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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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16.その後のバンケットにて 【スケートアメリカ2016 ⑦】


「おっかしいなあ……。雅、どうしたんだろう」


 バンケットが始まって15分少々経った。隣に立つ杏奈は、手に持った皿もそこそこにスマートフォンをチェックしている。


「哲也君、雅の姿見てない? 星崎先生はいるけど雅はいないし。さっきからLINEしてるんだけど、全然既読にならないのよ」


 顔を回して星崎先生の姿を探す。すぐに見つかった。堤先生とリチャードを交えて三人で談笑している。だけど、肝心の雅は。


「いや……。見てないな」

「そっか。……晶君は知らないかしら? さっきまで一緒にいたんじゃないの?」

「晶なら今、ジェイミーと話してるよ。多分、あいつも見てないと思う」


 俺は顎で晶の方を指した。自撮り棒でジェイミーと写真を撮っている。インスタに挙げるのかもしれない。晶といえば。


「なあ、杏奈。昨日晶が」


 演技後に言っていたこと知ってるか、と聞いた。


「はぁ? 何、そんなの今どうでもいいのよ。私が今心配してるのは、雅。演技後に晶君が何を言っていても、知ったこっちゃないわ」

「ミヤビなら来れなさそうだよ」


 背後の声にびっくりしたように、杏奈が振り向いた。少し甘めな美声と、均整のとれた体型。アンドレイ・ヴォルコフが氷の化身なら、目の前の彼は崇高な彫刻家がノミを入れた彫像のようなわかりやすい美が宿っている。例を挙げれば、ミケランジェロが彫ったダヴィデ像のような。金髪で甘いマスクの美青年。


「アーサー。どうしてあなたが知っているのよ」

「来る途中で会ったんだよ。そうしたら、紙みたいな顔色してたからさ。頭が痛いって言っていたから風邪の引き始めかもね。ミスター・ホシザキには言っといたよ。ーーアンナ、君に伝言預かってるよ。行けなくなっちゃってごめんね、楽しんできてって」

「……そんな、謝る必要なんてないのに。大丈夫かな」


 あんなに元気だったのに、とぶつぶつ呟く。


「今は休んでると思うから、もうちょっと時間経ったら連絡してみなよ。ミヤビは楽しんできてって言ってたんだから、心配しすぎるのも彼女に悪いよ」

「そう、かしら……」

「君は君で楽しんだほうがいいよ。優勝したんだしさ。それとも、俺にエスコートしてもらいたいの?」

「やだ、そんなわけないじゃない。一昨日きなさいよ。……でも、ありがとう」


 心配で曇っていた杏奈の顔が、光が差されたかのように晴れる。スマートフォンを鞄にしまって離れていった。こんな見事なダヴィデ像に「一昨日きやがれ」と言える少女も少数だろう。

 何故か俺とアーサーだけが残された。


「アンナに振られちゃった。せっかくだからテツヤ、君が」

「するわけない」

「話し相手になってくれないかというところだったんだけど、君は何を想像したのかな」


 俺は手に持った炭酸水を一気に飲み干した。ジュニアの頃からのライバルで、直接戦っての勝敗は五分五分。しかし口の達者さやユーモアで彼に勝てたことはない。

 アーサー・コランスキー。カナダ代表。「パリのアメリカ人」のように表現すれば、彼は「トロントのロシア人」になるかもしれない。元金メダリストのスケーターの両親を持つ、カナダ国籍のロシア人。


「表彰台おめでとう、テツヤ。今日は君に勝ちたかったんだけど、俺の日じゃなかったね」

「今回、たまたま俺の日だっただけだ」


 アーサーはスケーターとして、俺にないものをたくさん持っている。ダイナミズムと優雅さの同居はなかなかできるものではない。彼のような同世代がいて素直に嬉しく感じる。


「そういえばさっきテツヤ、5階の突き当たりにいなかった?」

「いたけど? 何で」

「いやあ、君っぽい声が聞こえたもんで。俺の部屋、5階だし。一人だったの?」

「いや……。ジョアンナと一緒だった」

「はぁ?」


 ダヴィデ像もこんな素っ頓狂な声を出すのか。


「ちょっと手伝ってくれ、って言われた」


 ワルツがいまだに慣れない、とジョアンナは言っていた。

 確かに彼女のプログラムは、途中ワルツを踊るような振り付けがある。それは、ステップとコレオグラフィックシークエンスだ。ステップではツイヅルやループなどを中心にステップを踏み、コレオグラフィックシークエンスではそれ以上に幸せそうにワルツを踊り、体の柔軟性を生かしたスパイラルで締める。堤先生が力を入れて振り付けた部分の一つだ。


 ジョアンナはステップとコレオを滑り切れていない。ステップの時音楽と動きがズレていて微妙に気持ちが悪かった。ジャンプを全て決めることを念頭に置いて演技をしていたから、ステップが多少おざなりになっていたのは否めない。それは本人も承知しているようだった。


