

 私はバックステージに引き下がらずに、リンクサイドで日本のエースの演技を見ることにした。本島さんの演技が終わり、入れ替わりに里村さんがリンクインする。本島さんの点が表示され……私は自分が表彰台を守り抜いたことを知った。


 ーー24番。里村理沙さん。同志社大学。


 アナウンスと観客に応えるように、勝ち気な笑みを浮かべて里村さんが両手を挙げる。ダークブルーとダークグレーが混じり合った衣装。背中は大きく開いていて、彼女の肩甲骨や、しなやかな背中の筋肉が露わになっていた。やや華やかさには欠けるが、シンプルで品のある衣装だ。


 リンク中央で位置に着いた瞬間。

 ……私より小さいはずの里村さんが、私よりも遥かに大きく見えた。

 


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