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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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22.ある少年の記憶 【2016年全日本選手権 男子シングル前編】


 最初にオルガンの音が響く。オルガンの音色は独特で、空間を正常に清める作用がある。フリーの曲だ。フルート。ピッコロ。ヴァイオリン。ヴィオラ。チェロ。さまざまな音が重なって、洪水になる。あの音も大事で、この音も大事。富士山で言えば何合目だ? ロシアの時は四のまま、ファイナルの時にようやく五合目になった。それでもミスは多い。


 曲が鳴りながら、頭の中ではいろんな人の顔と言葉が巡っていく。杏奈の悔しそうな顔。ループさえ三回転ならと嘆いていた。表彰台での出雲さんの晴れやかそうな顔。それでも彼は、バンケットの時、本当に怖いのは下からやってくると言っていた。下。どう考えてもルーティカことアンドレイ・ヴォルコフのことだ。幼くキョロキョロ目を動かすルーティカの、超絶技巧な演技。ステイシー・マクレアのセクシーなアサシンズ・タンゴ。小気味いいジェイミーの演技。里村さんの凛としたアンダルシア。市川監督のダメ出し。俺に対する、……ジャッジからの苦言。アメリカのジャッジにフリーが滑りと合っていないと言われ、すかさず堤先生が「それでは世界選手権をお楽しみにください。その時には、きっとあなたの気に召しますよ」と反論する。全てが終わった時にやってきた悪寒。振り向いた先にいたのは……。

 そこで俺は目を覚ました。

 

 カーテン越しにも陽の光を感じない。iPhoneで時間を確認する。朝四時。眠気はすっかり吹き飛んでいた。


 初めてのファイナルは少し苦い大会になった。ショートは良かったけれど、フリーはミスを繰り返した。ショートには苦手意識があったから、この曲を選んでくれたアンジェリカに感謝しなければならない。この曲じゃなかったら、シーズン前半の成績はもう少し悪かったかもしれない。


 それにしても、あの振り向いた先に誰がいたのか。大会やショーに行くごとに襲われる原因不明の悪寒。

 この大会ではそんなものを感じないことを祈る。


 ここは大阪。12月はクリスマスの日。全日本選手権が始まる。


 

 *

 

 全日本の日程は、カップル競技の後、男子シングルと女子シングルが交互に行われる。金曜日の今日に男子ショート。明日、土曜日に女子ショートののちに男子フリー。日曜日が女子フリーと代表発表。最終日はエキシビションだ。全日本選手権は、シーズン後半に控える、世界選手権、四大陸選手権、世界ジュニア選手権等の代表の最終選考会になる。


 この全日本の結果次第で、シーズン後半の予定が大きく変わってくる。


「オリンピックや世界選手権より、全日本の方が怖い時があるね。結果を出す大会っていうよりも、選ばれないといけない大会だから別の緊張感があるよ」


 全日本の前に言った堤先生の言葉がこれだ。


 今季の世界選手権の男子シングルの代表枠は、去年の結果から最大「3」枠になっている。今シーズンの代表基準は以下の通り。


 一枠目は、全日本選手権の優勝者。

 二枠目は、全日本選手権の2、3位の中から、今シーズンの成績を鑑みて選出される。

 三枠目は、世界ランキングやここ2シーズンの実績を考慮して選出する。


 選出される条件のボーダーとしては「全日本選手権の表彰台に上がっているか否か」だ。三枠目は、たとえば神原出雲がインフルエンザなどの体調不良等で全日本選手権に出場できなかった時の救済措置だと思われた。ソチ五輪金メダル、世界選手権3連覇中、先日GPファイナルを4連覇したばかりの日本のエースを選出しないという考えは、スケート連盟にはないのだ。


 俺が世界選手権に出場するための最低条件は、全日本の表彰台だ。疲労はそこそこ溜まっているが、それは出雲さんも同じのはず。


 

 *


 

