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60×30  作者: クロサキ伊音
シーズン1  2015年世界ジュニアフィギュアスケート選手権

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15/66

14.彼の思い出 ――2012年10月26日


 父親は世界選手権入賞経験ありのスケーター、母親は美貌の国内アイスダンスチャンピオン。

元一流フィギュアスケーターの両親を持つサラブレット。星崎雅のその肩書に注目したのは、スケートと全く関係のないマスコミだった。


 俺自身は、マスコミに特別嫌悪感を持っているわけではない。インタビューの為に時間を割くことに興味を持っていないのだ。だけど、俺が競技会に出ることでアスリートとして成り立っているように、マスコミもまた、その言葉を引き出すことが仕事なのだ。二三言、あたりさわりなく発言して引き下がってくれればそれでいい。


 だが、もしその相手がスケート界で有名な人物の娘ならば。

 話題性を求めるマスコミにとって雅は格好の獲物だったわけだ。


 ……大会に出るにつれ、雅はただのびのびと滑るだけではいられなくなってきていた。


「今回の成績を、お父さんにどういいますか?」

「お父さんからはなんて言われていましたか?」

「これからの大会、どんな成績を残したいですか?」

「将来的にはどんなスケーターになりたいですか?」


 ……こんなことを雅に結構聞いてくる。

 星崎コーチはこういったことも予測していたのだろうか。完全に俺の推測でしかないが、娘にスケートをやらせたがらなかった理由は、彼女に結果を求め、過度な期待を抱く大人が増えることにもあったような気がするのだ。――いずれ父と同じようにオリンピックに。そして父よりもいい結果を。そんな都合のいい期待だ。盛り上げるドラマにもなるし、そういうドラマを都合よく消費したいのも、世間様だ。


 大会を重ねるにつれてそういった質問は増していく。最初は普通に答えて――それこそサラブレッドって私は馬かと笑っていた――のだが、だんだんと無表情に、淡々と答えていくようになった。


 ただ、もしここで爆発でもしてしまったら、それでこそメディアの格好の餌だ。


 ノービスの選手に対してもちょっとしたことで大きいニュースになる。才能のある名古屋の選手。母子家庭で育った神戸の選手。そして、有名選手の娘。最近は人気も出てきたスポーツなのだろう。「ノービスの試合に来る記者なんて俺の時代はコレッポッチーもいなかったよ」と堤先生が言っていた時代とはかなり違う。


 だが、雅に対しては少し異常なように見えた。


 スケーターの両親を持った人間としてのしかるべき競技結果。選手としての品格。父親以上の才能。

 ……小学生に求めるのは重すぎるのではなかろうか。


 *


 小さい頃から氷上で遊んでいたからか、雅は氷を掴む感覚に優れていたし、転倒やスピードに対する恐怖心も持ち合わせていないようだった。端から端までかっとばし、同じ速さでジャンプに入り込む。


 ジャンプに関する彼女の才能は、両親から受け継いだものではないだろう。本町涼子はアイスダンサーだし、現役時代の星崎総一郎は6種類のジャンプをそつなくこなしてはいたが、高さも飛距離も並み程度だった。両親の経験の有無は関係なく、たまたま持ち得てしまったものだ。


 どうしてそこまで綺麗なアクセルになるんだ? と聞きたくなったことがある……丁度二年前、俺がトリプルアクセルの習得に苦労していた時だ。彼女はその時小学六年生。その時にはすべての種類の3回転が飛べるようになっていた。


 同じ問いを、杏奈が夏の合宿中にしているのを聞いた。どうしたらそうやって、大きいアクセルが飛べるの? と。

 雅はぼんやりとこう答えた。


「いちにのさん、はいって跳ぶの」


 ……何の参考にもならない。そんなので本当に飛べたら苦労しない。こいつは感覚だけで飛べてしまうのだ。この言葉は忘れて、ただ前向きに飛んでいる雅の姿をじっと見て分析することに決めた。分析は得意だ。先生と出会う前の昔を思い出す。


