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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン1  2015年世界ジュニアフィギュアスケート選手権

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21/66

ボーナストラック. 忘れずにいるために【前編】


 2016年4月――


 暦は春。しかし4月は、北海道はまだ華やかな色合いの季節ではない。

 釧路の桜は、4月では咲かない。北海道に桜前線がやってくるのは5月の頭ぐらいだ。寒さのピークは過ぎているけれど、油断できない気温が続く。


 2016年世界選手権6位入賞。その実績を持って、シャルル・ド・ゴール空港からまず成田国際空港へ。そのまま横浜に戻り、一日休み荷物を改めて今度は羽田に。向かうのはたんちょう釧路空港。


『俺も行きたいんだけどアイスショーの準備とかほかの生徒も見なきゃねー。久しぶりに家族団らんで寛いできなよ』


 堤先生はそう言って最近教え始めた子と向き合った。先生が教えているのは俺だけではない。


 スーツケースを引きずりながら一人で空港を出ると、空港のシンボルであるタンチョウ鶴が迎える。……ともう一人。

 愛車のプラッツの鍵を回しながら、俺こと鮎川哲也を迎えに来たのは――


「やー哲也、おかえり」


 ――4歳年上の身内。俺と、プラッツの鍵を回す人物は、顔がよく似ているらしい。目の前の身内も、ショートカットの黒髪だから余計に。背もそれほど変わらないから、並ぶと血の濃さがよくわかる。


「ただいま、姉さん」


 姉の、鮎川美咲。


 姉は俺の顔を確認すると、にまっといらずら小僧のように笑った。


 *


「大学は今はいいのか?」

「うん、まだ授業は始まらないし、あんたの顔も拝んどきたいしね。今日のご飯、母さんがあんたの好きなもの作りたいらしいから、家に行く前にスーパー寄るけど」


 一年に一度は実家に帰る事。それが、横浜で練習することになった時に先生と約束したことだ。横浜で練習を始めて5年以上経った今も破ったことはない。

練習で親元を離れるのは仕方がない。でも、練習で家族関係が疎遠になるのは俺の本意ではない。家族が大切だと思うなら、年に最低でも一回は釧路に帰って、自分がやっていることを堂々と報告しなさい。……こういう時、先生は指導者ではなくて「もう一人の保護者」の顔になる。

 普段は学校とリンクを往復で、シーズンが始まれば大会に回る。機会があるとすれば8月か年末年始か、年度末。しかし夏は合宿があるし、たまにショーに招待して頂いていたりと地味に忙しい。年末は……12月末は全日本がある。

 だから帰るのは4月。――今回は、3月下旬の世界選手権が終わった後。春休みを利用しての実家帰りだ。


 プラッツのハンドルを回す姉の姿は、去年の春より大分板についてきていた。去年は免許を取ったばかりで、若葉マークが取れていなかった。

 空港から家までは30分ぐらいかかる。見慣れた釧路の道を助手席でなんとなく眺める。ところどころ雪が残っている。この寒さも変わらないな、と思う。


「こないだの世界選手権見たよー。頑張ったね哲也。四回転サルコウ覚えるのえらい大変だったでしょ」


 真正面から労われると、なぜかたじろいでしまう。そして姉がジャンプの種類を覚えているのが驚きだ。

「ああ、ありがとう」

「しかし今回の、男子シングルはすごかったねー。菅原出雲が優勝したのはよかったけど、ほら、あのロシアの子!」

「ヴォルコフ?」

 そうそれ、と言いながらハンドルを切る。

 菅原出雲は日本のエースだ。14年ソチ五輪の金メダリスト。そしてロシアのアンドレイ・ヴォルコフは、最年少初出場にして、銀メダルに輝いた。しかも優勝した菅原出雲とは点数がそれほど離れていなかったのだ。


「あんたも十分凄いスケーターだけど、あの子や菅原君を見るとあんたもまだまだだって思うわ」

「……伸びしろがあると受け取っておく」


 姉は運転をしながらこの間の世界フィギュアの話をした。菅原君は目力が凄い、とか、中国の子がいいとか。話はくるくると変わり、男子シングルから女子シングルに。女子は今ロシアが強いね。エレーナ・マカロワの『アンナ・カレーニナ』滅茶苦茶凄かった。エカテリーナ・ヴォロノワのジャンプなんて、トリプルアクセルとか飛べそうなほどダイナミックね。日本は里村さんがノーミスの演技だったね、来季はメダルがもらえるかも……等々。自分が競技をやっているからか、生で選手の感想を聞くのは少しむずかゆかった。


