【スパイ小説】なぁ、智蔵。豚肉冷麺をおまえは知ってるのか?
冬とは思えない暖かい日だった。
俺が諜報員の身分を隠しながら、人気のない住宅街を歩いていると、前からジョージがやって来た。
「おう、智蔵」
ふつうに挨拶して来たので、俺も返さねばなるまい。
「おう、ジョージ」
「今はジョージと呼ぶな」
たしなめられた。
「このどう見ても日本人顔の俺がその名を名乗るのは諜報活動の時だけだ」
「す……、すまん」
「ところで智蔵。豚肉冷麺をおまえは知ってるか?」
「豚肉冷麺?」
いきなりな質問に、俺はたじろいだ。
真冬になぜ冷麺の話を? これは何かの暗号なのか? いやこんな暗号知らないぞ?
とりあえず俺は『質問の意図がわからない』ことを伝えるため、正直に答えた。
「いや、知らないな」
「そんなわけないだろう」
ジョージが猿のように歯を剥き出して、笑った。
「豚肉の乗った冷麺だぜ? おまえも食べたことぐらいはあるだろうよ?」
「え……? ああ、そりゃまあ……な」
「知ってるんだな?」
「ああ。そういう食べ物のことなら、知っている」
「じゃあ、それはどんな豚肉なんだ?」
「……えっ?」
「チャーシューか? それとも豚バラスライスをサッと茹でたやつか? あるいは細切れを焼肉のタレで炒めたやつなのか?」
「えーと……」
俺は記憶の中に豚肉冷麺の姿を探した。
ヤツが今言ったのがすべて浮かぶ。どれかになんて決められない。
考え込んでしまった俺を見下ろしながら、ジョージはトトロのように立ち塞がり、メガネをキラーンと光らせながら、小馬鹿にしたように言う。
「おいおい……。まさか知らないんじゃないだろうな?」
マウントをとったように、笑う。
「なぁ、智蔵。豚肉冷麺をおまえは知ってるのか? 本当に、知っているのか?」
「そう言われると……知らない気がしてきた」
俺は自信がなくなってしまった。
「豚肉冷麺って……なんだったっけ? そんな料理が、あったんだっけ? 冷やし豚骨ラーメンとは違うんだっけ?」
色んなものに、色んなことに自信がなくなってきた。
俺はほんとうに智蔵って名前だったっけ?
目の前のコイツはほんとうにジョージだったっけ?
「任務完了」
ニヤリとしてそう呟くと、ジョージは俺の横を通り過ぎて行った。
俺の目にはもう、すべてのものが二重にも三重にもダブって見えてしまっていた。
しまった、ヤツの作戦にまんまとかかってしまったのだ。




