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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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35/66

10.猫とネズミがシカゴで踊る 【2016スケートアメリカ その①】

 GPシリーズ第一戦、アメリカ大会。

 今年の開催地はイリノイ州シカゴ。ミュージカル映画のタイトルにもなった場所だ。成田空港からロサンゼルス経由でシカゴに到着した。

 公式練習を経て、今日はショートの日だ。


 日程はシンプルで、大会の1日目が各カテゴリーのショートプログラム。2日目がフリースケーティング。最終日がエキシビション。ショートは、ペア、女子シングル、男子シングル、アイスダンスの順番で。フリーも同じ順番で行われる。

 女子の第二グループ開始前に会場入りをした。


「なんというか……」


 去年の世界選手権はパリだった。フランス女子のエース、マリーアンヌ・ディデュエールが出場するからか、特に女子シングルの日は満員だった。

 アメリカは確かにフィギュアスケート大国だけど、現在は人気があるわけではないらしい。日本だったら普通、公式練習にもマスコミやテレビ局が詰めかけてくる。そしてこの大会にも日本のマスコミが押し掛けてきていた。少し前に、連盟の強化費用はそんなにでない、とジョアンナがこぼしていたのを思い出す。


 ……シカゴの会場は観客席の半分ほどしか埋まっていなかった。これが日本だったらほぼ埋まっていたことだろう。

 ジュニアのときに出ていた大会を思い出す。観客席はそこまで広いわけではなく、ショートもフリーもエキシビションも、観客より空席の方が目立っていた。その時の寂しさに少し似ている。


「ま、寂しいもんはあるけど。ショーじゃなくて大会だから。スポンサーは大泣きかもしんないけど、これから演技する君にはあんまり関係ないよ。客がいようがいまいがやることは一緒だし。それに、事件があってピリピリしているより遥かにましだよ」

「事件?」

 先生は簡潔に、「9.11テロ」と答えた。


 その時は赤子だったので全然記憶がない。通称9.11。正式事件名はアメリカ同時多発テロ。2001年9月11日、アフガニスタンのタリバン政権がアメリカの貿易センター等を同時に襲撃した事件。社会科の教科書に載っていた。


「あんなことがあったからかね。その年のスケートアメリカもそうだけど、ソルトレイクも警備員の数が尋常じゃなかったよ。去年の例もあるし、大会は平和にできてなんぼだよ」


 9.11の年は、スケートアメリカの開催が事件の一ヶ月後だった。当時、日本からもスケートアメリカに審判員が派遣される予定だったが、テロの影響で派遣が取りやめになったらしい。当時選手だった先生は普通に出場したが。そして去年の例。

 記憶に新しい、パリ同時多発テロ事件だ。


「……それはそうですね」


 平和にできてなんぼ、という意見への回答だ。テロや戦争でスポーツが脅かされてはたまったものではない。

 去年シニアに昇格した俺は、アサインされたグランプリシリーズの大会がフランスと日本だった。第4戦が11月半ばのフランス大会、第6戦が11月下旬の日本大会。本来ならばその2大会に出る予定だった。

 だが。10月半ばに四回転の練習中に右足を負傷してしまったため、フランス大会は辞退した。その大会の開催中、パリ同時多発テロが起こった。その大会は開催地がボルドーだったが、大会はショートプログラムの終了で打ち切られた。……他人事とは言えない事件だ。


 安全に競技が出来ることにありがたみを覚えつつ、俺は関係者用の観客席に座った。氷上では女子シングルの第二グループの6分間練習が始まっている。先生が右隣に座る。


「哲也」


 ……横に来たのは黒縁眼鏡をかけた、見た目中肉中背の男。しかし腹筋や肩のあたりにはしっかりとした筋肉がついているのを知っている。こげ茶に染めたツーブロックの髪。眼鏡を外すと韓流アイドルのような顔が姿を表す。純日本人だが。

