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1.

 玄関に足を踏み入れてすぐ、見知った顔に「おかえりなさいませ」と、出迎えられた。

 妻の専属侍女がわざわざ玄関まで出てきてヤーガスを待っていたとは、至極珍しい。

 形態は雇用主と使用人だが、彼女と言葉を交わしたのは片手ほどしかない。

 初対面の時からなぜか、ヤーガスは彼女に露骨に避けられていた。

 理由は知らないがどうせ、妻の関係から嫌われているのだろうと察しがついたので放置している。今までもそれで、なにひとつ問題がなかった。

 驚いて動きを止めたヤーガスの前にゆっくりと歩を進め、彼女は伏せがちだった視線をあげる。

「奥様のご様子がおかしいのです」

 開口一番の台詞は、妻の不調を報せるものだった。



 この国は大陸で唯一、大地豊穣の女神の祝福を受けた土地。

 この国の最たる産業は、開国以来ずっと農業が柱になっている。

 種や苗の出来もすこぶる良い。

 それこそ、長旅を経ても手に入れたいと思われるくらいには。

 種苗屋が並ぶ大通りは、この都の名物だ。

 薬草専門店、毒草専門店、球根専門店と並び、果ては好光性種子専門、嫌光性種子専門店などそれぞれに個性がある。

 この国には常時、大陸全土から種子や苗を求めて人が集まっている。

 種苗の良し悪しは作物の出来高を左右する。

 食糧事情が絡むのだから、取引は真剣なものになる。

 中でも、聖殿に住まう嬰児が育てた種苗は別格で、それらの苗は売買の桁を変えるほどに人気がある。

 僅かばかり豊穣の女神の能力を受け継いだ娘達を、嬰児と呼ぶ。

 能力が認められたなら聖殿に上がり、難しい特殊な種を芽吹かせるのが役目だ。

 彼女達は成人するまでの短い期間に備わる植物の声を聞く力を、国のために使う。それ故、嬰児は能力を失ってなお一種の尊敬と畏怖を持って丁重に扱われる。

 正式な国名はある。統治する王族もいる。

 だが、聖殿の国、嬰児の国、と呼ばれることが浸透し、国名は地図にしか記されないものになっていた。

 この国では、聖殿に関わる仕事をする者は尊敬され、誉とされるのだ。

 敬意も思慕も、生半可な王族よりは名もない嬰児に軍配があがる。

 国の根幹を支え、女神の恵みをもたらす彼女達は、誰よりも貴い存在だと信じられていた。

 ヤーガスには妻がいる。

 嬰児だった妻は聖殿を去る年齢に達した時、嫁ぎ先としてヤーガスを指名した。

 それは前代未聞の事態だった。

 聖殿の嬰児は、成人になると聖殿を辞する。

 その後はほぼ、貴族の家に嫁ぐのが習わしとなっていた。

 聖殿にあがる前からの知り合いで、どうしてもその人に嫁したいという嬰児なら過去にも存在したが、見ず知らずの商人を指名した嬰児は妻が初めてだったからだ。

 妻に指名されてからヤーガスは何度も聖殿に呼び出され、繰り返し事情を聞かれたが、どれもこれもヤーガスにとっては寝耳に水の話で、関係者の憤りや怒りをぶつけられるのは迷惑なだけだった。

 だが、嬰児の行く末は嬰児の意思がなによりも優先される。

 それ故ヤーガスは妻を迎え入れたのだが、結婚式の当日でさえ聖殿関係者に「大切な預かり者と心得よ」としつこく念を押される始末。

 そんなに大切な存在ならば形だけでも嫁することをせず、聖殿の奥でいつまでも大切に守っていればいいものを。

 不満に思いはしたが、口は閉ざしていた。

 その理不尽に我慢せざるを得なかったのは、この国ではなによりも、聖殿との取引が商人としての信用を左右するからだ。

 ヤーガスは聖殿に出入りを許された、末端の商人だ。

 祖父の代でその栄誉を手にして以来、ヤーガスの家は細工の卸売を生業としてきた。

 仕事柄、ずっと外を歩き回る。この日のヤーガスも疲れ果てていた。帰宅して早々の厄介事はごめんだった。

「逐一私に報告せずとも良い。さっさと医者の手配をしてくれ」

 すぐに視線をそらせ、素っ気なく言い捨てた。

 それが大きな間違いだっと気付くのは、ずっと後になってからだった。



 医者という医者にさじを投げられた。

 こんな事態はまるで予想していない。

 ヤーガスは頭を抱えていた。

 同居している母も妹も、口先では妻のことを心配するが、二言目には欲しいものをねだる。

 結局、妻を看病しているのは、最初に容体を伝えに来た専属侍女だ。

 最初は、医者を呼べば解決すると思っていた。

 かかりつけの医者もいたし、たとえ高度な専門医療になっても金ならある。

 そう、高をくくっていたのだ。

 一週間経ち、二週間経ち、さすがに一カ月を数える頃、本格的にこれはおかしい、と思うようになってきた。

 眠ったまま目覚めない妻の姿を見て、ようやくそう感じた。

 件の侍女に言いつけて、医者と名のつく人間を片っ端から連れてきた。

「お疲れなのではありませんか? じきに目覚めると思いますよ」

 診断の結果は眠っているだけ。

 誰も彼もが口をそろえてそう言った。

 だったらもういい加減、目を覚ましてもいいころだ。

 どこの世界に、ひと月近くも眠ったままでいる人間がいるというのか。

 聞けば、侍女が自分に報告してきた時点で、眠って三日目だったのだと言う。

 特に変化のない毎日を送っていたはずだ。

 侍女に聞いても、ごく普通の日常だったとしか言わない。

 何か原因があるのなら教えてほしい。

 もうこの際、誰でも構わない。

 万策尽きたヤーガスが頭を掻き毟って転げ回りたくなったころ、妻の専属侍女がやってきた。

「どうした? もう、目が覚めたと言う報告以外、しにこなくても構わないぞ」

「承知しておりますが……本日、奥様はこんなものを握りしめておいででした。私、毎日お世話させていただいておりますが、まったく覚えがないのです」

 差し出されたものを受け取ってみる。

 それは、親指大ほどの小さな土の塊に見えた。

「なんだ、これは」

「一応、洗ってみたのですが、何かの根ではないでしょうか」

 多年草のなかには、根茎に栄養を蓄える種類がある。

 そう言われてみれば、何かの根茎に見えなくもない。

「わかった。これはこちらで調べてみよう。あとは宜しく頼む」

 何もしないよりはましだと思った。

 目標があるとき、人はより素早く行動できる。

 この時のヤーガスもそうだった。

 翌日から、仕事の合間に種苗屋巡りを始めたのだった。



「おめでとう。今年の花娘に選ばれたんだって?」

 ヤーガスが出入りしている細工師に祝いを述べると、彼女は顔を覆ってその場に座り込んだ。

 なにか変な事を言ったのだろうか。

 この王とで、花娘に選ばれるのは栄誉なことだ。

 その年一年の幸運を約束されると言われる花娘は、王都に住まう未婚の女性の中から選ばれるのが常道だ。

 花娘は花祭りで選ばれる。花祭りとは、自分で育てた花を競い合ったことから始まった祭りだが、今では芽吹きの季節の風物詩にもなっている。

 表立った参加条件は「未婚の女性」であり、参加規約は「自分で育てた花を持参すること」。

 だが、十代の若い女性、そして親が権力者、というのが近年選ばれる花娘に共通している。これはヤーガスの勘違いなどではない。王都に住まう者は皆、知っていて知らないふりをしていることだ。そして不文律のように、二十代前半くらいで参加する女性はいなくなる。

 二十代半ばのこの細工師なら、未婚とはいえ、参加するのも今年でぎりぎりだっただろうに。正式なの参加条件は「未婚の女性」ただ一つであるが、実態はかけ離れている。「未婚」の「若く」「美しい」「権力者の親を持った」女性が好まれるのだ。

 しかもなぜか選ばれる花娘は共通して、同じ鉢で育てた花を持参する。

 これだけ種苗屋が立ち並ぶ王都で、とても不自然な出来事だ。

 そういう事態が続く中で、この細工師は今年の花娘に選ばれた。

 その名は、快挙として伝わっていた。

 金がものを言うイベントに変貌していたはずの花娘に、珍しく実力で選ばれた庶民として。

 権力者の後ろ盾を持たない無辜の庶民代表としてよく頑張った、とヤーガスは労ったつもりだった。

 ヤーガスは床に尻をついて頭を抱えるラルビを、胡乱な視線で見下ろす。

 もともと変わっているとは思っていた。

 細工師は職人気質の人間が多い。人付き合いや接客が苦手で、売れるものも売れずにいる。そうした職人と露店や商店の仲買をヤーガスは生業としていた。

 自分が目をつけた若い職人が、徐々に名声を得ていく過程を見るのが楽しいのだ。

 彼女の場合は極端で、聖殿の修復を任されるほどの腕がある癖に、まるきり新人の細工師と同等に扱ってくれ、などと奇妙なことを言ってきた。

 そもそも、彼女の師匠はそれとなく、何度も独立を促していた。たまたま聖殿修復の時期が近かったから、修復が終わるまでは、と手元に置いていたが、とっくの昔に独立していてもおかしくない職人だった。

 今もヤーガスの仲介で品を卸しているが、どこに出しても評判がよく、すぐに完売御礼の札がかかる。というか、露店なんぞに出すような品ではない。

 どんなに無茶な品数を言っても、必ず期限までに仕上げる律儀さもおかしい。

 彼女は寝食忘れて仕事をしているのだろうか、と思ったほどだ。

 独立して間もなく警邏隊長の夫人に気にいられ、その紹介でいわゆる上流階級の顧客をつかみ、そこそこ名が知られているはずだ。

 それなのに、いまだにヤーガスの露店に品を卸したい、という変人なのだ。

 ヤーガスとしては儲かるのが確実なので、どうでも良いけれど。

 手元に並べられた品の不備を確認しつつ、ヤーガスは変人職人の相手をしていた。

「あの、それはどこで聞いたんでしょう」

 頭を抱えたままのラルビが、絞り出すような声を吐く。

「どこでって、そりゃ、花祭りの後は花娘がどこの誰だったかくらい、どこでも噂されるだろうに」

 当たり前すぎて何を聞いているのかすらわからない。

 花祭りで頂点に選ばれる花姫は当日、会場で大きく紹介されるが、それ以外の花娘はもともと人の口で名が広まっていくものだ。王都では毎年のことで、常識と言っても良い。

「噂ですか? どの街区からどの街区あたりまでです?」

「……噂なんだから、都全体だろう」

 花娘は年によって変動するが、多くても数名しか選ばれないのだから、興味は集まる。

 近年は花の購入先とか栽培師とかも密かに広まるが、自力で出品の花を育てた娘の名は、稀に見る実力者として好ましく伝わっていた。

 花娘の姿はこうあるべきだ。

 誰知れず言われ始めた言葉は、若い娘たちの来年の参加へと呼び水になるだろう。

「もう駄目です。立ち直れません」

 本格的に床に座り込み、ほの暗いなにかを振りまいている細工師は、約束された幸運とは真逆で気味が悪い。

 やはり、花娘に約束されるという幸運とやらは、眉唾なのだろうか。

 花娘の近くにいる者にも、稀に幸運のおすそわけがあると聞くが、どうやらこの様子ではあれも単なる噂に過ぎないようだ。

 それに、今の会話に落ち込む要素があっただろうか。

 ヤーガスは悲嘆するラルビから距離を取って観察する。

 どうやら本気で嫌がっているようだ。

 涙目になっている。いや、もう泣いているのか。

 嬉し泣きには見えない彼女の姿は、とても奇異だ。

 噂になりたくなければ、花娘などに参加しなければ良いのだ。そもそも、幸運を約束されて悲嘆にくれる人間をヤーガスは知らない。初めて見た。

「都中に噂なんて……、私、もう外を歩くこともできません」

「大袈裟だな。胸張って歩けば良いだろう」

 周囲の羨望と憧れが集まるだけだろうに。

「張れるほどの胸なんてありませんっ!」

「姿勢良く歩け、と言っているだけだ」

 まるで会話がかみ合わない。

 職人にはよくあることなので、ヤーガスはあまり気にしない。

「そうか、顔を見られなければ良いのですよね。スカーフで顔面覆えば問題ないです」

「それは不審者だな」

「では帽子と襟巻で隠せば」

「季節が違うからさらに目立つな」

「やっぱり私、外にでられないんですね」

 どうしてその結論になるのかさっぱり理解できないが、品の数を数えて終わったヤーガスは、丁寧に梱包して袋のなかに納入した。

「数も質も確認した。約束通り間違いなく。じゃあ、代金はここに置いておくからな」

「……はい」

 机の反対側の床で蹲るラルビに声をかけ、立ち上がったヤーガスはふと思い出した。

 彼女はとても珍しい花を栽培したのだと聞いた。

 豪奢でもなく、見栄えもない。だが、栽培にはとても手間がかかり、短い間しか開花しない花を祭り当日にあわせて咲かせたのだ、と。

「花祭りでは難しい花を咲かせたって聞いたが、細工師のお前さんが花の栽培方法なんてよく知っていたな」

 どんよりした顔でラルビはヤーガスに応える。

「知りませんでした。教えてもらったんです」

「誰に?」

 問うたのは意外に思ったからだ。

 人付き合いの悪い、細工の技術にしか興味のない彼女に、そんな知り合いがいたとは知らなかった。

 最近、彼女を贔屓にしているという警邏隊長の奥方は論外だろう。あの人は生まれからして上流階級だ。上流階級の奥方は、花を愛でることは知っていても、栽培方法にはまるで興味がない。腕の良い栽培師に援助を考えても、自分で育てることには積極的ではないはずだ。

「同じ商店街の種苗屋の主に」

「この商店街に、種苗屋なんてあったか?」

 種苗屋は大通りにあるのが普通、と思いこんでいたヤーガスに、ラルビは続けた。

「ありますよ。ヤーガスさんはそこの路地をすぐに曲がるから知らないのかもしれませんが、この先の精肉店の向かいに小さな種苗屋があるんです。女の子が細々と営んでいるので、そんなに有名じゃないかもしれませんが。ああ、そう言えば、花祭りのときにも聞かれました。よく栽培方法を知っていましたねって、審査員の学者の先生にも」

「じゃあ、腕は確かなんだな」

「おそらく。私はよくわかりませんが、花を咲かせる時にはかなり助けてもらいました。ガラスの器が必要とか、月光を浴びせるとか、咲かせるための条件が色々あったみたいです。皆に『結晶華は珍しい』と言われましたが、種は警邏隊長からの貰いものです。でも、自分一人では発芽もさせられなくて。相談に行って、彼女に教えられたようにやっただけなんです。あのガラスの器も師匠からの借り物です。この仕事をしていて、夜更かしが得意じゃなかったら、花祭りに参加する前に、種ごと腐らせていたと思うんです」

 自分の力だけではない、とうじうじしたままラルビは答えた。

 そう言えば、彼女が咲かせた花は結晶華と言い、雪の結晶に似た種を空高くに飛ばすのだと聞いた。花が珍しいということは、種の入手も難しいのだろう。

 その生育方法を正しく知っている人物ならば、植物への造詣は深いとみて間違いない。

「それは良いことを聞いた。礼を言う」

 名だたる種苗屋をまわり尽くした。それでも分からなかったものが、まだ彼の懐にある。

 妻が握っていた土くれの塊がなにかわかるかもしれない。

 ヤーガスはすぐに帰宅せず、ラルビに教わった種苗屋へと足を向けた。



 教えられた種苗屋はすぐに見つかった。

 常なら素通りしそうな小さな店構えだが、店先に並ぶ種は店の大きさにあわず豊富に見える。

 店内を覗くと、一人の娘が座っていた。

「すまない。客ではないのだ。少し尋ねたいことがあるのだが、いいだろうか」

「はい。いらっしゃいませ」

 振り向いた娘の両目を覆う包帯に少しだけ怯む。

「体調が悪いのなら出直すが?」

「いいえ。大丈夫です。こちらへどうぞ」

 婉曲に気遣ってみたが、まるで気にする様子もない。

 誘われるまま店内の椅子に腰を下ろすと、奥から娘がお茶を運んできた。

「ハーブ茶しかありませんが、お嫌いでなければ召し上がってください」

「ありがとう。頂くよ」

 ハーブ茶は好みがわかれ、嫌いな人間は決して手をつけないものだ。

 だが、出されたお茶は普通の緑茶に似て、香りだけが花を連想させる質の良いものだった。

 何と切り出そうか、とヤーガスが考えた時だ。

「でもお客様、懐にあるそれを迂闊に見せて回ることはお勧めいたしません。今まで誰にも気付かれなかったから良かったものの、知識のある官吏にでも見つかれば大事ですよ」

 さらりと告げられて言葉を失う。

「店主にはこれがなにか、おわかりになるのか」

 まだヤーガスの懐にあるはずのそれを、年若い店主は知っているのだ。

 なぜ持っていることを知っている? と思う間もなく、問いかける。

「はい。差し支えなければ、少し私がお預かりしてもよろしいでしょうか」

「これは、なんなのだ?」

 ヤーガスの問いに、娘は少し逡巡し首を振った。

「お知りにならないほうが、よろしいかと思います」

「それでは預けられない」

 初対面の若い娘の言葉に、どれだけの信頼があるだろうか。

 娘は自身が疑われていることを承知しているようで、狼狽の色もなかった。

「では申し上げます。それは『隠された種』の一つ、決してこの世に存在してはならないものなのです。見つかれば口封じに殺されるでしょう」

「そんな馬鹿なことがあるものか。今の世でそんな口封じなど」

 戦もなく、飢饉も無縁になって久しい世の中だ。

 法の整備もなされ、この国は法治国家と言われている。

 なにもしていない国民の一人が殺されるいわれはない。

「そこまで言われるのなら、お好きなようになさってください。役場の長官ならそれを知っているかもしれません。あとの保証はなにもできませんけれど、種を運んだ人は間違いなく殺されます」

 ヤーガスの主張は無視され、若い店主は微かに微笑む。

「……なぜ?」

「先程申し上げました。それは『隠された種』なのです。この世にあってはならないもの。この世に持ちこんだ者は例外なく死罪。なぜならそれは『封印された時間』を暴いた証拠だから」

 聞き慣れない言葉に、ヤーガスの理解は追いつかなかった。

 ただ一つだけ理解できたのは、この正体不明の物は、かなり厄介な代物だということだけだった。

 声を失くしてたヤーガスは、そのまましばらく店内に居座っていた。

 ラルビが言っていたように、店主は若いが腕は確かなのだと思う。

 今まで誰にも教えてもらえなかったこれがなにか、見破れるような人物だ。

「なぜ……わかった?」

「信じてもらえるかどうかわかりませんが、種のまとう空気が違います。この世に馴染んでいない異質なものです。おそらく、聖殿に集う嬰児にならわかるでしょう」

「嬰児か。妻は元嬰児だ」

 都にある聖殿には、嬰児と呼ばれる異能が集められる。

 本来は緑児とも呼ばれたらしい。

 種の声を聞き、健やかに育てることができる大地豊穣の母神の才を継ぐ者。

 大半の者は成人までにその才を失い、貴族に嫁すか市井に降りる。

 ヤーガスの妻も、聖殿の嬰児の一人だった。

「奥様でいらっしゃいましたか。かつて嬰児でいらしたのならわかります。早急に元に戻すようにお願いしてください。今ならまだ影響もなく、未遂で全てを収められるでしょう。私はなにも聞かなかったことにいたします」

「それが、無理なのだ」

 彼女が穏便におさめようとしてくれているのはヤーガスにもわかる。だが、目覚めない妻にこちらの要望を伝える方法がない。

「妻は眠ったきりで、目覚める気配がまるでない。もう、一月ほどになる。これは妻の世話を任せているものが持ってきたのだ。妻が手に握っていたと言って。妻をおこす方法を知っているのなら教えてもらえないだろうか。どの医者にもさじを投げられた。店主に聞くのは筋が違うというのは承知しているが……」

 言葉を重ねるヤーガスの前で、若い店主は瞬く間に顔色を変えた。

 顔の中心を覆う包帯すら問題にならない勢いで、場の温度が激変したのかと思うほどに。

「奥様に……会わせていただけますか?」

「それは構わないが」

「すぐに行きましょう。時間がありません」

 手際良く店じまいをする娘を見て、なにを焦っているのかと疑問に思う。

 だが、ヤーガスにしても彼女は妻を起こすための唯一の手掛かりだ。

 急かされて帰宅した時には、空に星が瞬いていた。



 妻の専属侍女を紹介するとすぐ、年若い店主は妻との対面を望んだ。

 侍女にしても、何故こんなに若い娘を連れてきたのか、という要らぬ猜疑の視線をヤーガスに向けるのだが、口では何も言われないので反論のしようがない。

「会われても寝ているだけです」

「承知しています」

「では、こちらへどうぞ」

 妻が目覚めなくなってからは他人との対面を拒む傾向にあった侍女だが、女性同士のせいか会わせることにさほど抵抗がないらしく、珍しく従順に先頭に立つ。

 怪訝に思いつつ、ヤーガスはその最後尾に続いた。

 大きな屋敷の隅にある妻の部屋は、清潔さこそ保っているものの閑散とした印象が拭えない。いつ見ても殺風景な部屋だとヤーガスは思う。

「こちらが奥様の寝室になります」

 専属侍女が娘を奥へと誘った。

 そこはまるで緑の空間だった。

 所狭しと小さな鉢植が並び、壁掛けの棚にも緑が並ぶ。さながら種苗屋が出張してきたような部屋だった。

 部屋の片隅にあるベッドで横たわる人影。

 目覚めない姿はまるで人形のように見える。

「失礼します」

 種苗屋の店主はベッドに近づき、妻の手を取った。

「こちらの手にあれを握っておられましたか?」

「はい、そうです」

 説明する事もなく理解できるのは、種の存在と似たような事情だろうか。

 ヤーガスはぼんやりと思う。

 しばらく妻の手を握っていた店主が立ち上がり、ヤーガスに向き直る。

「最善はつくしますが最悪の場合、ヤーガスさんが選んでください。奥様に毒を飲ませて時間を稼ぎながら起こしてみるか、奥様をその手で殺すか」

「なにを言っている」

「奥様は種の苗床になりかけています」

 想像以上に深刻な状態だった。

 妻が目覚めない理由は『隠された種』にあると店主は言う。

 そういう種類の種なのだ、とだけしか教えてはくれない。

 それはまだいい。詳しく聞いてもヤーガスには理解できないことだ。

「とりあえず、種の成長を抑制するために毒を調合します。人体に影響が出ない範囲で種が弱るような調合にしますが、これだけでは十分とは言えません。失われつつある自我を保つために、持続的に外部から親しい人が呼び掛けることです。ヤーガスさんはしばらく奥様について呼び掛けてください。それと毎日三度、必ず一定量の水分をゆっくり飲ませてください。これは侍女の方でも大丈夫です」

 矢継ぎ早に出される指示に、ヤーガスも侍女も一瞬呆ける。

「私が妻につききりで看病することは無理だ。仕事がある」

「休んでください。今はこちらのほうが最優先です」

 包帯で隠されているはずの視線が、正確にヤーガスを貫いていた。

「訳がわからん。寝ているだけだろうが。起こせば良い」

「奥様を起こすために必要なことです。奥様が握っていたという種を貸してください。その種に細工を施すために多少時間が必要です。ヤーガスさんもその間に仕事の引き継ぎをお願いします。 あと、侍女のかた」

「ガレと申します」

「ガレさんは奥様への訪問を全て断ってください。知っている人の方が少ないとはいえ、世の中への流出を防ぐためにならその場で殺しても罪に問われない。『隠された種』とはそういうものです」

 ふざけるな、と思う。

 いい加減にしろ、と怒鳴りたかった。

 だがヤーガスの不満を見抜いているのか、娘は遮るように言う。

「嫌ならこの場で奥様を殺してください。状況を説明すれば、決して罪には問われません。私も証言します」

 ヤーガスは商人だ。仲買とはいえ、商人の端くれだ。

 評判というものの重要性を知っている。風評で潰れる同業者を幾人も見てきた。

 例え罪に問われないとしても、妻を殺したという噂は困る。しかも元嬰児。

 人の口には暇がない。悪評ほど面白可笑しく尾ひれも背びれもつけて大きく広まっていくだろう。

 しかも妻は人々の尊敬と畏怖を集める元嬰児だ。仕事に影響がでないはずがない。

「……わかった」

 ヤーガスがその時なんとか頷いたのは、妻を殺せないという義侠心よりも、保身の方がはるかに勝っていた。



 まだ空に星が瞬く早朝に、ラルビの工房の戸が鳴る。

 仕事を請け負っている時は日時に関係なくラルビは作業場にいる。

 この時もまた、個別に請けた注文の品を仕上げるために作業している最中だった。

「……誰?」

「ラルビ、私シードだけど」

「いま開ける、ちょっと待ってね」

 芽吹きの季節とはいえ、朝晩はまだ凍える寒さだ。

 ラルビが急いで閂をはずすと、シードが薄着のままそこにいた。

 頬が紅潮しているのは寒さのせいではないらしく、触れた指先は暖かかった。

「ごめんなさい、こんな時間に。どうしても急いでお願いしたいことがあって」

「私にできることならなんでも言って? シードにはお世話になってばかりだったし」

 室内に招きつつ、ラルビは不思議に思う。

 これほど焦ったシードは珍しい。

 杖をついて歩いている姿はいつでも落ち着き、年齢以上の重厚な雰囲気を感じさせているからだ。

「聴聞印を刻んでほしいの。ラルビならできるわよね」

「できるけど、あれは面倒な手続きが必要で、種苗屋証も必要なんだけど」

「書類なら揃えてきたわ。ここにある。ただね、条件があるの。水晶じゃなくて、この種に刻んでほしいの」

 差し出された土の塊に似たなにかは、ラルビの手の中で歪に転がる。

「これ、なに?」

「……特殊な種なの」

「ふーん」

 疑問がないわけではない。が、ラルビは敢えて聞くことを止めた。

 聴聞印は水晶に刻むのが主だ。

 印紋が刻みやすいことと、植物との相性が良いことが理由と聞いている。

 種苗屋のみが持つことを許されるそれは、植物の声を聞くことができる特殊な物と言われている。

 真偽は知らない。

 ラルビは細工師だ。印紋を刻むのが仕事。

 許可された書類が揃っていれば、なんの問題もないのだ。

「多少表面を削っても大丈夫?」

 凹凸がかなり目立つそれは、なだらかな曲線に描く前提の印紋を刻むには不都合だ。

「ええ、そのくらいなら」

「わかった。依頼は請ける。でも、明日まで待って欲しいの」

 印を刻むだけならラルビ一人でも可能だ。今すぐにでも取りかかれる。

 ただ、聴聞印はとても珍しい。なかなか注文が来ないし、許可もおりるほうが少ない。

 だから、細工師の間では聴聞印を刻む仕事は、できるだけ同業者を集めて見る機会だけでも増やそうというのが無言の鉄則としてある。

「それで十分よ。ありがとう」

 急いで帰っていくシードを見送り、ラルビは仕度を始める。

 師匠や兄弟弟子、その知り合いにまで声をかけなければならない。

 その前に、出来上がったばかりの細工も届けなければ。

 慌ただしく荷物をまとめ、シードに渡された書類を抱え、ラルビが工房を出る頃にはかなり陽が昇っていた。

 急いで着替え、ラルビは戸締りをすると足早に向かう。

 師匠の家に行って事情を話して同業者への声かけを頼み、依頼された細工を届けて、人が集まったのを見計らってから聴聞印を刻む。仕事が終わるのはおそらく深夜か明日の早朝になる。

 脳内で今後の計画を再考しながら、商店街の通りを突っ切った。

「おや、ラルビ。珍しくお出かけかい?」

 いつも朝早くから惣菜を売りに出す肉屋は店を開け、恰幅の良いおかみが客を器用にさばいていた。

 彼女はいつも、馴染みの細工師に声をかけるのを忘れない。

「おはようございます、ケットさん。私、今日は一日ずっと留守にします。至急の仕事が入ったので、師匠の所に行ってきます」

「そうかい、気をつけてお行き」

 笑顔で見送った後、ケットは小さく呟いた。

「あの子、相変わらず仕事が関わると人が変わるね」

 普段は自宅兼作業場に閉じこもりきりの彼女は、ろくな人付き合いもせず、外出することも稀だ。それどころか、おどおどして碌に会話も成り立たないことすらある。

 ラルビが別人のようにしっかりするのは、仕事が関わった時だけだ。

「毎日あれだと良いのにね」とケットは漏らしたが周囲には人影がなく、誰の同意も得られなかった。



 ヤーガスは大まかな仕事を部下の一人に任せることにした。

 なかなかの才覚があると見込んでいる。

 妹といい仲でもあるという。

 片腕に育てようと思っていた相手を見込んで、仕事の流れを教え、懇意にしている職人の家を紹介した。

 長く彼に任せることは無理でも、数日ならこれで凌げるはずだ。

 新人の腕を目利きできるほどではないから、新規開拓は見込めない。

 露店や商家との顔つなぎを急いで終えた。

 職人の家を回る際、持参している格安の資材調達までは教えられなかったことが悔やまれる。

 とはいえ、ヤーガスはこれまでずっと休日らしい休日のない毎日だった。

 数日くらいなら、骨休めということで許されるのではないだろうか。

 種苗屋の店主は翌朝、気持ちの悪い色をした液体を持ってヤーガスの家にやってきた。

 これを定期的に飲ませなければならないという。

 自分は毒など触りたくないので、侍女に任せることにした。

 食事代わりにあれを飲ませるなど、人道的にどうかと思う。

 眉を顰めるヤーガスを余所に、店主と侍女は話をすすめていた。

「毒と言っても薬草が主です。ただ、肌には極力触れないようにしてください。こぼしたらよく水で洗い流してください。あと、これを飲ませた後一刻は水は飲ませないでください」

