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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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42/66

17.パリの散歩道【前編】

 GPシリーズ、第四戦。フランス大会。

 フランス大会のエキシビションは照明が凝っている。色とりどりのライトが花を描き、雪を描く。色のバリエーションも、他の大会より多いように思う。

 今氷上で演技を始めようとしているのは、このエキシビションの大トリ。女子シングル優勝のマリーアンヌ・ディデュエールだ。

 薄絹のヴェールを纏い、花の冠を被った彼女は、湖水の女神に見える。フランス人ハーピニスト、セシル・コルベルの曲。7月のキャッスル・オン・アイスでも評判の良かったショーナンバーだ。


 私は彼女の演技を見ながら、昨日父と話した事を思い出していた。

 

  *

 

 さてフランス大会。今年の開催はパリ、会場はフランス大会ではお馴染みのベルシー体育館だ。

 女子シングルは地元マリーアンヌ・ディデュエールが錦を飾り、2位はカナダ大会2位のステイシー・マクレアが、ベテランの意地を見せて表彰台を守った。

 私はというと。


「あなたはブロンズコレクターでも目指しているのですか」


 とんでもない皮肉だ。父の言葉に、思わずぐさっとくる。


 ネーベルホルン杯、スケートアメリカ 、フランス大会と続いて3位表彰台だった。ジュニア上がりの成績としてはまずまず、悪くはない。悪くないどころか、出来過ぎな気もしている。結果だけ見れば順風満帆だ。

 だが、こうも肌触りも色も同じのメダルを3大会連続でかけていると、多少落ち込みたくもなるものだ。四位だったらまた違っていたのだろうか。


「上へ登れるだけの力はあると思いますよ、現時点で」


 原因は分かっている。フリーだ。

 ショートのハンガリー狂詩曲の評価は悪くない。技術点も演技構成点も、スケートアメリカよりもいい点がもらえた。

 だけど……。


「私のシェヘラザードは、ジャッジが求めているものじゃないのかな……」

 

 そう思ってしまうほど、フリーの演技構成点が伸び悩んでいた。五項目オール8点台を狙いたいのに、7点台がずらりと並んでいる。スコアシートをしっかり見ると「振り付け/曲の構成」や「音楽の解釈」で6点台をつけるジャッジもいるぐらいだ。演技構成点は、ショートでは三位。フリーでは五位だ。

 それでも私が表彰台に上がれるのは、トリプルアクセルという強みを持っているからだ。今季、トリプルアクセルをショート・フリーで一回づつ、ジャンプ構成に入れられる女子シングルの選手は、今のところ私だけ。成功率も非常にいい。

 だが、それでは「星崎雅はジャンプだけ」と言われているようなものだ。


「何か考えなくてはいけませんね。振り付けを少し変えるか、もうすこしあなた時自身がシェヘラザードに近づいてみるか、それか、曲を変えるか」

「やっぱ今のままじゃダメかな」

「方向性は悪くないと思いますけどね」


 ジャッジも案外と頭が固い、と父はフォローを入れる。


「とりあえず、今後の大会次第ですが、ファイナルは出場がないでしょう。なので、全日本までひたすらフリーを滑り込みますよ。それで結果が出なかったら、曲をかえることも視野に入れたほうがいいかもしれません」


 二大会連続表彰台には上がった。現段階での成績は、女子シングルでは四位。だけどGPシリーズは、ロシア大会と日本大会が残っている。アメリカで優勝した杏奈も、カナダで優勝したマカロワも、中国大会二位の里村さんも、あと一試合出場する。私が残りの枠に入るのは難しいように思う。


「でも、シーズン真ん中で振り付けしてくれるような人いるかな」


 探せばいるだろう。でも、その人の作品が私に合うとは限らないし、下手したら「シェヘラザードの方がマシだった」ということにもなりかねない。振り付けや選曲は、それぐらい重要だ。


「いるじゃないですか」

「どこに?」

「あなたや私のすぐ近くに。あの、私の馬鹿弟子がいるではないですか」


 ……私や父の近く。父が言う、私の馬鹿弟子、馬鹿……て。


「いや、確かに堤先生なら出来るかもしれないけど」


 堤先生が振り付けた私のプログラムは、正直滑りやすいし、「よかった」という声も多く聞く。火の鳥にしても、アリエッティにしても韃靼人の踊りにしても。そして、今回のエキシビションも。

