13.若い王妃とガラスの靴 【2016年スケートアメリカ その④】
記者会見で少しモヤッとしたけれど、ショートの夜はすんなりと眠ることが出来た。ただ、フィギュアスケートがショートとフリーの両方で結果が決まるので、ショートの出来が良かったからと言ってうかうかしていられない。
今日はペアのフリーの後。女子フリー。
私は第2グループ五番滑走になった。最終滑走が、ショート1位の杏奈だ。
会場入りをして、更衣室に向かう途中だった。その人物とばったり会ってしまったのは。
「ミス・ホシザキ。昨日はどうも」
前方にいた金髪のディズニープリンセスが、私に声をかけてきた。口はしだけ釣り上げて。反射的に、会釈しながらディズニー・プリンセス……もとい、ジョアンナ・クローンに挨拶する。礼儀としてこのぐらいはできるけど、あまり二人きりになりたくない相手だ。去年シニアに上がってから彼女の手足はすらりと伸びて、大人びた美貌を纏うようになった。正面から見て、化粧をしなくても誇張なく美しい。
まさか彼女から話し掛けられるとは思っていなかった。昨日隣に座った手前、見かけたら挨拶ぐらいしないとバツが悪いのかもしれないが。
「調子良さそうで何よりよ。羨ましいぐらい」
「……それはどうも」
「でも、あなたには負けないから」
「私だって負けるつもりはないよ」
トリプルアクセルは絶対の武器じゃない。絶対の武器だったら、伊藤みどりの金メダルはもっと多くなっていただろう。スポーツはフェアだ。ショート6位のジョアンナが大逆転して優勝することもあり得るのだ。
ジョアンナはそれだけ言って歩き去っていった。思えば、これが彼女とまともに話した最初だったかもしれない。他に何を言われるか少し怖かったけど、普通だった。もしかして、私が勝手に苦手意識を持っているだけで、案外普通に話せたりするのだろうか。
……一瞬考えて、何故だかそれはないような気がした。
✳︎
第2グループが始まり、スケートアメリカの女子フリーは大詰めに来ていた。
バックステージでウォーミングアップをすると、3番滑走のジョアンナのフリーの曲が聞こえてきた。灰被りの女の子が妖精の力を借りてプリンセスになり、舞踏会で王子と踊る。滑っている姿は見えないけれど、時折歓声が聞こえてくる。リリー・ジェームズが主演したこの映画は、私も杏奈と見に行った。地元の声援は物凄い。
演技時間が近づいて、私は4番滑走のカテリーナ・リンツと入れ替わりでリンクインする。カテリーナは少し浮かない顔をしていた。思うような出来ではなかったのかもしれない。
電光掲示板には、現在の順位と得点。総合1位はジェシカだが。
「これは……」
彼女の点を見て、地元加点、という単語が頭に浮かんだ。昨日アドバイスをしたという堤先生は、一体彼女にどんな魔法をかけたのだろうか。
ジョアンナ・クローン。フリースケーティング、137.80。現時点で、フリー1位。総合成績、現時点で第2位。……135点以上なんて、私は出したことがない。地元の歓声に、この得点。ベテランといえど、この空気の中ではカテリーナもさぞやりにくかったことだろう。
「落ち着きなさい。他人の点数なんて気にしてもどうにもなりません」
浮かない顔で氷上でアップしていた私に、父が真っ当な言葉を投げかける。
「調子は良いのですから。あなたはあなたの、やるべきことをやるだけです」
ぐっと拳を握る。カテリーナの得点が表示される気配がする。……イタリアのカテリーナ・リンツ、現時点で5位。
目を瞑り、長く息を吐き出す。落ち着け。落ち着け。これは個人競技だ。
「行ってきなさい」
力強く送り出される。ーー大丈夫。緊張はしているけど、調子は悪くないんだから。
定位置につき、ヴァイオリンのレガートを聞いて動き出す。
曲はニコライ=リムスキー・コルサコフ「シェヘラザード」。
シェヘラザードが語るアラビアン・ナイトの物語を演じる。
*
シェヘラザード。ササン朝ペルシャの王、シャリアール王の王妃。ササン朝ペルシャは実在の王朝だが、シャリアール王もシェヘラザードも架空の人物だ。
シャリアール王の一番初めの妻は不貞を働き、その怒りから妻と不貞の相手の首を跳ねて殺害する。シャリアール王はその後女性不信に陥り、街中の生娘を宮殿に呼び寄せては一晩共に過ごしては翌朝には処刑をし……を繰り返していた。
側近の大臣が困り果てていた時、大臣の娘のシェヘラザードは王の愚行をやめさせるために結婚を志願する。
シェヘラザードは毎晩命がけでシャリアール王に物語を語る。物語が面白くなるところで、続きはまた明日と言って話を打ち切る。
シャリアール王は話を望んで、シェヘラザードを生かし続ける。シェヘラザードが千と一夜の物語が語り終えるころ、二人の間には子供ができていた。王はこのことを喜び、シェヘラザードを殺さずに王妃にすることを約束する。
リムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」の概要はこんな感じだ。つまりシェヘラザードは、したたかで、面白い物語を語れる頭の回転が早い早熟な女の子なのだ。