 あの大きいジャンプに可能性を抱いていたのは俺だけではない。俺よりも、そして父である星崎コーチよりも、堤先生が先に見抜いていた。


「雅ちゃんのジャンプってさあ、俺のジャンプに似てるよね。他は全く似てないのに。ていうか男子みたいだよね。アクセルなんて余裕でもう一回転ぐらいできちゃうんじゃないの? ダブルじゃもったいないよ」


 これは雅のジャンプをリンクの外から眺めていた堤先生の感想だ。


 現役時代の堤先生は、全ての技術をバランスよく備えたオールラウンダーだった。特にジャンプの高さに定評があり、トリプルアクセルの滞空時間は1秒あるのではないかと噂されていた。一般的な滞空時間は0.5秒から0.6秒。だから1秒は、相当に長い。


 それに女子小学生のジャンプが似ているのだというのだから恐ろしい。


 ……あれはそんな堤先生の話のすぐ後の、十月の後半の事だった。


 *


 十月の後半に全日本ノービスAの大会がある。ノービスAはジュニアに上がる前の小学5年生から中学一年生までの限定されたカテゴリで、優勝は安川杏奈で雅は2位だった。俺から見ても、ジャンプの難易度は同じでも、杏奈の方が滑りが大きく丁寧だったからまあ妥当な結果だと感じた。


 その週明けの平日の練習日。


 雅は明らかに手抜きで練習していた。普通に装っているつもりだろうが、動き全体に覇気がない。遠目で見ていた俺ですらわかるのだから、それを見逃す星崎先生ではない。叱っては指導して氷に送り出し、それを何度か繰り返した後――


「やる気がないなら帰れ!」


 ――今までその人物から聞いたことのない、激しい怒号が響いた。誰もが一瞬動きを止める。いやな静けさがその場に降りる。

 その時、俺の位置からでは彼女の顔は見えなかった。一瞬の静寂の後、雅は星崎先生に背を向けてリンクから出た。


「おー、出た出た。懐かしい」


 その怒声と状況に平然としていたのはただ一人。堤先生だけだ。


「でも雅ちゃん俺よりかなりマシだよ。俺、先生にパイプ椅子投げられたりしたもん。帰れどころか、もう顔も見せるなっても言われたよ。先生の家に下宿してるってのにね」


 アハハと軽い感じで笑う。

 氷の上を出た雅が、堤先生の横を通り過ぎる。


「よくあることよくあること。気にしてちゃダメだって。多分これからこんなこと増えるから。さ、テツ。さっきのルッツ、エッジが微妙だったからもう一回飛んでみて。もっとこー、ぐっと踏み込んでパリッと切り返せないかなー」


 経験者は雑なフォローをいれて、自分が今請け負った生徒に向き合う。……そんなニュアンスで言われてもさっぱりわからない。ループはしゅっとやれば飛べるんだけどなー。

 先生の能天気な声から、周りもいつも通りの練習に戻る。こういうところで現実に戻すのがうまい人だ。

 ……練習しながらも、本当に帰ってしまった雅の姿が頭の隅に残っていた。



 その日の夜。

「テツ、お客さんだよ」


 自室で明日の英語の予習をしていたとき、先生がひょっこりと顔を出してきた。釧路から出て来て以来、俺は横浜にある先生の家に居候させて貰っている。アイスパレス横浜まで歩いて10分の3DKのマンションだ。余っている一室を借りている状態なので、果たしてそれを自室と呼んでいいのかは少し怪しい。