 そこでジョアンナが取った作戦が、「誰かとワルツを踊っている」経験を得ることだ。明日午前11時のフライトでデトロイトに帰るから、バンケットの前に練習に付き合ってくれと頼まれた。何故俺なのかわからないが、できないことはない。今年の日本代表の合宿で、アイスダンスのワルツのパターンダンスを杏奈と滑ったことがあった。スケート連盟主催の合宿は、たまにカップル競技の要素も練習に組み込んでくる。


 その時の経験を頼りに、彼女のダンスを手伝った。正直、終始笑って楽しそうにしていたのは結構なのだが、それが本当に彼女のためになったのかは怪しい。人に頼んでいる手前、もう少し真面目にやって欲しかったと言うのが本心だ。でもまあ、「幸せそうにワルツを踊る」と言うのも、このプログラムで重要な点だ。

 ……と言うくだりを、目の前にいるダヴィデ像に懇切丁寧に説明した。


「……テツヤ。君はその、ジョアンナと……」

「断じて違う」


 そこは強めに言っておかないと、変な誤解が生まれてしまう。それは避けたい。彼女にとってもいい気分になる噂ではない。さっきまで晶と一緒にいたジェイミーは、今はジョアンナと写真を撮っている。俺に向けるものと全く変わらない笑顔。つまり、そういう感じの仲の良さと対して変わらないのだ。


「友人で仲間。それ以上でも、それ以下でもないよ。そんな事言ったら、ジョアンナに失礼だよ」


 ジョアンナは友人としては大切だし、何よりも尊敬するスケート仲間だ。スケート関係で悩みがあるなら聞けるし、できる範囲の協力はできる。変な邪推をされるような関係になるなんて、あり得ない。大体、彼女には意中の人がいる。そして、今心配するべきなのは雅だ。……何故だかアーサーに、漫画のような変な顔をされた。


「なに、なんだよその顔は。変なこと言ってないだろ」


 心の底から異星人を見るような目で俺を見るな。


「あのさぁ。君って、カマトト?」

「はぁ!!?」


 堤先生と話す以外で、こんな声を出したのは初めてだった。少し離れたところにいた晶が、俺の声に驚いて炭酸水を吹き出していた。


「いや、カマトトのフリして女の子を弄ぶのが趣味? それとも、ジゴロの才能でもあるの? てゆーか、本当にオス?」

「おい!」


 それは言っている意味がわからない。俺は何か間違えたのか。

 だったら、何を間違えたと言うのだ。

 アーサーははーっとわざとらしく長いため息を吐いた。


「どっちが失礼だよ。馬鹿じゃないの。君が本当に違うっていうなら、もっとジョアンナを突き放してあげるべきだね。そっちのほうが百億倍優しいよ」


 そう吐き捨てて、アーサーは離れていった。

 ……一体何だったんだ。


 それからしばらく、ジャッジの方と話したり海外の選手と親交を深めた。チャン・ロンと握手を交わし、スケート連盟の市川監督は四回転ループの成功をよくやったと言ってくれた。四回転ループの成功は、ジャパンオープンでの出雲さんに続いてだから、監督としても日本勢が幸先よく新しい四回転を着氷させているのは、喜ばしいのかもしれない。

 その間も何となく、アーサーの最後の言葉が背中に張り付いていた。

 そうしてシャンパンを片手に持った堤先生がやってくる。


「テツ。お疲れ」


 少し顔が赤い。手に持ったシャンパンは何杯目なのだろうか。


「……どんだけ飲んでるんですか?」

「タダでうまい酒が飲めるんだから、たらふく飲むさ。それより、今回はいい感じの結果になったね。四回転ループも決まったし、シーズン序盤にしてはいい出来だったし、ファイナルまで一歩前進ってね」


 何杯目かわからないシャンパンを先生は煽る。そして、カウンターから新しいものをとる。今度は赤ワイン。中国杯なら紹興酒が出るんだけどなぁと文句を垂れる。


「ロシア杯は優勝がいいなあーなんて俺は思ったりするわけよ。厳しいけど」

「……出来る限り狙いますけど」


 ロシア杯ではアンドレイ・ヴォルコフとぶち当たる。宇宙人のような桁外れな実力を持っているが、いつまでも彼の背中を眺めるだけでいたくない。


「そうこなくっちゃね。ああ、そうそう」


 改めて先生は俺を向いた。酔っ払いの会話はくるくると内容が変わる。


「俺、今日終わったらリチャードとデトロイトに行くわ。そうだね、三日間ぐらい。帰りは五日後ぐらいになるかな。その間は涼子先生に頼んどくから練習見てもらってて」

「なんですか、いきなり」


 ジョアンナ、と明確に答えた。


「フリーの前にちょっとアドバイス出来たから今回まとまってたけど、もっと良くして行かないといけないからね。変な癖とかついてたし、矯正しないと」


 今回の演技で、あれがダメ、これがダメと痛烈なダメ出しが先生から飛び出る。酒飲んでるから素面ではないのだけど、目が笑っていない。


「そんなに悪かったですか?」


 ジョアンナのフリーは135点越えで二位。本人は納得していたようだし、俺の目から見て、別にそこまで悪かったように思えない。ステップ以外。


「悪くはなかったけど。ジャンプをちゃんと決められていただけでしょ。音と合っていなくても、技術点はそれなりに出るからね。加点もたくさんもらってるし。でも演技構成点は違う。ホラ」


