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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン2 2016-2017

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34/66

9.2016スケートアメリカ 、前夜

 

 今シーズンの、ジャンプ構成。


 ショートはトリプルアクセル、ルッツートウの3回転+3回転のコンビネーションに、単独の3回転ループ。フリップのエッジがまだ不安定だからだ。エッジエラーで減点を食いそうなフリップよりも、加点をもらえそうなループの方が、全体的な得点が望めそうだからだ。

 そしてフリー。予定としては、トリプルアクセルを最初に一本。それを含めて前半にジャンプを3つ固めて、基礎点が1.1倍になる後半に4つ。そのうちに最後のジャンプはルッツートウの3回転+3回転を入れる予定だ。


 ……終盤のコレオグラフィックシークエンスから、スリーターンを重ねて三回転サルコウ。スリーターンの前はベーシックなアラベスクスパイラル。前傾姿勢が綺麗じゃない、足が伸びきってない、エッジがグラグラ、等の素晴らしいダメ出しを母から食らっていた技だ。フリーレッグを静かに下ろしてジャンプ。今は私の曲かけ練習なので、優先して使える。見つめるのは父と母だ。

 最後のスピンを解いたのと、音楽が終わったのは同時だった。 


「あー……」 

 肺で息をする。

 ネーベルホルン杯から一ヶ月経っていた。あの試合のあと、とにかくスタミナを付けることと、滑りの質を高めることに重点を置いて練習してきた。コンパルソリーの時間を1時間から1時間半に増やし、プログラムの通し練習の回数を増やした。もちろん、ジャンプの練習も怠らない。


「だいぶマシになりました。最後のコレオまでちゃんと滑り切れるようになったのが大きいですね」

 マシって父さん。もっと良い言い方は……ないな。現時点では。マシになったが最高の褒め言葉だ。


「少しは体力ついたみたい。ジャンプの時、前よりパワーレスに飛べるようになた気がするよ」

 プログラムの通し練習を増やすのは、プログラムの精度を上げるだけではなく、スタミナ向上にも一役買ってくれた。通し練習を1日2回。これ結構つらいのだ。


「動きも綺麗に見えてきたわよ。映画見た甲斐があったわね」

「それは……。置いておこうよ、母さん」


 ネーベルホルンで大澤さんに言われたこと。それは一応父にも母にも伝えた。だいぶショックだったこと。背伸びしていることの何がいけないんだ。


 一言でいえば「乳くさい」ということだ。しかし。


 私の嘆きを、「今それだからなんだというのです。それよりも、滑りの質を上げましょう。そうすれば、動きも少しは見られるようになります」と父は鼻で一蹴した。

 母は「磨き方を知らないって? そんなこというセクハラ野郎は潰れてしまえって言ってあげれば良かったのに」と大分間違った方向でフォローを入れた後、「自分のシェヘラザードを見せればいいのよ。それを見つけるためには、研究するところから始めないとね」と言って、どさっと資料を渡してきた。父の書斎にあるCDと、筑摩書房から出版されている「千夜一夜物語」。バレエの「シェヘラザード」。それから、アニメの「千夜一夜物語」。四十年以上前に、手塚プロダクションが制作したアニメ映画版だ。イメージがつくんじゃないかしらと言って母と見た映画は……なかなかに刺激的でセクシーなものだった。


 今の私では、過剰に「女性らしく」「色気があり」「したたかに」演じても、私が実際そうではないのだからちぐはぐに見えるだけだろう。

 それでもシニアのプログラムに求められるのは「大人の滑り」。要するに、「誰が見ても上質なスケーティング」だ。


 そこで私と父がとった作戦は「女性らしいしたたかなシェヘラザード」を演じるのではなく、「アラビアの綺麗な女の子が語る、様々な物語の色彩」という解釈でプログラムを滑ることにした。


「まあ、今の段階では悪くはないでしょう。1時間後に、ジャンプの練習をしましょう。冒頭のトリプルアクセルのステップ、あれがきちんと入るか入らないかでだいぶ説得力が違います。そこはまだ甘いですからね」


 ……2人とも慰めるどころか「もっと練習しろ」とか「勉強しなさい」しか言わない。なんとまぁ似たもの夫婦というか、私に落ち込む隙間を与えない。

 でもその方が良かった。目の前の課題が可視化されるわけだから、余計な不安を抱え込まずに済む。自分が目指す方向が見つかれば、そこに向かって滑り込めばいい。……それが今後、どうジャッジに評価されるかは滑って見ないとわからないが。