 だけどそうすると、海外に受注した意味がなくなってしまう。堤先生の作品は滑りやすい。だけどそれだけに甘えてしまってはいけない。自分自身の滑りや表現をブラッシュアップさせるために今回は海外の振り付け師に頼んだのに。


「言いたいことはわかります。なので、あなたの努力と、心次第です。とにかくもうGPシリーズは終わったのですから、全日本に向けて切り返しますよ。ここで、世界選手権代表の切符も掴みましょう。だから、これまでの練習が天国だったと思えるぐらい、鍛えて差し上げます」

「……パイプ椅子は投げないでね」


 現役時代に堤先生は、ブチ切れた父に氷の上でパイプ椅子を投げられたことがあった。ふざけた練習をしていたから……というのが父の言葉だが。

 それもあなた次第です、と父は返した。

 

 *

 

 エキシビションのフィナーレも終わり、着替えて私はキャリーケースを持ちながら、入り口付近で人を待っていた。まだ会場からホテルに戻っていないと言ったから。……と、来た来た。


「アーサー」

「ミヤビ。どうしたの」


 待ち人は、ダヴィデ像の顔を持つ美青年。アーサー・コランスキー、男子シングル三位。今日、彼もエキシビションに出るとわかっていたから、早く返せるようにキャリーに入れていたのだ。用事は、借りたものを返すためだ。


「これありがとう」


 スケートアメリカで借りっぱなしだったジャケット。アサインがフランスでよかった。畳んでおいたジャケットを彼に渡す。


「そのために待ってたの?」

「まあ、そんなとこ」

「いつでもよかったのに。洗濯もしてくれたの?」

「借りたのに洗ってないのはやばいでしょ。皺もつけちゃったし」


 アーサーのジャケットは、自分のワンピースと一緒にクリーニングに持っていった。あのワンピースを見ると、母に申し訳ない気持ちと悲しみが蘇るが、それはアーサーとは関係ない。とにかく、早く返せてよかった。


「三位おめでとう。お互いに、ちょっと残念だけど」


 まあね、と彼は返した。男子シングルは、アメリカ大会に引き続き、中国のチャン・ロンが優勝し、ファイナル出場を決めた。二位はアメリカのネイト・コリンズで、三位がアーサーだ。……アメリカ大会四位の彼は、ファイナルの出場は難しい。でも「カナダ選手権に向けていい練習ができたよ」と彼は朗らかに笑った。はなからGPシリーズは練習だと思っていたようだ。


「ミヤビ、帰国のフライトはいつ?」

「明後日の午前の便だけど」

「なら明日は暇だね。予定は?」

「……特には」


 私の答えに、アーサーは満足そうに頷いた。


「なら、みんなでご飯にでも行こう」

 



 実はフランス大会にはバンケットがない。これは恒例のことで、主催者側も選手としても、まぁ楽っちゃ楽だ。服を用意しなくてもいいんだし、ジャッジや監督と話す必要もない。


 明日の午前10時半にホテルのロビーで、と言ったのはアーサーだ。ステイシーが折角だから、仲のいいスケーターを集めてランチでも行かないかと誘ってるんだけど、ミヤビもどう? と。ほかに来るのは、マリーアンヌにレベッカ、ネイトにフィリップ。ロンも誘ってたんだけど、用事があるって言って断られちゃってさ。アーサーが指を折りながら数える名前はビッグネームばかりで恐縮してしまう。マリーアンヌやステイシーはアイスショーで一緒になったけど、友人というほど親しくない。フランスのフィリップ・ミルナーは元世界王者で、雲の上の存在だ。


 父に食事会の話をすると、「羽目を外し過ぎなければ。海外の選手と友人になるのも大事ですよ。これから練習が激しくなる事ですし、息抜きをしていらっしゃい」と言って承諾してくれた。その後に一言。付け足した。「街中を歩くならくれぐれも、スリには気をつけなさい」。間に父は、昔から行きたかったというルーブル美術館に行くみたいだ。


 服装はカジュアルでいいと言っていたので、持ってきた普段着を来ている。ストライプの入った茶色のジャンパースカート。黒のロングカーディガン。予めバンケットがないことも知っていたから、よそ行きの服は持ってこなかった。

