7.今日のドイツは荒れ模様
星崎家の朝は早い。
5時半に起床。ジャージに着替えてストレッチし、家の周りをランニングする。20分自分のペースで走った後、さっとシャワーを浴びて朝食。リンクに行くのは大体6時半になる。なお、父は同じ時間に起きて、私がランニングしている間に朝食を食べて先にリンクに向かう。
なので朝食を囲むのは私と……。
「……味噌汁に何入れた?」
「昨日のパスタの残りのウニだけど」
母、星崎涼子。元アイスダンス、全日本チャンピオン。現在はフィギュアインストラクター兼振付師兼、管理栄養士。
……通信で資格を取ったという管理栄養士の母は、基本的に美味しい料理を作るのだが、たまにキテレツなものを出してくる。現在、食卓に並ぶのは野菜とタンパク質中心の朝食だ。あさりとネギの薄味の混ぜご飯に、もりもりのサラダ。卵焼き。…長ネギとウニとワカメの入った珍味な味噌汁。
母は美人だ。元アイスダンサーらしく手足が長く、やや童顔ながらも整った顔をしている。私は目元は父に似ているが、全体的な顔立ちは母に似たようだ。今年で42歳になるが、30代でも十分通るほど若々しい。
「母さん、今日シフト入ってたっけ?」
アイスパレス横浜に所属するインストラクターは、ヘッドコーチの父を始めとして全員で20名。その中に、堤先生や母も含まれている。
フィギュアアスリートを目指すとなると、まずはインストラクターと師弟関係を結んでフィギュアクラブに入るのが普通だ。アイスリンクが開催しているスケート教室に通ったり、グループレッスンに参加したり。それを入り口としてフィギュアクラブの指導者と師弟関係を結ぶケースが多いだろう。
アイスパレス横浜では、レベルや人数に合わせてスケート教室を開催している。個人レッスンもあれば、グループレッスンも充実している。昨今のフィギュアブームのおかげか教室の生徒数は多い。それも、社会人で始めた人もいれば、中高年も目立つ。一言でフィギュアスケーターといっても、全員が全員競技会やオリンピックを目指しているわけではない。生涯スポーツとして、少しずつ開かれ始めている。
「んー、午後3時に佐藤さんの栄養指導があって、夕方に哲也くんの練習見ることになってるわ。それ以外は特になし。松野さんも来ないしね」
母が現在受け持っている専属の生徒は、松野という社会人スケーターだけだ。ほかに、フィギュアクラブの生徒の振り付けや、生徒の体質や嗜好さらに予算に合わせた栄養指導も行なっている。この栄養指導がなかなか評判がいいのだ。あとは、堤先生不在時にてっちゃんの練習も見ている。
ちなみに堤先生は今日本にいない。トリノ五輪王者のユーリ・ヴォドレゾフ主催のアイスショーに出演するため、ロシアはサンクトペテルブルクに出張中だ。
「じゃあ、佐藤さんの前は大丈夫だよね? 振付、きちんとできているか見て欲しいんだけど」
「いいわよ。どっち? ショート? フリー?」
「両方とも」
味噌汁を飲みながら、母が親指と人差し指でマルを作る。美味いと思って飲んでいるのだろうか。
ショートの振付は5月、フリーの振付は6月の新潟のエキシビションの前に終わっていた。あれからアイスショーで何度も滑っているから、細かいところが自己流アレンジされていないか、振付師にチェックしてもらうのだ。ショー用のものはともかく、競技用のプログラムで自己流になっていたら、レベルが取れるか取れないかの問題が出てくるから。
「変な風に滑ってたらカニカマとヤリイカのイチゴジャム漬けのココナッツオイル炒め作るから覚悟してね」
「……それ、絶対に生徒の親御さんに教えない方がいいからね」
なにせものすごくまずかったのだ。心の中でカニカマとヤリイカに手を合わせて供養するぐらいには。
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ジュニアからシニアに上がるにあたって、女子シングルで大きく変わることは二つ。