 客の姿を見て、俺は思わず顔をひきつらせた。時間は夜の10時を回っている。

 雅だった。おそらく親――星崎先生には黙ってきたのだろう。小学生の女の子がふらふらしている時間じゃない。

 だが、昼間のこともあり、何しに来たんだよ、と言えなかった。


「君も全く隅に置けないなぁ。じゃ、邪魔者は消えるね」


 扉を閉める音が強く響く。……このおっさんめ、と心の中でだけつぶやく。


「ごめん。ちょっと家にいたくなかったから。でも誰かの近くにはいたくて。そうしたらてっちゃんの顔しか思い浮かばなかった。……堤先生は優しいね」


 部屋に入ってきた雅の顔は変に表情がなかった。床にぺったりと座り込んで膝を抱える。


「何かね」


 俺は椅子の背もたれに両肘をかけて、ほとんど終わっている英語の予習をそのままに逆向きに座った。


「競技をやるって決めたのは自分だし、そのことに関しては全然後悔してない。スケートも競技会も楽しいし、ほかの人の演技を見られるのも嬉しい。だけど何か最近、スケートに関するいろんなことが、ちょっとずつ辛い。それが積もってきつい」


 語りだした雅の声は、ぱきぱきに乾いていた。


 例えばよく両親のことを持ち出されること。記者から質問されるとき、周りの子よりも自分の方が長く時間をとられていること。大体の取材者は、スケーターとしての将来の夢は何ですか? 誰を目標にしていますか? 等聞かれること。……こないだのノービスの大会でもいろいろ聞かれたらしい。

 指導者がいいのはともかく、実力の割に注目され過ぎだ、安川杏奈に勝てたこともなかったじゃないか、と、別の選手のコーチが話しているのを聞いてしまったこともあったらしい。

 演技について、だれかれ問わず割と辛口に言われたりすること。指導者が父親でありトップランカーであることも関係しているのだろう。


 雅は時間をかけて、一つ一つ話していった。


 聞く人によっては贅沢な辛さと思うかもしれない。父親について聞かれるのは、コーチが世間的によく知られている証であり、スケートを続けられる環境が整っている証。マスコミからいろいろ聞かれるのは、それだけ世間から将来的に期待されている証。一流コーチの指導とリンク環境。そして才能。すべてを揃えるのは難しい。雅はその難しいものを“たまたま”持ってしまっている。心情がどうであれ、期待を抱く人間、妬む人間が出てきても無理はない。


「スケートが嫌いになりそう?」


 少しだけ、と答える。


「こんなことで嫌いになるのは嫌。でも、昔は……競技を始める前はもっと自由だったのにって思う。……私って何なんだろう。もっと自由に滑っちゃいけないのかな」


 息を吐き出す。

 暫く雅の様子を見守り――俺は椅子から立ち上がって、膝を抱えた雅の手を取った。


「雅、行こう」


 顔を上げた雅は、来た時と同じように変に表情がない。

 昔もこんなことがあった。一緒に滑りたいと氷で訴えていた雅の手を引いて、俺はそのまま走り出した。あんな大胆なことをよく出来たとも思うのだが……あの時、氷の上で訴える、何もできない小さな女の子が放っておけなかったのだ。

 ……今だって放っておけるわけじゃない。

 時計を見ると11時になりそうだった。先生の気配がない。……今日の夜は、個人練習や貸し切りの予定は入っていない。

 戸惑いながら尋ねる彼女に、リンク、とだけ答えた。



 堤先生と知り合い、師弟関係を結んでから5年以上経っていた。だからそれなりにも堤昌親という人間の性質を知っていると俺は自負している。

 先生はコーチで且つプロスケーターでもあるから、現役選手ほどでなくても練習は必要だ。あの先生は一人でこっそり滑るのが好きで、人に自分の本気の練習を見せたがらない。だから何かと理由をつけて、予定がなかったり営業時間が終わったリンクに行って、夜中に一人で滑っているのだ。