 公式練習は午前中。一旦ホテルに戻って休憩して、夕方ごろ再び移動する。


 会場入りすると、ショート第一グループが滑っているところだった。俺の滑走は、最終グループ2番滑走。最終滑走が、日本のエースの神原出雲。


 更衣室は空いていた。ほとんどの選手は着替えて、もうウォームアップを始めているところだろう。俺が入ると、入れ替わりで着替え終わった晶が出ていく。晶は第四グループ2番滑走。軽口を叩き合ってロッカーに向かうと、一頭の麒麟が鏡台の一部を占領していた。

 一頭の麒麟。神話の中の生き物。


「2週間ぶり、哲也。調子はどう?」

「それなりです。……すごいですね」


 神原出雲は既に着替えが終わって別の作業をしている。

 女子更衣室に入ったことはないが、女子更衣室の方が男子更衣室より鏡台の数が多いらしい。狭い鏡台で出雲さんが扱うのは化粧品。……作業スペースにはいくつかのボトルが並んでいるが、俺には何が何やらさっぱりわからない。俺が着替える間にも出雲さんは、そんな未知の液体を使ってじっくりと自分の顔を作っていく。俺の視線に気がついた出雲さんは、華やかに微笑みながら一つの提案をしてくる。


「哲也もやってみる?」

「……冗談ですよね?」


 競技のために化粧をする男子スケーターはいる。だが俺はしたことがない。着替えて、髪の毛を少々整える程度だ。断った俺に、出雲さんは想像通りだと言わんばかりに小さく笑った。


「このプログラムのために初めて自分で覚えてみたけど、化粧をする女性の気持ちがわかったな。理由は色々だけど。一番は、自分を豊かにするためなのかもしれない。案外楽しいよ」


 まつ毛の先を棒のような何かで塗る。ひと塗りするだけでまつ毛が驚くほど長くなった。これでよし、と出雲さんは満足そうにつぶやいた。鏡に映った出雲さんは、ゾッとするほど清楚な魅力で溢れていた。22歳の男性に使っていい単語のように思えないが、そう表現するしかない。じっと鏡を見つめてしまう。


「やっぱり哲也もやってみよう」

「いいですってば」

「哲也」


 全日本の真っ最中で、しかも大事なショートプログラムの前でそんなことをしている余裕はない。ないのだが。


「ファイナルの時も気になっていたんだ。ちょっと肌が荒れているね。でも、少し塗るだけで見違えるから。化粧ってよりも、もう少し綺麗に見せるための秘訣かな。そこに座って。これは先輩命令だ。昔話もしたくてね」

「昔話、ですか」


 出雲さんの中では決定事項だったようだ。観念して俺は隣の椅子に座る。この人にもウォームアップは必要だから、それほど時間はかからないだろうし、俺が渋っているからそこまで奇抜な化粧はしないだろう。


「そう。全日本の真っ最中に、余裕があると思った?」

「そうですね。少なくとも、俺よりは」

「素直でいい。……動かないでね」


 戦いのための準備なのだろう。このプログラムのために覚えたと言っていた。出雲さんはいくつかあるボトルのうち、一つをとった。これが化粧水らしい。細い指でボトルを振ると、透明な液体が出てきた。


「むかしむかし、岩手山の麓に一人の男の子がいました。男の子はそれはそれは大層美しかったのですが、肺が少し弱かったのです。心配した両親は、男の子を健康にさせようとスケートリンクに通わせました。そうして男の子は、フィギュアスケートと出会いました」


 出雲さんは化粧水をコットンに浸して、叩くように俺の顔に塗りたくった。若くても擦っちゃだめ。せめて押しつける感じでと。


「男の子には憧れた人が二人いました。二人とも、男の子より10歳近く年上でした。一人は中学生の男子スケーター。彼は誰よりもスケートが上手く、誰よりも大きいジャンプを持っていました。15歳で長野五輪に出場し、その後盛岡から離れることになっていました」


 顔が冷たい。肌の、僅かな隙間と隙間に染み込んでいく。次はこれ。自分で塗ってみてと手の甲に、クリームと水の中間のような質感の白い液体を置かれた。なんですかこれ? 乳液。乳液と化粧水の違いは何だ? 化粧水は肌に水を与えるもので、乳液は肌に与えられた水分を逃さないための鎧、と丁寧に説明された。