 先生はiPhoneでジャッジングスコアを見せてきた。ステップ以外のほとんどの要素に、2点以上の加点つく。ルッツもちゃんと正規のエッジだと判定されたようだ。

 PCSも8点台が並ぶ中、あれって思うのは、振り付けと音楽の解釈。

 7点台だ。


「スケーターが100パーセント、振付師の理想を滑ることなんてないけど。俺が作品を作った以上、その選手なりの理想に近づける努力はしてもらわないとね。そんなわけで、明日リチャードは11時のフライトでデトロイトに戻るらしいから、それに便乗するわ。星崎先生にも言っといたからよろしくね」


「わかりました」


 変態だ何だと言っても先生は仕事人だ。ジョアンナの振り付けも最初はあまり気が乗らなかったらしいが、それでも一級の作品を作り、かつアフターケアもきちんとするのだから。


「何。離れるのが寂しいの?」

「違います」

「大樹のノービスがあるから、来週の金曜日には帰ってくるよ」

 

 *

 

 バンケットの翌日、堤先生は本当に11時のフライトでデトロイトに行ってしまった。チケットもさくっと手配できたらしい。仕事が早すぎる。


 俺は当初の予定通り、1時の便で帰国する予定だ。荷物は全て昨日の夜にまとめたから、空港に移動して搭乗するだけだ。再び、ロサンゼルス経由で成田。十時間以上のフライトが待っている。

 簡単に朝食を済ませ、チェックアウトのために荷物を持ってロビーに向かった。ロビーの受付前で、半日ぶりに雅の顔を見た。


「あ……」


 雅が俺に気がついて、小さくおはようと言った。確かに顔が青白い。目の周りが腫れていて、明らかに元気がない。たった半日で一回りも痩せたように見えた。


「おはよう。アーサーから話は聞いたよ。もう体調は大丈夫なのか?」


 さっと雅は目を逸らした。横から見る彼女の顔は、硬く強張っていた。


「雅?」

「大丈夫。本当に何でもない。心配かけちゃったね。ごめん」

「星崎先生は?」

「……もう少ししたら来るよ」


 口早に言ってそのまま黙り込む。

 ……何でもなくはないだろ。そんな様子で。だったら、何でそんな辛そうな顔をしているんだよ。隠し事ができるほど器用なやつじゃないって知っているのに。


「……調子が悪いだけなのか?」


 何があったんだ、という意図も含めて雅に聞いたが、そうだよと短く答えて、再び唇を真一文字に引き結ぶ。俯いた目元が少し濡れているように見えた。


 俺は押し黙った雅の顔に手を伸ばした。もし本当に濡れているなら、拭わないといけないと思ったからだ。

 本当に何かあったのなら教えて欲しい。


 ーー黒板を一瞬だけ爪で引っ掻いたような、引きつった悲鳴が響く。同時に、俺の手に鈍い痛みが走った。


「雅?」


 俺の手を弾いた彼女は、こぼれそうなほど大きく瞳を見開いて、音が立ちそうなほど震えていた。自分の反応が信じられないようだった。茫然と俺を弾いた手を抑えている雅は、目の前にいる人間に怯えている。自分を傷つける何か、と言いたいように。

 そこから雅は、震えながら、顔の全ての筋肉を駆使して笑った。


「ご、ごめん。痛かったよね。びっくりしたんだよ。急に視界に入ってきたから。でも、本当に、てっちゃんが心配するようなこと、何もないから。何でもないから、気にしないで。……ごめん、まだちょっと調子良くなくて。お腹痛くなってきちゃった」


 トイレ行ってくるからと言って、彼女は去っていく。


 俺は弾かれた右手を見た。こんなものは痛みのうちに入らない。雅の中に、誰にも触れて欲しくない火傷があるのだろう。触れるたびにしつこい痛みが熱く疼いて、消えて無くならない。調子が悪いのは本当だ。でもそれ以上に、身体の調子に支障をきたすほどの出来事があったのだ。あんな風に笑って欲しくないのに。何があったのか、それとも俺が何かしてしまったのか知りたかった。


 ただ、それを彼女に問いただしても答えてはくれないだろう。何故だかその確信はあった。彼女から感じられた意思に、強く動揺してしまった。



 俺を弾いた手、弱々しい背中が語っていたのは、彼女が負った傷の深さと、確かな……。

 確かな拒絶だった。

 



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