 この時もそうだった。


「……君も悪いこと覚えたね」

「最初に教えてくれたのは先生ですし」

 俺も本当にたまに、夜中先生に引っ付いて練習に来ていたりする。

「それは俺がいつも一緒だからでしょ。さすがにこの時間に子どもだけで歩くのはちょっとねえー」

「そこは謝ります。……雅が一人で出歩くのはいいんですか」

「一応さっき来たとき、女の子がこんな時間にふらふらしちゃだめだよって言ったよ。昼間のことがあったからあんま強く言わなかったけどね」


 この人にしては珍しい、苦い顔。先生は俺のコーチであるとともに、保護者だ。遠すぎてめったに横浜に来れない両親の代わりに学校の主要行事――保護者面談とか授業参観とか――に来てくれたりする。

 指導者としてはいいけれど、保護者代わりとしては複雑、といった顔だ。万か一俺に何かがあったら、という不安もあるだろう。様々なことをトータルして、その上で頼み込んでいる。

 結局、折れてくれたのは先生だった。トイレから出てきた雅の顔を見て、やれやれと嘆息する。


「いいよ。俺は外でコーヒーでも飲んで待ってる。少しは滑れたしね。製氷もあるし、なにより星崎先生にも連絡しなきゃならんから、終わったら電話くれ。なるべく遅くならないようにね」


 飄々と去っていく先生に深々と頭を下げる。夜の時間帯、このあたりでコーヒーが飲めるところなんて、コンビニのイートインスペースしかない。それかうすら寒いロビーで立ちっぱなしで缶コーヒーでもすすっているか。


 ……先生に感謝しつつ、俺は靴を履き替えた。


 氷に降り立って、ぐるぐると準備運動を始める。着ているものは普段着だが、ユニクロのストレッチジーンズでも割と滑れることを俺は知っている。あちこちに先生が滑ったえげつないトレースが残っていた。

 遅れて雅がやってくる。俺と違って自分の靴がない雅は、貸靴スペースからひとつ勝手に拝借してきたのだ。


「雅」


 彼女の格好も普段着だ。上はオレンジの長袖シャツ。下は黒いタイツに、冬用のチェック柄のショートパンツを合わせている。練習着や衣装と比べては動きづらいが、滑れないことはない。

 改めて俺は彼女に向き合った。


「今なら誰もいない。連盟の人も。マスコミも。星崎先生も。雅が滑りたいように、自由に滑れるよ」


 照明は最小限。スポットライトしか当たらないアイスショーやエキシビションに慣れていれば、これぐらいでも十分滑れる。

 ぼんやりとした暗さの中で、氷の白さとその上に立つ少女だけが浮かび上がっていた。


「今、ここで何をするのも自由だ。ジャンプしてもいい。かっとばしてもいい。スピンで回ってもいい。――もちろん、滑らないで帰るのだっていい」


 俺はそれだけ言って滑り出した。右足のインサイドエッジ。左のインサイドエッジ。エッジを切り替えながら前向きでまず滑る。コーナーのところにまで行って、フリーのステップシークエンスを始める。

 その横を雅が通り過ぎていく。


 殆どスピードスケートのような速さだった。前向きに滑ったまま体を切り替えて、力任せにジャンプする。飛んだのは三回転――サルコウ。それにセカンドに三回転トウループもついでにくっつける。再び回って、今度は三回転ルッツ。中央に行ってコンビネーションスピンを実施すれば、面白いぐらい形を変えた。


 ひたすら飛んで、回って滑ってまた飛んで。

 俺は動くのをやめて雅のその様子を眺めていた。


 やけくそ、という単語が頭に浮かぶ。いっちゃ何だが雑なスケートだった。リンクの表面を見れば酷いぐらい氷の破片が飛び散っているし。スピンを回るたびにガリガリと大きい音を立てる。ステップに至ってはジャッジが評価したらレベル1しか取れない。

 ――昼間の動きよりもだいぶ生き生きしていた。やる気なさそうに回るスピンじゃなくて、竜巻でも起こせそうなほどの勢いでドーナツポジションで回る。男子のジャンプじゃないのかと思うぐらいの大きさでトリプルを飛ぶ。堤先生が「俺のジャンプに似ている」といった理由がよくわかった。水を得た魚みたいだ。