まず、演技時間だ。フリーの時間が3分30秒から4分になる。
もう一つは、同じくフリーの要素が一つ増えることだ。
今までフリースケーティングを構成する要素は、ステップが一つ、ジャンプが七つ、スピンが三つの、11個だった。
それがシニアに上がり、演技時間が30秒増えたことにより、「コレオグラフィックシークエンス」という要素が一つ増えることになる。よって合計12個。
演技実施時間の延長と演技要素が増したことで、求められるのはまずは体力だ。4分滑ってもスピードが落ちないスタミナ。そのために必要なものは、無駄な力を使わないスケーティング。結局プログラムの大半の時間は、飛んでいる時間でも回っている時間でもなく、エッジで滑っている時間だ。
「もっとスピードを出して! それじゃPCS8点台は難しいわよ」
ーージュニアからの推薦枠で、シニアの全日本選手権に出場したことはある。そのときは30秒長いシニア用のプログラムで滑った。特段疲れたと思ったことはないけど、4分の演技に慣れているわけではない。
「スパイラルの時、足をもっと伸ばしなさい。手の振り付けもおろそかになってるわ」
午後2時。約束通り、母にショートとフリーの振り付けを確認してもらっている。
コレオグラフィックシークエンスは、簡単に説明すれば、「スパイラルやイナバウアーなどのムーブスインザフィールドを駆使して、氷の上で自由に滑って表現する」というものだ。
自由度がありそうでいて、曲者な要素だ。ステップやスピンのようにレベル判定がなく、基礎点からいかに加点が稼げるかにかかっている。魅力的に滑ればその分付いてくるが、きちんとプログラムや振り付け、音楽とあっているか。また、それら合致するように滑れているか。振付師もスケーターも頭を悩ませるところだ。
ーーフリーは、6月頭に母とカナダに渡り、有名振付師のノーマン・マイヤーに振り付けてもらった。はじめての海外の振り付けだ。ノーマンが「シニアにふさわしい滑りを身に付けるように」と選曲したものだ。
「ちょっと雅、足が伸びきってない! シェヘラザードはそんなスピンやらないわよ!」
先ほどから、少しの狂いも見逃されない。その度に、厳しい叱責が飛んだ。流石は星崎総一郎の妻。独特な言葉で罵ってくる。
「今度そんな風に滑ったら煮干しと炙りゲソの豆腐ピーナッツバター和えを作るわよ!」
……あんなもん二度と食べたくない。なんの罰ゲームだ。
8月になると、今シーズンに対する緊張感が出てくる。下旬になれば私も去年まで出ていたジュニアグランプリシリーズが始まるし、来月はもう私の初戦だ。
今期の初戦はチャレンジャーシリーズだ。これがシニアに上がって初めて戦う試合でもある。大会は、ドイツはオーベストドルフで開催されるネーベルホルン杯だ。そこからグランプリシリーズに参戦する。エントリーはアメリカ大会とフランス杯。
8月のリンクは活気に満ちている。その活気は、殺気に近いかもしれない。プログラム練習をする私の横では、てっちゃんが殺気に満ちた顔で四回転の確認をしていた。
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9月のドイツはうすら寒かった。日本より早く気候変動が訪れるらしい。秋物のジャケットを着込んで会場に向かう。日本ではまだまだ残暑がきびしい時期だが、オーベストドルフの空は高く澄んでいて、風はもう冬のものに近かった。
始めての訪れるリンクは、自分を受け入れてくれるのではなく、立ちはだかってくるものだと思う。馴染みがなくて、よそよそしい。女子シングルは、日本は私のみのエントリーだ。
初日は滑走順を決めるくじ引きと、練習で終わった。標高の高いオーベストドルフの氷は、いつも滑っている横浜のリンクのものよりも透明に感じられた。そして、……。
「……?」
なんだろう。……滑りやすいというより、滑りすぎる。すこしの力でスーッと滑っていく。気のせいでは……ないはずだ。
翌日。
ショートのために会場入りすると、男子シングルのショートプログラムが行われていた。今日の日程は、アイスダンスのショートダンス、男子ショートプログラムの次に女子のショートプログラム、最後にペアのショートプログラム。
明日は全てのカテゴリーのフリーが行われる。順番は、アイスダンスのフリーダンス、女子フリー、男子フリー、ペアのフリーだ。
だからかもしれないが、今、女子のロッカーは人が少ない。扉付近のロッカーが開いていたので、そこに荷物を置いていると、音もなく妖精が入ってきた。
白皙の肌。腰までの伸びる、艶やかで癖のない金髪。透明感のある青い瞳。華奢すぎるラインにすらりとした長い手足。小さすぎる顔。妖精王に愛されたかのような、人間離れした美貌。
ベラルーシのエフゲーニャ・リピンツカヤ。マスコミがつけたあだ名はとてつもなく失礼なことに……火の女。可憐な容姿に反して、インタビューや発言の率直な激しさからだろうか。バックステージで日本のカメラが向いただけで、ひと睨みして「鬱陶しい」と呟いたのは有名な話だ。私はその意見に対しては同意しかないのだが、彼女の場合は時として、他の選手や採点に行くこともしばしばあった。
私は今回のジャッジには不満を感じています、とか、そんなにジャンプが得意なら高跳びの選手にでもなればいいのに、とか。……ちなみに後者の発言は私に対してのものだ。2015年の世界ジュニアで、順位が私の下にいった時に、ぽろっと出てきた言葉だ。当時私は殆ど無名だったので、よっぽど悔しかったのだろう。
そんな大層失礼な言葉を頂いてしまったが、私自身、リピンツカヤに対して悪感情は持っていない。柔軟性と滑らかなスケーティングが融合した彼女の演技は素晴らしいし、私は今以上にジャンプだけの選手だった。
なので……
「こんにちわ」
目があったので、英語で簡単に挨拶してみる。返事は何も来なかった。リピンツカヤは私のロッカーがある別の列のロッカーを開ける。試合前に余計な話をかけて欲しくなかったのかもしれない。挨拶ぐらい普通だと思うんだけど……。
……まぁ、いいけど。
30人の出場選手中、第4グループの最終滑走になった。エフゲーニャ・リピンツカヤが最終組の四番滑走。
ほかにめぼしい選手は、ロシアから2名。エカテリーナ・ヴォロノワとアデリーナ・ステパノワだろうか。現在ロシアの女子シングルは、エレーナ・マカロワという世界女王がいるが、ここ1、2年でロシアの女子選手が台頭してきている。ヴォロノワはジャンプのポテンシャルが高く、近くトリプルアクセルを飛ぶのでは? と噂されている。それから中国の李蘇芳。彼女は今年私と同じくシニアに上がった。
ーー現在、第2グループの四番滑走の選手が滑っているところだろう。私はロビーにヨガマットを敷いてストレッチをしていた。少しずつ、少しずつ心臓を打つ音が速くなっているのがわかる。ガチガチで何も考えられないほどじゃないけど、余裕という余裕はない。
「そんなに神経質にならないで。ジュニアでもシニアでも、試合は試合。同じなんだから」
……今回、帯同するのは父ではなく、母だ。父は他の受け持ちの選手が別の大会に出場するため、そちらに帯同している。
滅多に表情を崩さない父がいるのと、菩薩のように微笑む母がいるのではちょっと違う。そういう環境の違いが、緊張を増長させているのかもしれない。ただそれを母に伝えるのも嫌なので、別の言葉ではぐらかす。
「滑り慣れない氷だからさ。なんか気持ちが悪くって」
これも事実ではあるし。慣れない氷でうまく滑れない、なんて言い訳はしたくない。でも、氷に合う、合わないがあるのも事実だからだ。
スケートリンクの氷にも、固い、柔らかいが存在する。気温が上昇すれば、氷が柔らかくなり、スピードやジャンプの高さが出にくくなる。最終組の最終滑走で滑る場合、会場の熱気でだいぶ柔らかくなっている、なんてこともあるのだ。
「たしかにここは滑りすぎるわよね。私もここでパートナーの足を蹴ったことあるわ」
うんうんと頷きながら母が返す。……ストレッチで伸ばしていた足が止まった。予想しない答えだったから。
「母さん、ここで滑ったことあるの?」
「あるわよ」
さらっと言われた。……母が国際大会に出たという話は、少しだけ聞いたことがある。まさかこの大会にも出場経験があるとは思わなかった。
「今もだけど、昔はアイスダンスは層が薄かったから。結構簡単に国際大会に出させくれたのよ。結果は聞かないでね。ネーベルホルンも出場したことあるわ。氷の質は昔から変わらない。すっごい綺麗な氷よね」
「うん……。なんかスピード出過ぎちゃうんだけど。なんでだろ」
昨日の練習で、ここの氷の滑りやすさは十分にわかった。問題はいつものように滑ると、スピードが出過ぎてしまってジャンプのタイミングがずれてしまう事だ。昨日の練習でも、何度か危ないシーンがあった。
「ああそれはね。ここの氷は純水で作られているからよ」
「じゅんすい?」
……平仮名に開いたかのような発音で、鸚鵡返しに尋ねる。
「要するに不純物がないの。滑りを邪魔するものがないって言えばいいかな。日本の氷は、水そのものに残留塩素とかミネラルとか入っているから、ちょっと白いのよね」
「知らなかった……」
「でもこんな、天然の水で滑れる機会なんてあんまりないから。楽しんで滑ってらっしゃいな」
鏡のように透明な氷を思い出す。自分の拙い滑りで、傷を付けるみたいで怖い。滑らなければそのままだから。怖いけど……。
「さあ、もうすこし体を温めましょ」
ーー怖いからって、必要以上に恐れる意味はない。
ヨガマットから身を起こしてランニングを始める。少しだけ、心臓の鼓動が遅くなった。
ショートが終わり、一位はロシアのエカテリーナ・ヴォロノワで、二位に私が入れた。トリプルアクセルも決まり、他のジャンプも全て決められたのが良かったのだろう。母の言葉で気が楽になったのか、遮るもののない氷でよく滑ることができた。今までの自分が軽自動車なら、ここの氷で滑る私はフェラーリになれる。……まあ、どの氷でもそうならないといけないんだけど。
三位は中国の李蘇芳。一位のヴォロノワはイサーク・アルベニスの「アストゥリアス」をメリハリを利かせて滑り、李蘇芳は三回転ルッツ +三回転ループを決めた。ジュニアの頃は持っていなかったコンビネーションだったので、かなり驚いた。
滑走順も決まり着替えも済ませてバックヤードを歩いていたら。
「いたっ」
左肩に強い衝撃を感じた。思わずバランスが崩れるが、なんとか転ばずに済んだ。何が起こったのかと頭を巡らせ……。誰かがぶつかったのだと数秒経って気がついた。その誰かは、私に何も言わずに走り去ろうとしていた。私も不注意だった。だが。
「まって!」
ぶつかってきたのは、相手だ。流石に人に突進しておいて何もないのはあんまりなので、相手の手を取った。
振り向いたのは金色の影。可憐で美しい……ベラルーシの火の女。ショート四位の、エフゲーニャ・リピンツカヤだ。
その顔を見て……思わず目を丸くさせた。
「……どうしたの?」
何も考えないで自然と出てきた言葉だった。
謝ってほしい、とは思っていた。そんな考えがどこかに飛んでしまうほど、リピンツカヤは動揺しきっていた。触れて欲しくないからか、強気に目尻を釣り上げる。でも、いつもの激しさはない。手負いの獣のようだ。
今の彼女は、マスコミが名付けた「火の女」には似つかわしくない。それほどまで余裕がなく、弱々しかった。
深海の双眸からぼろぼろと大粒の涙が流れた。それでも、私を睨むのだけはやめない。唇を引きむすんで、何も語らない。だけど顔はこう言っている。あんたには関係ない。ほっといてくれ。どうせ、私が冴えない演技をしたから泣いているとでも思ってるんだろう。……そんなニュアンスだ。どこまで当たってるかわからないが、そんな風に泣いている相手を、放っておけるわけがない。
ただ、どうやってコミニュケーションを取ればいいのかわからなかった。私は英語は多少は喋れる。でも、彼女は? 言って、どれだけ伝わるのかわからない。また、私と彼女は親しくない。何があったの? と私が聞いても不審がられるだけだろうか。だが、不思議なことに、つかんだ私の手を、リピンツカヤは振り払おうとはしていないのだ。彼女もまた、何を言ったらいいのか混乱しているのかもしれない。
「ジェーニャ!」
途方にくれていたところ、その声にリピンツカヤが小さく反応する。ジェーニャ、は確か、エフゲーニャの愛称。
小走りにやってきたのは最近知り合った顔だった。ブラウンが混ざった金髪。整っているけれど笑うと目尻が優しく垂れる、愛嬌のある顔立ち。甦るのは真夏の堤先生の言葉だ。大阪のアイスショーでの練習中の出来事。ーー雅ちゃん紹介するね、こいつは俺の弟みたいなもんなんだけど。
愛嬌のあるシベリアンハスキー。
「……キリルさん」
そうだ、彼も男子シングルで出場していた。
キリル・ニキーチン。8月で27歳になったロシアのベテラン選手。
「ごめんねミヤビ。ジェーニャは周りが見えなくなっちゃうことがあってさ」
……? ん? 今私が聞いているのは、強い訛りがあるけれどしっかりとした……。
「あれ、日本語……」
夏に話した時はたしかに英語だった。堤先生が英語で紹介したから、その流れもあるけど。どんな会話も彼とは英語で話した。
「びっくりさせたね。昔マサチカに教わったんだよ。結局英語で話すことが多いんだけどね」
俺がマサチカのロシア語の先生で、マサチカが俺の日本語の先生みたいなもんさ。キリルさんが陽気に笑う横で、リピンツカヤが涙目で睨みつけてくる。
「で、何があったの?」
「それは……、まず、彼女がぶつかってきて、そうしたら」
説明しようとした私を、ハープのような玉の声が遮った。リピンツカヤがキリルさんに向かってまくし立てる。まごう事なくベラルーシの公用語でもある、ロシア語。キリルさんは頷きながらリピンツカヤの話を聞いている。
「ミヤビ、更衣室か廊下かリンクサイドか。どこでもいいんだけど、ネックレス見なかったかい? 銀のチェーンに指輪が掛かってるやつ」
ややあって私を向いたキリルさんの言葉は……予想とはだいぶかけ離れていた。
「見てない……と思いますが。それがどうしたんですか?」
「彼女の大事なものでね。見つからないと大変だ。明日槍が降るかもしれない」
「……ちょっと待っててください。一通り見てきます」
それが原因か。
槍が降る、という言葉を真に受けたわけではないけれど。リピンツカヤをキリルさんに宥めてもらって、私が見に言った方がいいだろう。それに女子トイレとか女子更衣室とか、男性では入れないところだってある。
俯くリピンツカヤの肩をキリルさんが抱いて、廊下のベンチに座らせる。そんな二人に背を向けて、私は駆け出した。
リンクサイド、廊下の床に目を光らせて女子トイレに。あまり目立つものでもないから、よく見て探さないと。トイレでは空いている個室を一つづつ確認し、流しの下を見つめる。洗面台の付近ならあるかも、化粧ポーチを開いたり、身だしなみをチェックしたりするから。それでも廊下やトイレでは見当たらない。頼みの綱は更衣室だ。
女子のロッカー、リピンツカヤはどこを使っていたっけ? 私の右隣はスペインの選手で、左隣は李蘇芳だった。頭を巡らせて、違う列だったと思い出す。あまり広くもない更衣室は、今はペアの選手が着替えを済ませているところだ。リピンツカヤの使っていたロッカーの列を、順々に開けていく。使っているロッカーは選手が使い終わるのを待って。ロッカーをばしばし開けていく私は、結構な不審者に見えたかもしれない。全てを躊躇いなく開けるが、それらしい華奢なものは発見できなかった。更衣室になければ、どこにあるのだろう。
お手上げだろうか。私にはこれ以上探してあげる義理もない。ないのだが。
……動揺しきった彼女の顔を思い出す。誰が言ったのだろう。「ベラルーシのエフゲーニャ・リピンツカヤは火の女だ」なんて。彼女の気の強さや、歯も着せぬ発言の数々は有名だし、私も知っている。実害だって受けた。
でも、どんなに気が強くても彼女は生身の人間だ。落ち込んだり、大事なものをなくして涙を流すことだってある。完璧に強いわけじゃない。
まだだ。彼女とキリルさんに「見つかりませんでした」と報告するのは早い。再び、客席や廊下を歩きながら考えてみる。
更衣室、ロッカー、女子トイレ。リンクサイド。客席。……客席、は行ってないだろう。彼女の行動を追っていく。入り口から入る。ロビーを抜けて、更衣室に入る。ロッカーを開けて荷物を入れる。衣装に着替える。化粧をするために……。
……ん?
そうだ。更衣室にも鏡台はある。トイレの洗面台じゃなくて、更衣室の鏡を使う選手の方が多い。あの辺りはざっと見ただけだから見落としていた。リピンツカヤは、私の後ろの鏡台を使っていた。そのあたりなら……。
ーー私にとってはそこまで長くない時間は、リピンツカヤにとって1時間にも2時間にも感じられたかもしれない。
「キリルさん、これですか」
見つけたのはシルバーの指輪にチェーンを通したネックレスだ。はめられてるのは、石じゃなくてパール。リングの部分は上品な透かし彫りが施されている。大事に、大切にされたものだとわかる。
二人が一斉に目を丸くさせた。
「これこれ! これだよ! ミヤビ、どこにあったの?!」
「更衣室の、鏡台の椅子の下です」
鏡台そのものではなく、椅子の真下に落ちていた。ネックレスチェーンは金具が緩んで取れやすくなっていた。化粧をしている時に外れてしまったのだろう。演技中に取れなかったのは不幸中の幸いと言えばいいのだろうか。ネックレスとして使うなら、チェーンを変えるか金具を取り替えるか、どちらかをした方がいいだろう。
その旨を、キリルさんに伝えてもらう。私が英語で話すのもいいのだが、細かいところが伝わらないかもしれない。キリルさんの言葉がロシア語になる。発音に癖の強い日本語と比べて、詩を朗読するような落ち着きがある。
一通りキリルさんから話を聞いたリピンツカヤが……再び私をめちゃくちゃ睨みつけてくる。唇を引きむすんで、顔を真っ赤にさせている。立ち上がって、くるりと背を向けて。
「……スパシーバ」
めちゃくちゃ小さい声だったけど、はっきり聞こえた。そのまま早足で場を離れていった。その様子に、キリルさんが苦く笑う。
「意地っ張りだなあジェーニャは。君に借りを作ってしまったとか、弱味を見せてしまったとか思っているんだろうね。ぶつかったこともちゃんと謝ってないよね。許してやって」
許すも何も、最後ちゃんとありがとうと言ってくれたし。誰だって大事なものをなくしたら動揺してしまうものだ。別に悪いとも思わないし、悪い気も起きない。それにしても……。
「随分親しいんですね」
感想はこれに尽きる。本当に、兄妹を見ているかのようだ。苦笑の中にも、彼女に対する確かな愛情が混じっていた。
「うん。ジェーニャと俺、今同じコーチに教わっているんだよね。一年前、彼女のお母さんが亡くなった時にモスクワに来てね。あの指輪はお母さんの形見で、お守りがわりなんだよ。ショートの前からちょっと様子がおかしかったから、心配していたんだ。だから、本当にみつかってよかった」