 ロビーに降りると、アーサーがソファでくつろいでいた。


「早かったね。待ち合わせ時間までまだあるよ?」

「遅刻してくるよりいいかなって」

「そっかそっか……と、ステイシー!」


 アーサーの視線が私の向こうがわにいる人に向けられた。振り向くと、小柄な女性がロビーに降りてきていた。彼は立ち上がって、カナダの女王へと軽く駆け寄る。そして……うん、海外に行けばよく見られるシーンなんだけど、日本ではない習慣。


「ミヤビもやる?」

「無理!」


 冗談冗談とアーサーが笑う。


「彼女の有名人だし、もう一緒に試合もアイスショーも出てるけど、一応紹介ね。ステイシー・マクレア。俺とクラブが同じなんだ」

「アーサーから聞いてるわ、ミヤビ。今日は来てくれて嬉しいわ」

「いえ私こそ、ありがとうございます。ミス・マクレア」


 ステイシー・マクレア。ミルクティー色のボブカットとエメラルドグリーンの瞳が特徴の、24歳のベテラン選手。身長は私より少し高いぐらいだから、女子の中でも小柄な方だ。だが、氷の上に立つ存在感は身長と符号で結べない。舐めるようなスケーティングから生み出される演技は、ハリウッド女優にも匹敵する。エメラルドグリーンの瞳は、時に蠱惑的に甘く囁き、時に炎に燃える。……が。


 ……なんだろうか。ミス・マクレアの瞳が、ここまでとろんと不明瞭になっているのをみたのは初めてだった。恍惚、とも言っていい。


「やだわ可愛い」


 その言葉が合図だった。


「へっ?」


 身長と比例しない力強い腕が、背中に回された。ミルクティー色のボブカットが顔にかかる。ミス・マクレアの左手が、私の頭を撫でた。撫でる手つきはものすごく優しいけど、抱きしめる腕は物凄く激しい。わけがわからず、私は固まるしかない。


「ミス・マクレア……」


 これはちょっと痛い。というか、苦しい。


「ステイシーがいいわね。ミヤビ」

「じゃあ遠慮無く……。ステイシー、苦しい、です」


 ぱっと腕が離される。これも急のことだったので、思わずたたらを踏んだ。


「ごめんなさいね。私、小さくて可愛い女の子に弱いのよ。ほら、これが私の可愛いパピィ」


 ミス……じゃない。ステイシーはシャネルの鞄から、シンプルな革のカバーに覆われたスマートフォンを取り出した。見せてくれたのは、マルチーズだ。


「アンっていうの。もう一頭いて、それがこれ。ウェルシュコーギーのターシャ」


 ターシャはターシャ・テューダーから取ったの。ほら、コーギー愛犬家で有名だったじゃない? 写真はマルチーズからコーギーに変わる。コーギーのターシャは先ほどの私のように、ステイシーの激しいハグをもらっていた。……マルチーズのアンも、コーギーのターシャも、可愛い。文句なしに可愛い。アンは「赤毛のアン」から取ったのだろうか。……って、私はこれと同類か!


「ステイシー、ミヤビは小動物じゃないんだよ。こんなに素敵な女の子じゃないか」

「あんたが言うとナンパにしか聞こえないわ。ミヤビ、気をつけてね。こいつタラシだから。今まで何人の女の子と付き合ってきたか。今付き合ってるのは誰だっけ? リタ? タバサ? ミッシェル? ドリー?」

「何言ってんの。今まで付き合ってたのは四人しかいないし、今付き合ってるのはレイチェルだよ!」


 四人も、の間違いではないだろうか。

 ダヴィデ像の顔を持つ美青年。アーサー・コランスキー。……少し、心に鎧をつけてアーサーとは接しようと思った。


 そんなやりとりをしているうちに、レベッカが来て、ネイトさんが来て、フィリップさんがやってきた。レベッカは極めて個性的なシャツを着て来た。Tasmania devilと書かれたハリネズミがプリントされたシャツとジーンズを組み合わせている。これで六人。……ん?