「その人と別れる日、彼は男の子を抱いてこう言いました。ーーきっと君はいいスケーターになる。オリンピックで金メダルが獲れるかもね、だから是非とも俺に続いて欲しいと。そう言って彼は、アメリカへと旅立って行きました」


 額、両頬、鼻の頭、顎の五箇所に乳液を置いて、そこから顔全体に広げてと指令が下る。右の指先を使って白い液体を伸ばす。こんな感じですか? ここに届いていない。ここ、と出雲さんが指したのは、耳に近いあたり。


「男の子にはもう一人、憧れた人がいました。中学生の女の子で、彼女も確かに上手でした。しかし、彼女はある事情で滑れなくなってしまったのです。彼女は彼が去った後、ぼんやりとリンクの観客席で泣くことが多くなりました。女の子はこう呟きました。目指していた場所も、大事な人も遠くに行ってしまった。寂しい。私には何もない、と」


 出雲さんは今度は肌色の液体を、乳液と同じように手の甲に置いて、同じように伸ばしてと言った。同じように。 鏡をちゃんと見て、ムラが無いようにね。ファンデーションは、ムラがあったら最悪だから。……これでいいのか。


「男の子はそこで、泣いている彼女にこう言いました。僕がいるよ。僕があなたをオリンピックへ連れて行く。あの人に続く場所で金メダルを獲って、あなたの首にかけてあげる。……女の子はそこでようやく笑ってくれました。久しぶりにみる彼女の笑顔に、男の子は大変嬉しくなりました。その時にこう思ったのです。この人が大事だ。だから、この人のために滑りたいと。それがその男の子の始まり。そこから先は、君の想像に任せよう」


「……メダル、掛けられたんですか? その人に」


 俺の問いに、出雲さんは先ほどと同じように華やかに微笑んだ。コンパクトを開ける。これは仕上げ用のファンデーション。そう呟いたものを、化粧水と同じように俺の顔に叩いていく。


「これは俺の物語ではなく、ある男の子の物語だ。でもこの物語を思い出して、今回のショートが出来上がったよ。それを目指す理由が、たった一つの恋だって別にいいんだ。おかげでその男の子は強くなれたんだから」

「なんでその話を俺にしてくれたんですか」


 君のため、と出雲さんは答えた。


「フリーは堤先生に考えがあるんだろう。頭の硬い人の意見なんて気にしなくていいのさ。俺が気になったのはショートの方」


 先日のGPファイナルで、フリーのプログラムをだいぶダメ出しされてしまった。曲と俺自身の滑りが合っていない。噛み合っていない。曲と対話ができていない。ジャッジからはプログラムを変えた方がいいとまで言われてしまった。その中で出雲さんは、初見のジャパンオープンと変わらない言葉をくれる。完成が楽しみだと。


 一方でショートは、一定の成績を点数を収めている。PCSもそれなりに反映されてきている。自分の中でも満足はしていた。堤先生も納得はしているようだった。……時折何かを言いたげにしているけれど。言いたい言葉はわかる。


「そうだね、まず君のショートプログラムはとても綺麗だ」

「……耳を疑う言葉ですね」

「心外だな。俺は世辞なんて言わない。知っているだろ。……はい、動かない。眉毛が変な感じになっても知らないよ」


 顔の動きをぴたりとやめる。鉛筆のような何かで、出雲さんは俺の眉毛をいじり出した。


「前に堤先生と杏奈に、悪くないけど愛が足りないって言われました」


 堤先生がいいたげにしているのは、つまりこれだ。


「うん。それは当たっている。でも、この間のファイナルの時はちょっと違ったな」


 出雲さんは断言した。あくまでも俺の印象だけど、という前置きから出雲さんは話を続けた。彼は無色のリップのキャップを開けて、指先で掬い取る。……それは自分でやりますと言ってリップを俺は受け取った。


「君のショートは、美しい思いで溢れている。だけど、その感情の名前を知らないようにも見えるし、感情の向う先をちゃんと認識していないようにも見える。今のままでも十分綺麗だけど、それを意識しただけで大分変わるんじゃないかな。少なくとも俺はそう思う」