正直私には、王の蛮行をやめさせるために王妃に志願したシェヘラザードの気持ちなんて全然わからない。まぁ、国際ジャッジに「したたかになれ」と言われるぐらいには。だから、シェヘラザードが語った物語を滑ることにした。
アラビアン・ナイトには面白い物語がたくさんある。セクシーな話もたくさんあるけど。彼女が語った物語を滑ることは、彼女を滑ることに符号で繋がる。こう思うと、結構滑りやすくなった。
でも、思う時がある。
シェヘラザードは王の蛮行をやめさせるために、物語を語った。それは千と夜で足りたのだ。
スケーターが理想の演技を目指す時、果たして千と一夜なんかじゃ全然足りない、と。
✳︎
私の演技は終盤に差し掛かった。
全てのジャンプを決め、現在は終盤のコレオシークエンスの途中なのだが。
やばい。最初のトリプルアクセルと三回転ルッツ+三回転トウのコンビネーションを決められたら、ちょっと楽しくなってきた。単独の三回転フリップとダブルアクセルがステップアウトしたけど、それも身体が動ける故にできてしまったミスだ。よく動ける。よく滑れる。
ーー動ける現実が楽しすぎて、歯止めが効かない。練習してきた表現や、こう滑りたいと思ったアラビアの色彩が全然描けていない。最後のフライングキャメルスピン。エントランスで高く飛びすぎて、若干音とズレた。スムーズにフリーレッグをつかんでドーナツスピンを高速で回る。やばい、早く回りすぎている。何回回った? 15回? それとも20回以上? 回転数が分からなくなるほど回って、音楽の終わりと一緒にスピンを解く。
最初のトリプルアクセルとコンビネーションジャンプが効いたのか、それなりに拍手と花をいただけた。いただけたのだが。
「悪くはなかったですよ。ですが」
「……うん。なんか……勢いつけすぎた……」
演技を終えてリンクサイドに戻る。要素要素は悪くなかった。でも、よく動けすぎて、振り返るとメリハリのない演技になってしまったように思う。前のめりで客観性がない。多分これは、つまんなすぎてシャリアール王に殺される演技だ。
「わかっているならいいです。まぁ、多少練習の効果は動きにも出ていましたよ。それに本番で息切れしなくなったのが大きいですね」
今回は本番でそれが証明出来ただけでも収穫だろうか。モニターにコレオシークエンスが映し出される。うん……可もなく、不可もなく。
得点が表示されるまで時間はかからなかった。ーー128.03。
「まぁ、予想通りの点ですかね」
わかっている。表彰台が確定されたのは嬉しい。だけど、演技そのものやPCSが全部7点台の前半なのに、悔しさが残る。
ショート2位。フリーは現在3位。
最終滑走は安川杏奈。
曲は、ヨハン=シュトラウスⅡ世作曲。オペレッタ「こうもり」。
紫色のドレス調の衣装で現れる。そしてーー
*
……表彰式が終わり、杏奈と二人で廊下を歩いていた。お互いに健闘し合う。次は、アイスダンスのフリーダンスを挟んで、男子フリーだ。
ーーショート同様、フリーも杏奈は完璧だった。友人としても素直に嬉しいが、実力的に杏奈に近付いたと思ったら少し遠くなってしまった気がして、やるせない。ブロンズのメダルが重い。杏奈が下げたゴールドの方が重いのだろうけど。
「あ」
……なんでこんな時に会ってしまうのか。だが、目を合わせてしまった以上、無視するわけにもいかない。
「どうもジョアンナ。フリーは素晴らしい演技だったわね」
先に声をかけたのは、杏奈だった。
「それほどではないわ、ミス・ヤスカワ。優勝おめでとう」
「今回の大会が私のためにあった、ていうだけよ。でも、ありがとう」
「ミス・ホシザキも」
いきなり私に振ってきた。三位おめでとう、と。
おめでとう、と言われても全然勝った気がしない。ショートのアドバンテージは僅かに士か残らず、私のフリーは彼女に負けたのだから。それでも突っぱねるのも変なものなので、ありがとうと小さく返した。
不意に、ジョアンナが私に近づいてくる。桃色珊瑚の唇が、私の耳元に落ちる。そして。
「ーーえ」
ハープが零れるような声に、肩が寒気を覚えた。
輝かしいディズニー・プリンセスの顔が、私の耳から離れる。含みも何もない綺麗な笑顔で、またねと言わんばかりに踵を返した。
「雅。今、ジョアンナになんて言われたの?」
「いや……。なんでもない。スケートには関係ないことだったし」
それでも肩のあたりに感じた寒気は消えてくれない。
「本当に?」
「うん」
「……ならいいけど」
「着替えて、男子のフリー見よう」
その前に公式記者会見が待っている。昨日みたいなことにならないのを祈ろう。
……今のジョアンナの言葉は多分、スケートには関係ないはずだ。別に特段気にすることではない。引っ掛かりを感じてはいけない。
ーーガラスの靴が履けるのは私だけ、なんて言葉、早く忘れなくてはならないのだ。