 去年一緒にシニアに上がった小林晶だ。堤先生に挨拶をした後、左隣に座る。


「晶。どうしたんだよ」


 晶は一つ年上だが、敬語を使われるのを嫌がるので普通に話している。合宿を通して知り合ったが、何故だか馬が合う。昨シーズンの世界選手権も一緒に出場した。国内のライバルともいえる存在。


「お前が見に来て、俺が見に来ちゃ悪いのかよ」

「悪いとは言ってない。でも、滑走早いだろ」

 彼は第一グループの五番滑走だった筈だ。俺は第二グループの四番滑走。

「雅と杏奈の演技を見たら戻るさ。それに、杏奈のシニアデビューの緒戦を見逃せるかよ」

 それは3週間前のジャパンオープンだったぞ、と突っ込みたい。しかしそこで水を差すのも面倒なので訂正しない。彼にとっては生で見られる今回が緒戦なのだ。


 6分練習を見る限り、杏奈の調子は悪くないようだった。三回転ルッツを確認し、コンビネーションも順調に降りている。滑りのスケールが大きいから、六人滑っていてもよく目立つ。

 雅は……。

 アクセルが何度かシングルになっている。タイミングを確かめているのだろうか。6分練習で成功しても、本番で抜ける事はよくあるから、慎重になっているのか。しかし。


「雅ちゃん、調子いいね」


 先生の言う通り、スピードが乗ってる。動きのキレもいい。


 雅や杏奈と反対に調子が悪そうなのがジョアンナだ。六人のうち、目立って重そうに滑って、あぶなっかしい場面がある。よろけて滑ったところをさっと雅が避けるシーンはひやっとした。まさか3週間前のジャパンオープンを引きずっている、なんて事はないとは思うけど。


 ジャパンオープンで悲惨な演技だったジョアンナは、競技が終わった後何故だか俺に泣きついてきた。女子の演技は彼女以外それなりに良かったから、余計にショックが大きかったのだろう。ーーマサチカのプログラムは私には合わない。難しすぎる、と。こんな状態じゃショーで滑れない、とか。……ショーで滑れないのは流石にやばいので、適当に宥めたらすぐに立ち直ってくれた。


 それからだ。ジョアンナからの連絡が増えたのは。主にLINEでのやりとりで、プログラムの相談や競技の話も多いが、取り止めのない話も送られてくる。これこれこういう服を買ったとか、テイラーの新曲がいい、とか。若干反応に困ることも。


 彼女で大きな弱点は二つ。一つは俺と同様、ルッツのエッジが不安定なこと。

 もちろん、それは彼女自身も自覚している課題で、なかなか直せない自分にもどかしく思っている事だろう。


 もう一つは……考え事をしていたら、リンクには雅だけが残されていた。第一滑走だ。雅の顔は見えないが、向き合っている星崎先生の無表情だけは確認できる。一言ふたこと何か言っている。名前がコールされて、リンク中央へ。ワンピースタイプの黒地のノースリーブの衣装。白と群青のスパンコールが反射する。気がつく人間は少ないかもしれないが、衣装の中には猫が隠れている。


 曲はフランツ・リストの「ハンガリー狂詩曲 第2番」。

 振り付けは星崎涼子。涼子先生をして「最高傑作」と言わしめた一作だ。……大体新作が出来るたびに、先生はそう言っているのだが。

 

 

 トリプルアクセルと確実な三回転+三回転を武器に氷上を駆け巡る「クレイジージャンパー」。世界ジュニアで銅メダルを獲った後、海外メディアがつけた雅の二つ名がこれだ。昨シーズンで、雅はしっかりトリプルアクセルという大技を「何時でも破壊力を発揮する確実な武器」として身に付けたようだった。


 だがスケートアメリカの下馬評は、地元のジョアンナ・クローンとジェシカ・シンプソンが、ロシアの実力者、エカテリーナ・ヴォロノワと争うだろうというものだった。ジョアンナは去年の全米の優勝者。ジェシカ・シンプソンはソチ五輪四位で、十五年の上海での世界選手権の銅メダリスト。

 日本勢は実力はあるとは言えジュニア上がりが二人なので、まぁ運が良ければどっちかにころんと銅メダルが落ちてくるよ、というような。

 ただ、そういう杓子定規な予想を裏切るのも、スポーツの面白いところだ。


 ーー曲が始まる。よく伸びるヴァイオリン。深くエッジを使った、音に合わせた伸びるような振り付け。ピアノが高音のトリルで飾る。右腕の振り付けが、細かく音を拾う。

 トップスピードになるのが早い。いくつかターン、ステップを組み合わせての最初の技はーートリプルアクセル。

 モホーク、カウンターから前向きに向き直り、力強く飛ぶ! 

 雅のジャンプは、飛ぶ瞬間のエッジが綺麗だ。すっとそのまま駿馬が駆け上がっていくかのように躊躇いがない。

 高さは十二分。フェンスを飛び越えられそうなほどだ。約1秒あるかないかの滞空時間ののち、着氷。


「わー、すげ」

 歓声にかき消されてもいいぐらい小さい声だったが、隣にいる先生の率直すぎるほど語彙の失った感想が、俺の耳にはっきりと届いた。

 調子がいいってもんじゃない。GOEが満点貰えるぐらいのジャンプだった。


 雅のジャンプを、初めて直で見たジャッジもいたのだろう。右から3番目のフランスのジャッジが、ぽかんと口を開けている。


 ゆるやかで哀愁に満ちた曲調から、急速にテンポが上がっていく。

 瞬く間に次の要素に。超絶技巧のピアノと高速のレイバックスピンが絡み合う。背中をそらしたまま、回転を早める。フリーレッグをつかんで、耳元の横にブレードをつける。レイバックスピンの一種で、ヘアーカッターと呼ばれる技だ。……体は硬くないが、ビールマンの姿勢は杏奈やジョアンナ、マリーアンヌと比べるとはっきりと劣る。そこで差別化を図るために、高速のヘアーカッタースピンを手に入れたのだ。


 音が目まぐるしく変わり、次々と技を繰り出していく。コンビネーションスピンで面白いぐらい姿勢が変わる。技と技の繋ぎのステップはハンガリーの民族舞踊のようにダイナミックで、中盤のステップシークエンスはそれとは違う愛嬌と楽しさがあった。決してターンの数が多いわけではないので、何かが何かを追いかけて、それを互いに楽しんでいるような。


 ……言うなればこのプログラムは、リストの超絶技巧に乗せた猫とネズミの追いかけっこだ。ピアノが猫。ネズミがヴァイオリン。ステップはけして難しいターンやステップの組み合わせがあるわけではないのでレベルは3がいいところだろうが、レベルでは図れない面白味があるのも事実だ。


 リストの「ハンガリー狂詩曲」は全19曲。最も有名なのが第2番だ。本来この曲はピアノ独奏曲なのだが、このプログラムでは編曲に特徴がある。

 ピアノとヴァイオリンが交互に主旋律を奏でるのだ。ピアノが主旋律を奏でている時はヴァイオリンが装飾音になったり、逆の時はピアノがベースの役割を担ったりする。


 有名なフレーズを鍵盤が叩く。音に合わせるのは、氷上スレスレまでぐっと腰を落としたハイドロブレーディング。水平に伸ばされたフリーレッグは、猫のしっぽのように伸び伸びとしていた。滑るエッジが大きく半円を描く。そしてそのまま体勢を整えつつスリーターン。旋律がヴァイオリンに変わり、ネズミが猫のしっぽを追いかけてーー


「……なんだそりゃ!?」


 今度の声は晶だ。……さっきから両隣の人間から、語彙がなくなった感想しか聞こえてこない。

 ーーハイドロブレーディングから連続のスリーターン、そのまま直接三回転ループ。それも、ジャッジの目の前でだ。スピードを落とさず最後のジャンプに。少し長めの助走から、ルッツ+トウループの三回転+三回転のコンビネーション。ーー三回転ループからのジャンプは演技の後半時間なので、点数が1.1倍される。ハイリターンだが乳酸がたまる後半な分リスクも高い。