「じゃあ、フリーの振り付けはその辺で。ジャンプ練したあと、ショートのチェックもするから」


 母はそれで私から離れた。基本的に私の場合、母は振り付けのチェックが主なので、基礎やジャンプなどは口を挟んでこない。この辺りは修羅の総一郎の仕事、と思っているらしい。てっちゃんにはバンバン口を挟んでいるらしいけど。


 私はいったんリンクから上がる。今日は金曜日で、今は午後6時。今日は9時まで練習できるので、1時間休みを挟む。母はノービスの女の子たちのグループレッスンに向かった。父は、別の生徒の練習を見るみたいだ。


 アイスパレス横浜には、クラブ生用のロッカーと一般用のロッカーが分かれている。クラブ生用のロッカーの横には給湯室があって、そこでクラブ生が休んだり練習の合間にご飯を食べたりしている。ちなみに、ここで宿題や中間テストの勉強をする生徒もいるのだ。もちろん給湯室じゃなくて、観客席で休む人もいる。

 ……給湯室にはテーブルの他に小さめのソファベッドがある。そこで、座ったまま意外な人が眠っていた。普段こんな感じで眠ったりしないのに。そういえば堤先生は……別の生徒の指導をしていたっけ。松田大樹という、小学校6年生の男の子だ。筋がいいし、彼のノービスの大会もそろそろなはずだ。


 私は冷蔵庫の中から弁当袋をとりだした。電子レンジで温める音で起こさなきゃいいんだけど。椅子に彼の上着があったので、肩にかける。

 流石に疲れを隠せないのだろう。ジャパンオープンは出来が良くなかったと語っていたし、四回転もあまり精度が上がっていないと焦っていた。そして、グランプリシリーズの初戦は私と同じだ。今日も私より早く来ていたから、一体どれだけ練習しているのか。練習で怪我をしていないのが救いだ。

 練習を夜遅くまで行う時、家ではなくリンクで夕飯を食べることにしている。学校から家に寄らずに直行でリンクにいく場合、母が給湯室の冷蔵庫に入れておいてくれるのだ。


「……雅」

 レンジが鳴る音で起きたらしい。眠っていたてっちゃんの瞳が、開いていた。


「珍しいね、てっちゃんがこんなとこで寝てるなんて」

「先生が大樹の練習を見ている間、少しだけって座ったらいつの間にか落ちてた。……流石に腹が減ったな」

「ご飯ないの?」

「ある。持ってきた」


 ソファから立ち上がって、てっちゃんは冷蔵庫を開ける。渋緑の巾着の中には、それなりに大きいタッパーがあるのかもしれない。

 私の今日のお弁当箱は曲げわっぱだった。いくつか弁当箱を持っていて、今日は何かと見るのがひそかな楽しみだ。きゅうりとささみの梅肉和え。卵焼き。にんじんしりしり。蒸したブロッコリー。たらの蒸し焼き。ごまとしゃけの混ぜご飯。おかずが多めなのは、炭水化物過多にならないようにしているからだ。母に感謝。とりあえず、にんじんしりしりに箸をつける。

 感謝が半分減った。


「げ」


 ……なんでにんじんしりしりにリンゴジャム混ぜるかな。母さん。絶妙に食べられるマズさだから困る。


「変なの入ってたのか?」

「にんじんしりしり……」


 その一言でてっちゃんは納得してくれた。この味に、にんじんもリンゴジャムも嘆いていいはずだ。

 てっちゃんの無造作なタッパーの中には、そこそこ大きめなおにぎりが二個、鶏の照り焼きと蒸した野菜にごまだれをかけたシンプルなサラダ、じゃことセロリの金平が詰まっていた。どれも普通に美味しそうなのだが、気になるのが一点。


「照り焼き、やたらと大きくない?」

 タッパーの半分をでかめな鶏肉が占領していた。

「姉さんからもっとタンパク質取れって言われた。聞いている話よりも足りないと思うからって」

 苦笑しながらてっちゃんが話す。なんでも、ジャパンオープンにお姉さん……鮎川美咲さんが見にきて、「もっと肉食え! 聞いていたよりも少ないわ!」と言われたようだ。


「あのフリーを滑り切るには筋力がまだ足りないんだよな。最後の方になると足が棒になるし。まだ曲が自分のものになっている気がしない」

 少し悔しそうにてっちゃんが呟く。シーズンオフも十分に筋力トレーニングをしていたけれど、試合の緊張感が加わるとまた話が違ってくる。また、フリーの難易度も昨シーズンより大幅に上がっている。鬼畜か。私の兄弟子は。