 風景が流れていく。ガソリンスタンド。ザンギ専門店。通った小学校。母さんがパートで働いていた信金。ところどころにタンチョウという名の神がいる。


「女子で思い出した! ねぇ、あの子は元気?」

 ひとしきり話した後、姉は別の次元から別の話を持ってきた。

「あの子って」

「あんたの彼女よ」

 彼女? ……彼女って……まさか。女子シングルの話をしていたら彼女の存在を思い出したのだろうか。

「雅は彼女じゃないよ」

「私がこういった時点で誰かわかるって時点で、あんたは他の子よりあの子を特別視してるでしょ」

「……そういう姉さんこそどうなんだよ」

 自分の顔を褒めているみたいだが、姉はそこそこ綺麗な顔立ちをしている。浮いた話の一つや二つあっても不思議ではなない。

「こないだ大学で同級生にデートに誘われたと思ったら、『弟さんのサインを欲しがってるやつがいる。お願いだから書いてもらってきてくれないか』って頼まれて。何か腹が立ったから、あんたのウソのサイン用意して目の前で折ってやったわ。しかも頼んでるやつって、そいつの彼女だったし」

「……それは。……ごめん」

「いいのよ、別に。面白いし、笑い話にもなるしね」

 あっけらかんと笑う。変わらずに、竹のようにスッパリとした性格だ。


 俺がまずスピードスケートを始めたのは、姉が習っていたからという理由もあった。その後俺はフィギュアに転向したが、姉はその後もずっとスピードを続けていた。小学校まではスケート少年団。中学からは部活動のスケート部で。高校2年の時はスケート部の主将を務めていた。


『ここまでやり切ったから。私のスケートはここまで』


 姉はそう言って、高校2年のインターハイを最後に、スピードスケートをやめた。聞けば、実業団からの誘いがあったらしい。それを蹴って大学進学するといったのだ。

 スピードにせよフィギュアにせよ、スケートはお金のかかる競技だ。家族の負担も大きい。よく両親は、俺の横浜行きを許してくれたと思う。姉がスピードをやめたのは俺が横浜に行った後だから、弟で金がかかるから気を遣ってやめたのだろうか。


『いやほんとに、あんたのこと関係なくやり切ったと思ったのよ。私はスケートが人生じゃないし』


 帰郷した際訊ねたら、姉は理数系の参考書に埋もれながら無理のない声で答えた。大学進学のための受験勉強を本格的に始めた頃だった。


『スポーツは好きだし、アスリートは尊敬している。だから私は、私なりにアスリートを応援できる道に進みたい』


 姉もスピードをやっている時は栄養管理には気を遣っていた。自分でもこうだったのだから、アスリートはもっと大変だろう。だから、栄養管理をしつつ美味しいものを作れるようになりたい。ゆくゆくは管理栄養士になって、料理監修が出来るようになりたい、とも続けていた。


『自分の店を持つ! とかでもいいわね。だから管理栄養士だけじゃなくて、調理師も取るつもり。並行して勉強できるしね』


 今姉が通っているのは、管理栄養士を育てる札幌の大学だ。釧路と札幌は移動に半日かかるのだが、月に一回は家に帰っているようだ。

 思えば姉が大学に進学してからの方が、俺は姉とのメールのやりとりは増えた気がする。けして疎遠ではなく、お互いに忙しいからあまり連絡を取っていなかったのだ。どんなふうに栄養管理をしているのか、何を我慢して何を食べたいのか。生のアスリートの声が聞きたいらしい。


 そんな姉の運転する車は家の方面に向かっている。そろそろ目的のスーパーに近い。


「姉さん」


 よどみなくハンドルを操る姉が、何? と目で聞いてくる。


「姉さんがスーパーに寄っている間に、俺はちょっと行きたいところがあるんだ。そこでおろして貰えるかな」

「何、いいの。一緒にいた方が好きなもの買えるよ」

「それは姉さんに任せる。実は釧路帰ったら、毎回寄っているところがあるんだ。母さんがよく知ってるよ」


 本当は釧路に滞在中、何時でも行ける場所だ。でも、なるべくなら帰った日にそこに行きたかった。


 忘れずにいるために。


 姉は了承して車を右に回らせた。買い物が終わったら迎えに来てもらう。

 暫く道なりに進むと、釧路にいる時、俺がほぼ毎日使っていたなじみ深いバス停を通り過ぎた。

目的の場所が近づいてくる。今日の釧路の空は雲一つない快晴だった。


 澄み切った空を神鳥が遮っていった。



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