 ルッツに踏み込む左足のエッジが綺麗にアウトサイドに。そのまま、弾丸のような勢いで、種類の違う3回転を連続で綺麗に決める。飛距離がありすぎて、フェンスに当たりそうだった。隣に座る晶が笑う。笑うしかない。緩急のある陽気なハンガリー狂詩曲の後半部分に、最高のジャンプが重なった。


 狂詩曲。まさに狂ってる。クレイジージャンパーという二つ名は、間違ってはいない。


 締めは得意のフライングキャメル。たっぷり十回回った後、スッとフリーレッグを掴む。交互に奏でていたヴァイオリンとピアノが殴り合うように、互いの音の主張をやめない。まるで喧嘩だ。ヴァイオリンがうねる。ピアノが走る。ネズミが威嚇をして、猫がちょっかいをかける。高速のドーナツスピンが二つの音の橋渡しをする。追いかけても主張しあっても、猫とネズミは離れない。


 スピンを解いた瞬間に、疲れ切った猫とネズミが握手をする。

 ピタッと気持ちいい音が聞こえてきそうな、綺麗な終わりだった。


 

 閑散した会場に、割れるほどの拍手が湧き上がる。ノーミスの演技を披露した雅は、飛び上がってガッツポーズをする。ジュニア上がりの雅のアメリカでの知名度はあまり高くなかったはずだ。

 それでこの歓声。隣の先生がなんて言っているか、全く聞こえないほどの。

 花とそれなりに大きいサイズの猫のぬいぐるみが投げ込まれる。

 ……最高と言っていいほどの、グランプリシリーズのデビューとなった。



 次滑走の杏奈がリンクインする。すれ違いざま、雅と杏奈が静かにタッチした。がんばれ、お疲れ様という意味合いがあったのかもしれない。雅を迎えた星崎先生は、生徒とは真逆で冷静そのものの顔だ。腹の中ではどう思っているかは、額面通りには捉えられないのかもしれないが。

 はあっと隣の晶がため息をつく。わざとらしい音だった。


「俺さあ、雅のジャンプを見るたびに思うんだよな。……雅が男子じゃなくてよかったって。いやマジそう思うわ。勝ち目ねえよ」


 気持ちはわからないでもない。同じことを、ジャパンオープンのバンケットでジェイミーが言っていたのだ。ーーもしミヤビが男子シングルだったら、少なくともジャンプだけなら僕に勝ち目はない。あのジャンプならクワドだって習得できるかもしれない、と。

 つい、首を傾げてしまう。

「そうか?」

「そーだよ。ほんっと、凄すぎて参考にならねー」

「いや、でもジャンプが良くても雅は雅だろ。男子だろうが女子だろうが関係ないよ」

「……ごめん、お前に言った俺が間違ってたわ」 

 それどういう意味だと繋げようとしたところで、会場のアナウンスが入る。

 得点が表示される。ーー現時点でトップに立った。

 

 

 第二滑走は杏奈。雅の親友で、昨シーズン世界ジュニアの女王。淡い紫色の衣装。半月のかたちの髪留めが美しい。キャッスル・オン・アイスで披露した「月の光」だ。

 歌うように。流れるように、曲そのものがもつ淡い色彩を完璧に滑り切った。


 トリプルアクセルがない分、ジャンプ構成は雅よりも弱い。だが、三回転+三回転がルッツとループで、単独のジャンプがフリップだった。トリプルアクセルを入れないジャンプ構成での、最高難易度のものになっている。また、レイバックスピンの加点やステップのレベル判定など、トータルパッケージで見ると雅より上だ。ステップではスケールの大きいスケーティングに湖水の上を進むかのような細やかなターンが続き、至高のレイバックからのビールマンスピンへの移行もよどみない。……アイスショーの時は、ビールマンでは回っていなかったと記憶している。