 ……十五分ぐらいノンストップで滑っていただろうか。滑り疲れた雅が氷の上で大の字になった。シニアの選手がフリープログラムを4分半滑ると、1500メートルを全力ダッシュしたぐらいの疲労だ、と聞いたことがある。小学生の雅が感じている疲労はそれをはるかに上回るだろう。

ぐったりとした雅の額には、玉の汗がびっしりと浮かんでいた。


「すっきりした?」

「大分……」

「自由に滑れた?」


 苦い笑いを雅は返す。


「昔は幸せだった。でももう、昔の私には戻れないんだよね」


 ……競技を始める前は確かに幸せで、誰も何も気にせずに自由だっただろう。だけど、自由というのは意外に身動きが取れない。大きいジャンプも、三半規管が悲鳴を上げるほど早く回るドーナツスピンも、すべて「競技をやる」と決めた後からできるようになったものだ。


 あの頃とは何もかも違う。


「てっちゃんはたまに意地が悪い。私にこんな事自覚させるなんて」


 氷の屑を払いながら、雅が立ち上がる。


「ねえてっちゃん。私はまだ、何を目指せばいいのかわからない。スケートは楽しくて、競技会は楽しくて。でも、誰かより勝っていたいとか、表彰台に立ちたいとか、五輪に行きたいとか。今はあんまりそういうこと思わない。杏奈にだっていつか追い付ければ、と思うだけだもん」


 スケーターの娘として生まれた雅がスケートを始めた理由は俺だった。そこには他者に対する対抗意識や、何が何でも這い上がりたいという強靭な精神はない。周りと自分の意識があまりにも違い過ぎて、身動きが取れなかったのかもしれない。

 だけど。


「今はまだそれでいいんじゃないのか?」


 言って、俺は滑り始めた。力を抜いて、一本のトレースがきれいに映るように。その足でスリーターン、ブラケット。


「続けていけば自分の思い描く理想や目標ってものが出てくるだろ。多分。それまでは今のままでやっていけばいいんじゃないか。……少なくとも、俺はそう思う」


 スケートをやっていて、目指すものや願望は人それぞれだ。五輪を目指す人もいれば、世界一綺麗な氷で滑りたいと願う人もいる。すべてのクワドを試合でクリーンに決めたいと努力する人もいれば、アイスショーで世界中を回りたいと胸を弾ませる人もいる。