 お互いに焦るポイントは似ている。ショートではなくてフリーが滑りこなせていない。スタミナが足りない。どう表現するか考えあぐねている。私は少し方向性が見出せたけど、てっちゃんはまだ手探りなのかもしれない。「こう表現すれば良い」という明確な正解はない。


 でも。


「あのプログラム……」

「ん?」

「てっちゃんに合うと思うよ。今までのてっちゃんとは違うけど、私は好きだな。てっちゃんの滑りはいろんな音になれるから。これからがすごい楽しみ」

 サン=サーンスのあの曲は、作曲家の最高傑作だ。曲の力は大きいけど、とても繊細なフレーズも沢山隠れている。そしててっちゃんの滑りは音だ。これをどうてっちゃんが滑るのか。


「……そう言ってくれるのはありがたいな」


 てっちゃんはそこで、少しだけ笑った。

 ずっと根詰めて練習をしていた。ここ一ヶ月は、真面目な顔をしている時の方が多かった。柔らかく解けたところを、久しぶりに見た気がする。形のいい唇が少し崩れて、切れ長の瞳に温かいひかりが灯る。


 綺麗だな、って何も疑いなく感じた。普段の色とは違う。普段は燃えている。今は、闇の中で静かに光る星に似ていた。

 じっと見つめてしまっていた。私は慌てて目を逸らす。顔と耳に熱が籠る。そんな私を、今度はてっちゃんが濁りのない瞳で見つめていた。……どうしたんだろう。


「ごめん、なんでもない」

 何事もないように、てっちゃんは箸を動かし始めた。


 給湯室には誰も来なかった。私とてっちゃんはテーブルで大人しく食事を摂った。練習の合間の、本当に息がつける時間。ぽつぽつと話をする。肉は嫌いじゃないけど、魚の方が好きだとてっちゃんがこぼすと、魚は案外高いからねぇと私が返す。私はイワシの梅煮が好きだというと、イワシは丸のまま焼いて食べるに尽きるという答えがやってきた。時折目があって、そのたびに少し恥ずかしくなる。名古屋でのアイスショーのあと、こんなやりとりが増えた気がする。目があって、どっちかが気まずく逸らして。今は、手の距離もなんとなく近い。それだけで、関節がしっかりしたてっちゃんの手を意識してしまう。そんな会話の中で、再びてっちゃんのお姉さんが話に出てきた。


「私に?」

「そう。雅の話を聞きたいって。食事面でどんなことを気にしているかとか、どんなものを食べているか気になるみたいで。いつでもいいって言っていたけど」

 鮎川美咲さん。会ったことはないけれど、てっちゃんの話の中に何度か現れたことがある。聞く限りでは、竹をナタでスパッと割ったかのようなサッパリとした性格だ。なんでも管理栄養士を目指しているから、アスリートがどういう食事をしているのか気になるそうだ。


「私で良ければ、全然いいよ」

「本当か?」

「うん。まぁ、母さんがやっていることをそのまま伝えるぐらいになっちゃうかもしれないけど」

「それで大丈夫だと思う。……ごめんな。会った事ない人間からこんなこと頼まれるのは戸惑うよな」

「ううん、全然。てっちゃんのお姉さんだし」

「そっか。ありがとう」


 そこでてっちゃんの上着のポケットが振動した。ポケットからiPhoneを取り出すと、てっちゃんは少し苦い笑いをした。呆れた顔だった。


「それは俺じゃなくてもいいと思うんだがな……」

「どうしたの?」

「まあ……悩んでいるのは俺たちだけじゃないってことだ」

 その話はそこで終わったので、私も深入りしないことにした。


 スケートアメリカ。男子の主な出場選手は、日本からは鮎川哲也、小林晶。海外勢は地元アメリカから、ジェイミー・アーランドソン、ネイト・コリンズ。カナダのアーサー・コランスキー。世界選手権3位のチャン・ロン。

 女子は日本からは安川杏奈、星崎雅。海外勢は、ロシアのエカテリーナ・ヴォロノワ、イタリアのカテリーナ・リンツ。地元アメリカからは、ジョアンナ・クローン、ジェシカ・シンプソン。……できれば当たりたくない名前があったけれど、こればっかりは仕方がない。


