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第76話 許嫁は甘やかしたい①

「莉音くん、おやすみなさい」

「おやすみ」


 その日の夜、夕食を食べ終え、先にお風呂から上がった結愛とおやすみの挨拶をすれば、俺は結愛が自室へと戻っていくのを確認した。


 流石に部屋で筋トレは狭くてろくに出来そうにないので、割とスペースのあるリビングで行うことにする。


 もちろん結愛にこの事は話していないし、話すつもりもない。そもそも、結愛の隣にいて恥ずかしくないように筋トレをするとか、そんなの恥ずかしくて本人には言えない。



(よし、やるか)


 結愛がリビングを出てしばらくしてから、俺は軽いトレーニングから始めるのだった。



「はぁ、はