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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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39/66

14.ループはシュッとやれば飛べる【2016年スケートアメリカその⑤】  


 先の女子シングル。結果だけ見れば、まぁ納得だ。ショート、フリー共に、出来が一番良かったのは杏奈。だから彼女が優勝したのは、誰が見ても当然だと思うだろう。


 さて。女子の結果よりも、自分のことだ。


 自分の演技の前に、現在の総合順位とフリーの順位がモニターに映し出される。晶は、俺と最終滑走を残して二位に踏ん張っている。キス&クライに座るジェイミーは、もう少しできたかもしれない、と言いたいような笑顔だった。出来には不服だけど、笑えない程度ではない、というとこだろうか。……前の滑走者がそんな顔をすると地味にプレッシャーがかかる。


 今日の公式練習での四回転ループの成功率は、四割程度。目立って低くはないが、リスクは高い。


「哲也、前に君はループ飛ぶ時はどうやれば飛べるって言ってた?」

「は?」


 今度は一体なんだ。

「いいから。俺が『ルッツはグッと踏み込んでパリッと切り返す』って言った時。同じようにループ飛ぶ時の自分なりのコツを君は言っていたはずだ」


 そんな事言った覚えが……いや、思い出した。ジュニアの時、そんな会話をした。


「ループはしゅっとやれば飛べる」


 とんでもないオノマトペだ。しゅっとやれば飛べるって、自分で言っておいて何だそれ。


「そう! しゅっとやれば飛べる! それをクワドでも応用して飛んでみてよ。君は体にジャンプのリズムがあるんだからさ」


 ーージェイミー・アーランドソン、現在総合一位のアナウンスが入る。晶が三位に後退する。


「失敗するかもしれませんけどね」

「飛ぶことが大事さ。ここまできたら飛んでみるしかないんだし。さ、行っといで」


 飛ばないことには始まらない。それを自分の真の技術にしたいのなら。

 深く息を吐き出しながら、演技を始める。

 


 静かな音から始まるフルオーケストラ。

 最初は四回転サルコウのコンビネーション。それを決めた後が、最初の山場だ。


 助走の際、一、二、三と数え、足をクロスさせる。風を切るような音を意識して飛び上がる。最初に覚えたループジャンプのリズム。右腕を引きつけて体の軸を絞る。筋肉が収縮する。四回回れているのを確認して、右足からジャンプから降りてくる。


 着氷する右足にかかる負荷が凄まじい。エッジがよれそうになる。ここでバランスを崩したら転倒してしまう。太腿に力を入れて何とか踏ん張った。


 決まった。決められた。


 遅れて聞こえてくる歓声に、応える余裕は全くない。

 肺が縮こまる。


 だけどこれは、プログラムのほんの一部だ。あと7つのジャンプが残っている。そのうちの二つは4回転。トウループと、1.1倍される後半にもう一度サルコウ。湧き上がってくる喜びを抑えて、躊躇わずに次のジャンプに向かう。

 

 ーー四分半、全ての要素を見た目ノーミスで終えると、体中の体力は全てなくなっていた。

 

 *

 

 ジャンプを全て決めつつ、全ての音に神経を尖らせて滑り、振り付けやターンを省略せず、かつ、振り付けにふさわしい表現をする。


「吐きそう……」


 右足を引きずるようにして戻った第一声がこれだ。肺の動きが浅くて早い。最後のジャンプを決めた後、だいぶスピードが落ちてしまった。これがどのぐらい、PCSに影響してくるだろうか。


「お疲れさん。四回転ループの着氷おめでとう。収穫のあった演技だったよ」

 エッジカバーをつけて氷から一歩上がると、右膝の力が抜けた。床に倒れ込みそうになったところ、先生の両腕が支えてくれた。


「……ありがとうございます」


「危うく変な怪我するところだったよ。それとも何? ファンサービス?」


「……馬鹿言ってんじゃありません」

「それだけ言えりゃ平気。……終盤はスピードが落ちてたけど、少しは動きが良くなってたよ」


 富士山でいえば、前が三合目なら今回は四合目って感じと言ってくれた。

 キス&クライに座ると、モニターに自分の演技が映し出された。まだ汗が全然引かない。


「認定……は」

「されていると思う」


 ループを決めた時の映像が再生された。直後、リアルに歓声が起こる。飛び上がり、回転、着氷姿勢。自分から見ても、ジャンプそのものに問題はなかった。きちんと決められた安堵と、喜びとで、表情筋が緩みそうになる。

 これを決められたのはかなり自信にはなった。

 得点が表示されーージェイミーを抜かしてトップに立つ。得点そのものも不満はない。演技通りであろうという技術点とPCS。


「一歩前進だね。まだまだ頂上までは遠いけど」

「そうじゃないと困ります」


 先生と拳を握る。遠いということは、表現の天井はここで止まりじゃないということだ。シーズンは始まったばかり。ここで最高だったら、落ちるだけだから。

 最終滑走は、中国の若き四回転王、チャン・ロン。

 曲は、サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」。

 3年前、現在の日本のエース・神原出雲がソチ五輪で金メダルを獲った曲で、今シーズンの勝負に挑む。


 

 チャン・ロンは2013年の世界ジュニアの金メダリストだ。世界ジュニアで優勝した勢いそのままにシニアに参戦。ソチ五輪にも出場し八位と健闘した。香港映画にも出ていそうなほど端正な顔立ちだが、美青年というよりハンサムという単語の方がしっくりくる。