「そうだったんですか……」
リピンツカヤがいなくなったところで、キリルさんは、小声で、さらに日本語で簡単に事情を話しーー人差し指を唇に当てる。話さないで、というサインだ。大丈夫です、誰にも話しませんと小さく頷いた。察するに、あのネックレスはショートの演技前に無くし、同時に前に無くした事実に気がついたのだろう。
彼なりの気遣いを感じた。私とリピンツカヤ、両方に対してだ。
リピンツカヤにとって母親が亡くなったことは、知られて欲しくないニュースだろう。私は今知ったし、フィギュアスケートの世界は狭い。一度知られたらあっという間に広まってしまうけれど、その手の記事や噂の類は耳にしたことがなかった。彼女のコーチやキリルさんが、口を貝にして守っていたに違いない。こういったニュースは下手すればマスコミに利用される可能性が高い。その時に傷つくのは、リピンツカヤ本人だ。
そんな事情を私にわざわざ話したのは、私がリピンツカヤの「無くした大事なもの」を、探して見つけたからだ。何も知らないのは申し訳ないと思ったからだろう。それも、英語ではなく日本語なのは、万か一誰かに聞かれても、知れ渡る可能性を限りなく低くするためだ。ここでの公用語は英語。私が知らないふりをすればいいだけだから。
「じゃあミヤビ、本当にありがとう。フリーも頑張って。俺も頑張んなきゃなんだけどね」
爽やかに手を振って、キリルさんはリピンツカヤの後を追った。
✳︎
「お守り」の力が功を奏したのかはわからないが。
翌日のフリーは、エフゲーニャ・リピンツカヤが昨日のショートの不振を取り払うかのようにいい演技をして、SP四位からの逆転優勝を果たした。ショート二位だった私は……。
「悪くもないけど、よくもなかったわね」
首からかかったままの銅メダルを触りながら、母の言葉を聞く。ショート一位のエカテリーナ・ヴォロノワは、総合順位をリピンツカヤに許したものの、私に抜かされることなく、銀メダルに輝いた。
ジャンプの調子だけでいえば、三回転フリップがエラーになり、コンビネーションジャンプのセカンドが少し詰まった。……トリプルアクセルは最初に決められた分、勿体無かった。
「それとねぇ、終盤のコレオの時、へばりすぎてて動きに覇気がなかったわ。もっとスタミナつけなきゃね。何あのスパイラル。全然ダメよ。ポジションだけじゃなくて、もうすこしエッジを切り替えるのスムーズにやんなきゃね」
「……ごもっとも」
体力には自信があったし、今まで通し練習で4分のプログラムを滑っても、特別疲れを感じたことがない。まぁ、大会か練習かで緊張感は違うし、奪われる体力だって違うものだろう。だけど、ここまでへばるとは思わなかったから結構ショックだ。
「でも課題が見つかってよかったわ。さ、今日はもう休んで、明日のエキシビションに備ましょ。ホテル帰る?」
「いや、男子のフリー見ていこうかなと思って。母さんは?」
「じゃあ、一緒に見ようかな。小林くんの演技も見たいしね」
男子シングルは、小林晶さんという関西出身のスケーターが出場していた。高校三年生の彼は、去年てっちゃんと一緒にシニアに昇格し、パリ開催の世界選手権にも出場した。私とも多少は親交があるし、キリルさんの演技も見たい。
男子フリーまですこし時間があるので、着替えを済ませてしまいたいので、一旦母と別れる。
「星崎さん」
声をかけられたのは、着替えのためにロッカーに向かった途中だった。
「市川監督。それに、大澤さん」
姿を確認して会釈をする。
呼び止めたのは二人組の日本人。一人は50代前半の女性で、もう一人は40代後半の男性だ。女性の方は金縁のメガネをかけたパンツスーツ姿。キャリアウーマンという単語がよく似合う。男性の方はすこし小柄で、ヒールを履いた女性と身長が同じぐらい。品格があり、紳士という単語がよく似合う。