「感情の名前とその行き場、ですか」

「そう。それは自分で見つけるべきだから、俺は教えてあげない。さあできた。綺麗になったよ」


「愛が足りない」という堤先生と杏奈の言葉。「ある男の子」の始まりの物語。動機が恋だって別にいいという出雲さんの言葉と、自分の知らない感情の向かう先。そうすればこのショートはもっと良くなると。言いたいことはわかる。出雲さんのいう通りにすれば、もっと良くなるかもしれない。だけど。


 喉の奥が熱くなる。

 何故だろうか。出雲さんのいう通りにしてしまったら、俺はこのショートプログラムを滑れなくなってしまう気がした。

 

 

 鏡で見ても劇的に変わった、とは全く思えなかったのだが。


「こりゃいいね。見違えたよ」


 廊下で待機していた堤先生が、口笛を吹かんばかりに感嘆の声を上げた。


「そんなに違いますか?」

「全然違うよ。出雲、ありがとう」

「いいえ、堤先生。俺が楽しかったんですから。無理にやってすまなかったね」


 頭に出雲さんが語った昔話がリフレインされる。出雲さんより10歳以上年上の、長野五輪出場のスケーター。奇妙な三角関係の中心は……どう考えても。

 演技楽しみにしているよ、と言って出雲さんは離れていく。


「頭が軽く混乱って顔してるよ。何か釈然としないことも言われたみたいだね」

「……なんでわかるんですか」

「そりゃ顔見ればね。でも、今は一旦忘れて集中しなさい。出番なんてあっという間に来るんだから」


 あの話は出雲さんの話ではない。「憧れた人」の一人も、堤先生ではない。出雲さんのアドバイスは大変ありがたいが、余計なことは考えるな。全てをシャットダウンするように、俺はイヤホンを耳に入れた。


 

 *


 

 自分の演技が終わった後、俺はインタビューもそこそこに関係者席にまっすぐに向かった。ミスなくショートを終えられ、暫定1位に立つ。残りは後三人。

 彼の出番はすぐにやってきた。男子シングルショートプログラム、全ての選手が終わった後に登場するのは日本のエース。


 たくさんの花をあしらった着物風の衣装。黒のボトムに、気になったのは裾の長さ。袖も広がる作り。このデザインが似合う男性の方が圧倒的に少数だろう。


 このプログラムが競技で披露されたのは、GPシリーズ第2戦のスケートカナダだった。ショートの後の会見は、それなりに荒れたようだ。あなたのショートプログラムは女性的すぎる。男子シングルにはそぐわないのではないか。あなたはゲイなのか。等々、質問攻めにあったようだ。その中には出雲さんの人間性を否定するような目線もあったに違いない。日本もそうなのだが、意外に北米は男性の女性的表現について保守的な面もある。


 全ての質問を聞いた後、神原出雲は静かに口を開いた。


「フィギュアスケートは美しいスポーツです。美しさに、男も女も関係ないのではないですか? 女性は男装して滑ることがあります。では、男性が女性を演じてはいけないのでしょうか。アイスショーでは、私の尊敬するマサチカ・ツツミが『歌舞伎』の藤娘を演じています」


 それはショーだから通用した理屈だ、アマチュアではいかがなものか、常識というものもあるだろうと、一人の記者が食い下がった。

 それでも出雲さんは負けなかった。


「ゲイであろうがヘテロであろうが、それは関係がありません。現状、競技におけるフィギュアスケートでは、女性のパンツスタイルは解禁されていますが、男性はスカートを履いてはいけないルールになっています。そのルールも覆えされるかもしれません。遠くない将来、そうなるとフィギュアスケートという競技はもっと豊かなものになると私は信じています」


 私のプログラムがそのターニングポイントになったら嬉しいですね、と出雲さんは締めくくった。


 この発言は、流石は神原出雲と称賛する声と、金メダリストの傲慢と批判する声で二つに分かれた。日本でも「神原出雲、女子シングル転向か」という下世話な記事も出たようだ。


 ……今では、称賛する意見しか出てこない。

 歓声と拍手をかき分けるように、静かに位置につく。肘を曲げて、傘を持っているようなポーズ。


 

 ショート最終滑走は神原出雲。曲は……

 

 

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