「承知しました。他に注意する事はありますか?」

「強いて言うなら、ガレさんもきちんと休息を取ってください。顔色が悪いです。今日明日で結果は出ません。奥様が目覚めた時、ガレさんが憔悴していたら、きっと驚かれますよ」

「わかっております。ですが心配で」

 なんだか一人、のけ者にされている気分で面白くない。

「準備が必要だと言っていたが、どうなった?」

「明日には用意できます」

「なら、いい」

 ヤーガスの部屋でその後の打ち合わせを三人でしていた時だ。

 前触れもなく扉が開く。

「兄さん、仕事休むって本当? 調子でも悪いの?」

 勢いよく開いた扉から、妹が飛び込んできた。

 日頃から年の離れた妹には甘いヤーガスだが、この時ばかりは顔をしかめた。

「客人の前で失礼だぞ。挨拶くらいできないのか」

「あら、ごめんなさい。いらっしゃいませ」

 注意された事には素直に応じるが、自分より若い相手と瞬時に見て取ったのか、まるで誠意のない形だけの言葉を向ける。

「お邪魔しております」

 声をかけられた種苗屋の主は、椅子から立ち上がり綺麗な型どおりの礼をみせる。

 ヤーガスが招いた種苗屋の主は確かに妹よりも若いが、一応こちらがお願いしている立場だ。見えていないだろうと頭も下げない態度は頂けない。

「話の途中だ。出て行きなさい」

 素っ気なく追い出そうとしたが、妹はしつこかった。

「酷いわ。心配して様子を見に来た妹に向かって」

「体調は悪くない。たまには休みたくなっただけだ。さあ、行くんだ」

「そうなの。だったら良いんだけど。兄さんが彼に仕事を押し付けるから、なかなか顔を見られなくなるんじゃないかって心配になって」

「とにかく今は邪魔だ。大人しく部屋で遊んでいろ」

 なにやら最後の方で本音が漏れていたが、聞き流したヤーガスは妹の背を押して部屋の外に出す。

「ちょっと、あたしだっていつも遊んでいるわけじゃないんですからねっ!」

 戸の向こうで怒鳴る声が聞こえたあと、静かになった。

「失礼した。礼儀を知らない妹で申し訳ない」

「お気になさらず。話の続きに戻りましょう」

 妻の容体に関して、これ以上の口外をしないことは最初に打ち合わせた決定事項だ。

 妹であっても、耳に入れたくはない。

 他にも色々、知られたくないことはある。

 これから先の数日を思い、ヤーガスは小さく溜息をついた。



 打ち合わせた翌日、種苗屋の若い主が預けた種を持ってきた。

 表面が滑らかになり、見慣れない模様が刻んであるそれを彼女はヤーガスに渡す。

「奥様の手とヤーガスさんの手を重ねて、その間にこれを握ってください。今の奥様は苗床、半分植物のような状態です。おそらく、奥様の声を一方的に聞く形になります。でも、こちらからの呼びかけにはまだ反応があるようですから、何でもいいので話しかけてあげてください」

 ヤーガスは首をかしげながらも頷いた。

 侍女にはいつもの怪しげな薬を手渡すと、彼女は帰っていった。

「旦那様、参りましょう」

 先を行く侍女に促され、ヤーガスは渋々妻の部屋へと向かう。

 小さな鉢植が所狭しと並ぶ部屋は少し圧迫感があり、居辛い気持ちになる。

「椅子はこちらで宜しいでしょうか」

 ふと見れば、妻のベッドの脇に小さな椅子が用意されていた。

 種苗屋の指示を忠実に守るのなら、この形しかないのだろう。

 ヤーガスのやる気はあまりなかったが、とりあえずこのために休日をもぎ取ってきたのだと思い直し、腰を下ろす。

 眠っている妻の手をみれは、白く細く頼りない。

 苦労とは無縁の美しい手というわけではなく、爪は短く切りそろえられ、少しささくれが目立っていた。

 ヤーガスの家はそこそこ商売が上手くいっており、母や妹だけでなく、妻にも家事などさせた覚えはない。専用の使用人を幾人も雇っているため、母も妹も己を着飾ることか遊ぶことしか考えていないのだ。そうした人間の手は、爪が長くささくれとは無縁だ。妻の手をじっくりと見た今、少し意外に思う。

「手を重ねた間に、これを挟むのだったか」

 言われた言葉を復唱しながら、手を重ねて種を挟む。

 途端に、視界が反転するような奇妙な感覚がした。

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