 夏のアイスショーで見た時よりも、所作が更にブラッシュアップされている。より、「月下の湖水で踊る少女」のイメージが鮮明にされていた。


 ……最初に名前がコールされた時、隣の晶が「杏奈! 結婚してくれ!」と叫んでいたのは、聞かなかったことにしよう。どうせ杏奈も聞いちゃいない。


 納得の演技で雅の点数を抜いた。ただ、点差はそれほど開いていない。


 その後は世界ランキング上位の選手の演技だった。ソチ五輪銅メダリストの、イタリアのカテリーナ・リンツ。ソチ五輪アメリカ代表、ジェシカ・シンプソン。ダイナミックなジャンプが持ち味の、ロシアのエカテリーナ・ヴォロノワ。シンプソンとヴォロノワはノーミス。リンツはダブルアクセルがステップアウトした。ミスというミスはそれぐらいで、全員がそれぞれの魅力を引き出した演技になっていた。


 だが、それでも杏奈と雅の点数に届かない。残り一人を残した状態で、杏奈は一位、雅は二位のままだ。三位はシンプソン。四位がヴォロノワの、五位がリンツ。


 最終滑走は地元アメリカのジョアンナ・クローン。

 青いドレス風の衣装で滑るショートはディズニーの「リトル・マーメイド」。


 ……6分間練習の不調を、そのまま引きずったかのような精彩を欠いた演技だった。見ているこっちが危なっかしくて、頭を抱えてしまうほどだ。コンビネーションはセカンドが二回転になったのはいい方で、ダブルアクセルで尻餅をついた。


 左隣の先生が渋い顔をする。右隣の晶はいない。言葉通り、杏奈の演技が終わったらさっさと客席から消えていった。ショートでこの出来では、先生が振り付けたフリーの仕上がりはいかがなものか。ジャパンオープンはシーズン序盤の出来としてもあまりよくはなかった。……だから思い詰めて泣いてしまったのだろう。

 最後のスピンも、ビールマンのポジションが何時もより硬く見えた。


 ルッツのエッジ以外のジョアンナのもう一つの弱点。それは、演技をまとめられないことだ。一回失敗すると、ズルズルとミスを重ねてしまう。演技途中のリカバリーが下手なのだ。


 人魚姫の恋は成就できたのか、声を失ったまま泡になってしまったのか。終わった後のジョアンナの顔に、輝かしいディズニー・プリンセスの面影はどこにもない。キス&クライに引き上げる姿も小さく見えた。


 得点はすぐに表示された。それを見てリチャードがジョアンナの肩を抱いた。全米女王のショートは六位。

 事前の予想を大きく上回るようなスタートとなった。

 

 ✳︎

 

 ザンボニーが氷に残ったトレースを綺麗に消していく。製氷作業の間に、女子シングルの上位三人による公式記者会見が行われる。その後に、男子シングルが始まる。体を伸ばし、廊下でジョギングをして少しずつ体を慣らしていく。滑走の早い晶は、十分に体を温めたようだ。少し離れたところで、ジャンプのイメージトレーニングをしていた。


 ワイヤレスイヤホンからショートの曲が流す。ショートの曲とさっき聞いたリストの超絶技巧が、複雑怪異に鼓膜に張り付いてくる。


 男子の開始まで残りわずかという時間の頃。

 プレスルームから出てきたらしい記者の一群が、俺の横を通り過ぎて行った。皆、少し険しい顔をしている。特に、アメリカの記者と思しき何名かが。たしかに彼らにとっては面白くないスタートになっただろうが……。


 ……考える余裕はない。もう次には競技が始まるのだ。俺は周りの音をシャットダウンするために、イヤホンから流れる曲のボリュームを上げた。深海に潜るように深呼吸を繰り返す。ショートの曲が鮮明に聞こえてくる。自分の感覚がどんどん研ぎ澄まされていく。


 会場のアナウンスが、男子シングルのショートの始まりを告げた。



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