「マリーが来ないわね」


 全カテゴリーでマリーという名前がつく出場者は1人しかいない。

 フランスのエース、マリーアンヌ・ディデュエールだ。


「どこ行ったのかしらねー。ロビーって言ったのに。レベッカ、知らない?」

「行く間際にノックしたら、先に行っててって言われたわ。まだ部屋から出てないんじゃないかな。」


 レベッカは私や杏奈だけではなく、スケート界の友人が多い。特に、マリーアンヌ・ディデュエールと親友なのは有名な話だ。

 会食の場所はステイシーしか知らないので、ロビーに全員集合したらタクシーで行くつもりだ。だから、マリーアンヌが来ないと移動できない。準備に時間が掛かっているのだろうか。レベッカがもう一度部屋見てきますと言ってエレベーターに行く。その間にトイレに行って身嗜みをチェックする。昨日から、唇のかさつきがずっと気になっていたのだ。


 ……一階のトイレに、件の人物がそわそわした様子で鏡を見ていた。

 長身の、動くフランス人形。


「ミス・ディデュエール。……どうしたんですか?」


 私が声をかけると、マリーアンヌは面白いぐらい肩をびくっと震わせた。そして顔を硬らせて、私から目を逸らした。


「な、なんでもないわ! すぐに行くから!」


 ほんのりと顔が赤い。黒いシックなワンピースに、真っ赤なルージュがよく似合う。そんな彼女は、こそこそと私から隠れるように、端っこに寄ってしまう。……そんなに怖がらなくていいのに。


「お腹でも壊したの?」

「ち、違うのよ! みんなのことあんまり知らないから、ちょっと、その、緊張しているのよ! レベッカは友達だけどレベッカは私以外とも普通に仲良いし! 日本のアイスショーで、あなたとも何回か会ったけど! 一緒に仕事しただけで親しくはないしアーサーは綺麗過ぎて恐縮するし! フィリップは大先輩だし! ステイシーやネイトさんなんて……雲の上の存在じゃない」


 最後の方は声が弱かった。私相手に、相当に緊張しているようだ。演技のようには見えない。

 綺麗にデコレーションされた爪。華やかな美貌に、完璧な演技。私が知るマリーアンヌ・ディデュエールは常に堂々と立っている。競技だろうがショーだろうが記者会見だろうが公式練習だろうが関係ない。が……。


 彼女はもしかして、本当は引っ込み思案で人見知り……?


 いつも堂々としているのは、その裏返しなのだろうか。仕事や演技はそういうスイッチが入る。だけど、プライベートやそういう場所ではないと、とたんにスイッチが抜けて弱気になったりするのだろうか。大体、アーサーは綺麗すぎるって。ステイシーが雲の上の存在って。私から見ればマリーアンヌだって十分、恐縮するほど綺麗で別世界の住人だ。

 私はマリーアンヌの、綺麗にデコレーションされた手を取った。


「マリーアンヌ」


 おどおどした様子でマリーアンヌが私を見つめる。

 夏にルーティカが教えてくれたではないか。氷の上とそれ以外での人格は別物だと。そして。

 友達になるのは目の前の人間を知ることから始めるのだと。


「知っていると思うけど、私は星崎雅。よろしくね」

「……ミス・ホシザキ」

「爪、すごい綺麗。自分でやったの?」


 マリーアンヌの爪は昨日のエキシビションから変わっていた。昨日は演技があるからか、桃色に塗っただけだった。今日の彼女の爪は、ラインストーンやパールでさらに華やかに飾られていた。しかし、よく見れば綺麗な石の影に所々黒猫が隠れていて、気取っただけではなく意外な可愛らしさを演出している。昨日の夜、エキシビションの後に変えたのだろうか。


「ね、ネイルが趣味なの……。爪を綺麗にすると、演技の時もちょっと強くなれる気がするし……。演技の後もリラックスするっていうか。ちょっとしたその、自分のご褒美っていうか」

「ネイルもっていうか、猫も好き?」

「大好き!」


 目をきらきらさせて、住んでいる家に黒猫と三毛猫がいることを話してくれた。黒猫のサリーは尻尾が綺麗で、三毛猫のフランシスは毛並みがふわふわなのだと。


「じゃあ、そろそろいこっか。みんな待ってるし」

「ありがとう。……そのミヤビ、私のこともマリーって呼んで」

 マリーと、昔からの友達のように彼女を呼ぶ。

 

 