女性の名前は市川美佳。日本スケート連盟の、フィギュアスケート強化部長。
となりの男性は大澤隆。国際ジャッジで、主に男女シングルを担当している。国際ジャッジの中でも、技術審判として席に座る。……この技術審判が、ジャンプの回転不足やエッジエラー、スピンステップのレベルを判定するのだ。
「銅メダルおめでとう。シニアの初戦でメダル取るのは幸先がいいね。ま、あと一個上の表彰台も狙えた気がするけど。それはこれからかな。コレオがちょっと甘かったね」
あと一個上の表彰台、というのは市川監督の本心だろう。
「はい。母にも指摘されましたし、体力もつけて頑張っていきたいです」
「そっかそっか。緊張した?」
「……はい」
「でも、今後も慣れていかなきゃね」
お疲れ様。これから男子だからと言って、市川監督は豊かにヒールを鳴らしながら立ち去っていった。チャレンジャーシリーズは国際大会の中でもランクが下だ。市川監督がわざわざきた目的は、日本選手の調子を見ると言うより、海外勢の調子や仕上がり具合の視察だろう。
残ったのは、大澤さんだった。国際ジャッジの意見は貴重だから聞いておくといいーー市川監督がよく選手に言う言葉だ。
「相変わらず大きいジャンプ飛ぶね。ぶっとんだよ。ジャンプなら男子でも通用するよ。滑りもすごく良くなったね」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる。ジャンプが男子並み、と言われて悪い気はしない。ジャッジに認められた証拠だ。
「でもね、星崎さん」
優しい顔だった。この人はどんな大会でも顔を崩さない。例えば、菅原出雲が世界最高得点を取って優勝した時も、紳士の顔で微笑んでいた。
「私は演技審判じゃないから、私が言うのは違うかもしれない。だから、敢えて言わせてもらうね。あなたの能力も、フリーのプログラムも申し分ない。あなたの滑りは成長しているし、ノーマンの振付も実にいい。だけど、今のあなたより、このプログラムを魅力的に滑る選手は沢山いる」
チェコの選手が通り過ぎる。この廊下にいる日本人は、私と大澤さんだけだ。その場にいる私以外誰にもわからない言葉は、優しい音で紡がれた。
「あなたはまだ、このプログラムを滑る器ではないんじゃないかな。その器の磨き方を、あなた自身がまだ身につけていないように見えるよ」
大人の手が、肩に置かれる。彼は父と同世代で、父と同じ五輪に出場したこともあった。かつての名選手は、名ジャッジとなりつつあった。
「もっとしたたかな女性にならないと。シャリアール王に殺されてしまうよ」
……だから彼の目は本物なのだ。
「またね、お嬢さん」
大澤さんはゆっくりと背中を向けた。しばらく、静かに歩くその背中を見たまま、私は動けないでいた。
手の爪が手のひらに食い込む。……息ってどうやって吸うんだっけ。
「雅ー。まだ着替えていないの? 早くしないと男子はじまるわよ。雅、雅? ……どうしたのよ。ずっと突っ立って」
「……ちょっと人と話しただけ。ごめんね。今着替えてくる」
いつの間にか母が隣にやってきていた。今の顔を見られたくなかったので、私はさっと更衣室に向かう。声が震えていたのが、母に伝わっていなければいい。
大澤さんの意見は真っ当だ。悔しくなんかない。ショックなんか受けていない。
それでもその言葉で泣きそうになってしまう程度に、私はまだ子供で。
同時に湧き上がるのは、自分でも驚くほどの反発心だった。
確かに私にはまだ早いかもしれない。
でも背伸びだってしないと本当に成長は止まるんだ。
✳︎キリル・ニキーチンについては、番外編「お祝いはスパークリングワインで」という短編で言及されています。よろしければこちらもどうぞ。https://book1.adouzi.eu.org/n0683fp/