 嵐の足音が近い気がした。私はその嵐の予感を振り払うように、卵焼きを口に放り込んだ。今だけは、この時間を崩したくなかったのだ。

  

 ✳︎

 

 靴は刃物になるからトランクに。衣装はシワにならないように最新の注意を払ってしまう。髪飾りは形が変わらないようにしっかりとアクセサリーケースに入れて。日本代表のジャージとスーツ。iPod。ヨガマット。

 あと必要になるのは……押入れの奥底に眠っているよそ行きの服。


「雅、ちょっといい?」

「どうぞー」


 はっきりしたノックの音は、母だ。背中に何かを隠して部屋に入ってくる。


「準備進んでる?」

「んー、まぁ。持っていくのはいつもと同じだし、あとは最終日の服を選ぶだけ」

「じゃ、丁度よかった。これちょっと合わせてみて」

 ばさっと背中に隠していたものを私に差し出した。


「……どうしたの? これ」


 トップスは白。スカートはオフホワイトになっているバイカラーのワンピースだった。

 プレゼント、と母は微笑みながら答えた。 


「スケートアメリカがシニアのグランプリシリーズデビューでしょ? だからこれ、バンケットで着たらどうかなって」


 バンケット。もしくはクロージングパーティ。


 ……他の競技でこう言ったものがあるかは知らないが。フィギュアスケートではエキシビションを含めた全ての日程が終わった後、大会開催者が用意するクロージングパーティが催される。立食のビッフェ形式が多く、結構みんなドレスアップしてやってきているのだ。初めて出場した世界ジュニアのバンケットは凄かった。戴冠したマリーアンヌ・ディデュエールが、ここはパリコレですかと問いたくなるようなファッショナブルさでやってきたものだ。そういえば彼女は、オフシーズンにモデルとして活躍もしている。


「今までの服もいいけど、シニアに上がったんだし折角だからね。着てみて」

「で、も」

「いいからいいから。さ、早く」


 母に促されて部屋着を脱ぐ。ファスナーが後ろにある。フレアの裾は膝まで。肩口で丸く絞った袖が上品だ。トップスと袖の布の種類が違う。裾には花模様のレースも施されていた。


「やっぱりねー。紺か白かで迷ったんだけど、あなたは意外に白が似合うのよ。今年のエキシの衣装だって白がベースだったでしょ? ぴったりよ」

「そうかな……?」


 自室の鏡を見ても、私に似合っているように見えない。着せられているみたいだ。馬子にも衣装というか。鎖骨が出ているから、ちょっと寒い。ストールでもつければ違うのだろうか。持っていないけど。


「それから……靴ね」

 ちょっとまっててと母が出ていく。再びやってきた時、靴箱を手に持っていた。

「これも合っているはずよ」


 箱を開けると、ボディはベージュで、ゴム製の黒のストラップがついたパンプスが出てきた。一体これはどこで。おそるおそる履いてみると。


「ぴったりだ」


 靴と足が一体化しているみたいだ。こんなに形のあう靴なんて出会えるものではない。一体どういうことだと首を捻ったら、母が足の形をとったことがあるという斜め横の返答が来た。いつの間に。


「首回りがちょっと寂しいけど……雅、何かネックレスかなにか持ってない?」

「持ってないかな……」

 正確にいえば、「この服に合いそうなネックレス」を持っていない。

「そっか。私のじゃ浮いちゃうし、でも、このままでも十分綺麗よ」

「母さん……」

「私はお世辞は言わないって知ってるでしょ?」


 お世辞は言わないけど、身内の贔屓目があるんじゃないかって思う。母親は娘が可愛く写るものだ。母が私を大事に、愛してくれているのがわかるから、余計にそれは感じてしまう。


「ちゃんとした格好で社交場にでることも大事よ。バンケットには各国のコーチやジャッジもいるんだから」

「それはそうだけど」

「雅」


 纏めていたポニーテールを母に解かれた。あまり意識していなかったが、髪は肩甲骨のあたりまで伸びていた。鏡を見て少し驚く。髪を下ろした方が違和感がない。少なくとも、着せられている感は減った気がする。


「自信を持って。滑りだけじゃなくて、あなた自身も綺麗になってるのよ。ちゃんとね、あなたが見てほしいって思う人に、私はあなたが綺麗なところを見てほしいの」


 見てほしい人なんていないよ、と言おうとして何故だか躊躇われた。

 ワンピースは衣装と同じように、シワにならないようにトランクに入れた。 

 ……出発は明日に迫っていた。

 

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