 食事会の場所は事前にステイシーが予約してくれた。日本人がオーナーシェフを務めることで有名らしい。あまり気取っていない作りで、値段も手頃だと聞いたので安心して財布を開くことができる。ベルを鳴らして入ると、真白なコックコートを着た若い東洋人が迎えた。


「この一杯のために滑ってるようなもんだわ」


 ステイシーが乾杯を告げる。グラスの中身は2種類。20歳オーバーとそれ以下できっちり分かれていた。ステイシーやフィリップさんやネイトさんは、細いシャンパングラスにスパークリングワインを、それ以外の私を含めた四人は、炭酸水だ。欧米の基準からすれば、未成年は私だけなのだが。


 料理とともに話がよく進んだ。アーサーは白身魚のポワレを丁寧に切り分けながら、今度これ作ってみるかなぁと朗らかに笑った。聞けば、趣味は料理らしい。アーサーの料理美味しいの? とステイシーに尋ねると、ムカつくけど美味いと答えてくれた。マリーのネイルはみんなから好評で、華やかな爪先を見られるたびに恥ずかしそうに顔を赤らめた。


 ネイトさんは最近、筋肉トレーニングの一環としてボルダリングを始めてみたと言っていた。これが結構楽しいらしく、肩と肩甲骨の筋肉がしっかりついていくのがたまらないみたいだ。細身で長身の彼がボルダリングにハマっている様は、少し想像ができない。ミヤビは筋トレ何やってるの? と尋ねられ、ピラティスもやってますと答えた。マリーは緊張しない方法って何かある? とみんなに必死になって聞いた。私は人を三回掌に書いて飲み込むおまじないが日本にあるよと教えた。マリーは昔から内気だもんねとフィリップさんがいじると、彼女は本当に泣きそうな顔になった。フランスの大先輩には敵わないらしい。


 食べて、話して、また食べて。こんなに楽しい食事は久しぶりだった。最近は何をしても後ろ向きな方向に思考が行ってしまっていたから、頭が解放された気分になった。食べたものはどれも美味しかった。美味しいものは人を幸福にするって本当だ。


 食事会は和やかなまま終了し、フライトが早いと言うネイトさんは、そのまま空港に向かった。フィリップさんもチェックアウト済みなので、ホームリンクのあるボルドーに直接帰って行った。集合はホテルのロビーだったけど、現地解散になった。ステイシーはふらっとバーに行った。また飲み直すんだろうというのはアーサーの言葉だ。マリーとは別れ際にLINEのアカウントを交換した。はにかみながら爪の写真を送るわねと言ってくれた。猫の写真も欲しいなと言ったら、何故か思い切りハグされた。本日二回目だ。巨大な力を持った女の子は引っ込み思案で人見知りで、リアルエルサだ、と思った。その様子を見たレベッカは「私の親友と親友が友人になった! 今日は記念日ね!」と大袈裟に喜んで祝福してくれた。……その足でパリにある日本のアニメ専門店にウキウキしながら出かけて行った。


 アーサーと私だけがその場に残された。ステイシーとアーサーも明日の便でトロントに帰るようで、今日一日は暇らしい。


「……俺はこれからパリの街を回るけど、ミヤビはこれからどうするの?」

「どうするもなにも、ホテルに戻るよ。帰る準備もしなきゃいけないし」


 ホテルの場所は覚えている。行きはタクシーで向かったけれど、歩いて帰れない距離じゃない。まっすぐ帰ればいいだけだ。帰国の準備はほとんどできているけど、後の時間はゆっくり部屋で過ごせばいい。


「楽しかったよ。声かけてくれてありがとう。ステイシーにもよろしくね」


 ステイシーのLINEは彼女から教えてもらったので、後々にお礼を送るつもりだ。そのままアーサーに背を向けて別れようと、した。

 ーー右手を何かに掴まれて、引っ張られる。


 アーサーが私の手を握って微笑んでいた。

「アーサー?」


 キョトンとする私に対し、ダヴィデ像が微笑みを深くする。


「ここはパリなんだよ。トウキョウともヨコハマとも違う。別の場所をもっと楽しまなきゃ。さ、行くよ」


 私の手を取ったまま、アーサーが軽快に走り出す。


「待って。いくってどこに」

「街の中さ。少しは知ってるから、案内するよ」


 風のようなアーサーの言葉が、パリの散歩道に紛れていった。



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