 雅はまだその門をくぐっていない。スケートの中のいろいろな門が彼女の前に開かれたまま……雅は何も決められないのだ。


 でもそのうち、何かを決められる時が来る。大体、無理に掲げた目標のもとにやっていても続いてはいかない。

 何も難しく考える必要はない。


「また、父さんのこと聞かれたらどうすればいい?」

「両親は両親、雅は雅だろ。コーチは確かに星崎先生だけど、お前には関係ない」

「誰も何も悪くないのに、恵まれてるって妬まれる」

「そこでお前が罪悪感を覚える必要はない。たまたま父親がスケーターで、指導者だった」

「でもたまに、きっついこと聞かれたりしない?」

「マスコミは自分の仕事をしているだけだ。お前もその仕事に、競技に出ている人間として少しだけ付き合えばいい」 


 大切なことはシンプルだ。そして残酷なことも大抵シンプル。物事を単純化できれば、大抵の場面でも切り抜けられる。


「……また辛くなったら、こうやって一緒に滑ってくれる?」


 ――それでもきっとまた、どうしようもなく動けなくなる時が来るかもしれない。


「当たり前だ」


 つらい時でもそうでなくても、練習ぐらいいくらでも付き合ってやる。

 言葉にしない想いを込めて、俺はその時のために一番シンプルな答えを雅に返した。


 雅は俺の答えに、ありがとうといって少し笑った。


「もうちょっと滑る。そういえばさっきから三回転ばっかりで、アクセル飛んでなかったや。見てて」


 再び彼女は滑り始める。声が明るくなったから安心した。バックで滑って、前向きに切り替える。アクセルの起動だ。

 ――助走が今までと少し違う。雅のスケートは確かに速いが、それでいて、さっきみたいに力んでいる感じがあまりない。


 彼女の身体が一瞬、沈んだかに見えた。



 その一瞬、彼女は鳥になった。



 鷹ほど眼光が鋭くなく、白鳥のように優雅なものじゃない。タンチョウのように湖畔で踊るものでもなく、カワセミのようなかわいらしさもない。

 ただひたすら、雄大で力強かった。

 着氷しようとして――右足を踏ん張り切れずに、氷の上に倒れこむ。


「あー、失敗しちゃったー。せっかくなら成功させたかったんだけどなぁ」


 再び大の字になった雅がけらけら笑う。


「お前、雅……」


 開いた口がふさがらなかった。驚きで、声が出ない。

……こいつ、今、何を飛ぼうとした? 自分で気づいていないわけじゃないよな?


「何、てっちゃん。何を驚いてんの? たまに父さんが見てないところで、このジャンプ練習してるんだよね。バレたら止められそうだから。もう、悩んでるのがバカバカしくなっちゃったよ」


 いつものような呑気な声。……調子を取り戻した雅の様子を見て……俺もなんだか心配して損したような気分になり、少しだけ笑った。



 その後、またしばらく滑って互いに疲れた頃、堤先生に連絡した。

 すぐに先生は星崎先生を連れてリンクにやってきた。星崎先生は怒っていたが、それ以上に夜更けに家からいなくなった一人娘を案じていた。


「馬鹿娘。あまり心配させるな」

 一言だけ言って星崎先生は、雅の頭を抱きしめた。


 それから雅も、たまに人目のつかない時にこっそりリンクに入って練習することを覚えてしまった。早朝が多かったようだが、夜の時もあった。夜だった時は、その度になぜか星崎先生からメールが入り、俺や堤先生が迎えに行く羽目になった。

 多分そういう時に、あのジャンプを練習していたのだと思う。



 *


 だから俺はこういったのだ。

 どうせ不調だったら、ダメ元でもう一回転してトリプルアクセルにしてしまえ、と。



 *


 ……満ち足りた表情でアメリカのジョアンナ・クローンが演技を終える。ショート7位で最終組に残れなかったが、彼女も実力者だ。今季ジュニアGPファイナルの銅メダリスト。昨日転倒したルッツも、三回転+三回転のコンビネーションも今回は綺麗に決めてきた。……昨日話した時は大分ナーバスになっていたが、それを克服してのフリーだった。

 アメリカ人らしい、柔軟性と素直さが入り混じった好感の持てるスケートが特徴だ。彼女の滑りは基本に忠実で、すべての技術をバランスよく備えている。ノーミスで滑ればかなりの得点になる。

プログラムは映画「ピンクパンサー」。コミカルでひょうきんなプログラムを見事に滑り切った。


 入れ替わりで雅がリンクイン。


 ……男子の表彰式が終わった後、医務室で右足の手当てをしてもらった。エキシビションはドクターストップが入ってしまった。


 包帯で厳重に巻いた足のままですぐに関係者用の応援席に向かい、女子シングルのフリーを俺は第一グループの第一滑走から観戦していた。


 ジョアンナの得点が表示される。……得点は、かなりいい。暫定1位に躍り出た。これがメダル獲得のボーダーになるだろう。

 次滑走者の名前がコールされ――雅が、赤い衣装、黒のパンツスタイルで最初のポーズを決める。卵の形みたいだ、と、このプログラムを初めて見たときに思った。

 ――まるで孵化する直前の卵みたいだと。



 第三グループ最終滑走、星崎雅。

 曲はI.ストラヴィンスキー、バレエ音楽「火の鳥」――





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