 今年19歳となる彼は「リスペクトしているアスリートは誰か」と聞かれたら、必ずこう答えていた。「イズモ・カンバラです」と。

「彼の滑った曲でプログラムを作るのが夢でした。ずっと滑りたいと言っていましたが、今回ようやくコーチからOKが出ました。願いが叶ってとても嬉しいです」

 彼の今シーズンの緒戦はカナダ開催のチャンピオンズシリーズ。オータムクラシックだった。その優勝会見で、いかにサン=サーンスのこの曲を滑りたかったかを伝えている。

 じっくりと最初から演技を見ていたが……。


 四回転王、という渾名の通り、豊富な種類の四回転が特徴で、一つのコンビネーションジャンプでうまくすると20点近く点を稼ぐ。今の演技だって、最初の四回転フリップ+三回転トウループに、加点が3点近くついた。回転が早く、ふわっと飛ぶジャンプが特徴だ。四回転なのに羽のように軽く、余裕がある。


 四回転サルコウ、四回転トウループ、単独のトリプルアクセルと畳み掛けるようにジャンプを決める。後半に言っても勢いは衰えない。5個目の四回転フリップの三連続からは、基礎点が1.1倍される。


 回転の早いジャンプが得意な反面、彼は長年、基礎スケーティングに難ありと言われてきた。「エッジが氷に辛うじて乗っているだけで滑っていない」と批判する声もあったのだ。……そんな評価がありつつも世界の表彰台に登っているのだから、彼のジャンプ能力は目を見張るものがある。


 しかし。今シーズンになって、滑りの質に変化が訪れていた。


 最初のジャンプに向かう途中で気がついた。姿勢が良い。滑る時に、尻が突き出ていない。そして、一歩の伸びが昨シーズンと段違いに違っていたのだ。今までよりも深く、大きく滑っている。ジャンプの前後のステップも、去年よりも工夫が施されていた。


「OKがでた」というのはこのことなのだろう。「曲にふさわしいスケートができるようになった」という意味だ。


 俺と同じサン=サーンスでも、曲が違えばアプローチの仕方も違う。サン=サーンスが作曲した「序奏とロンド・カプリチオーソ」はヴァイオリンがメインの管弦楽版だ。今、チャン・ロンが滑っているのは、ジョルジュ・ビゼーが編曲したピアノ伴奏版。ヴァイオリンの緩急をエッジで滑り尽くし、ピアノの音を腕で捉える。メロディアスに。抑制をつけつつ、エモーショナルに。演技そのものはシーズンの序盤らしく、多少ミスが見受けられたが。


 ミスがあろうがなかろうが、これは今の俺では勝ち目がない。

 四回転王の異名は伊達ではない。

 

 *

 

 表彰式も公式記者会見も終わり、廊下でトランクを引きずりながら銀色のメダルを弄ぶ。結局はショートの上位3人の順位が動くことなく終わったのだから、記者も落ち着いていたようだった。


 演技にも結果にも納得の、充実した大会だった。課題の消化と、新しい課題の発見。何よりも、ジャッジスコアを確認した時の四回転ループの認定は嬉しかった。あとはどうにか、PCSを伸ばせるような工夫をしなくては。後は、ホテルに帰って先生と演技の振り返りをするだけ。


 先生はリチャードと話がある、と言ってアメリカのコーチ陣が集まるところに行ってしまった。

 ……不意に誰かに、後ろから右手首を掴まれた。


「雅?」


 つい、彼女だと思ったのだ。袖越しに感じたのは、細い手の感触だったから。でも公式記者会見に向かう途中、ロビーから杏奈と会場の外に出て行ったのを見た。雅じゃなかったら、誰だ。

 そこにいたのは。


「ジョアンナ」


 ナチュラルな金髪のディズニー・プリンセス。アニメのシンデレラは金髪だったが、リリー・ジェームズは染めて金髪だったと何故か思い出す。


「あたり! テツヤ、銀メダルおめでとう!」


 ひまわりが咲くような笑顔で賛辞を頂く。

 チラッと右の視界が、ジェシカとチャン・ロンが似たような距離で談笑している。多分、検討し合っているだけだろう。似たような構図であることに少しホッとする。変な噂が立ったら俺も彼女もたまらない。


「今日のフリー、凄かったじゃないか」


 一体、堤昌親はどんな魔法をかけたというのか。先生に聞いたら「かぼちゃの馬車に乗せてみただけ」とかアホいことを言いそうだが。


「マサチカと……テツヤのお陰よ。こんなに良い演技は久しぶり」


 客観的に見ても、今日のジョアンナの出来は杏奈の次に良かったのだ。ジャンプは全てクリーンな着氷で、得意のビールマンスピンのポジションも見事だった。ステップがもう少し良くなれば、もっと素晴らしいプログラムになるだろう。昨日の出来がもったいない。ショートがもう少し良ければ、雅の代わりに三位になっていたのはジョアンナだったかもしれない。


「俺は何もしてないよ。ジョアンナにその力があっただけ。見事な演技だったよ」


 桃色の唇がひそやかに動く。白い顔が血色よく彩られた。……俺、なんか変なこと言ったのか? どうした? と聞くと「嬉しいだけ」と彼女は答えた。


「あのね、それでテツヤ。実は相談があるんだけど、良い?」

「良いけど?」

「バンケットの前って、ちょっと時間ある?」


 明日の予定。エキシビションが終わった後に、バンケット。アメリカのスケート連盟がビッフェ形式で用意してくれる、クロージングパーティだ。エキシビションとバンケットの間は、二時間ぐらい空いていたような。予定はとりあえず、ない。


「……少し付き合って欲しい。私のプログラムのために。きっとこれをやれば、私はもっと素敵に滑れるわ」


 そう言った時のジョアンナの瞳は、競技者とは少し違った熱を持っている気がした。

 



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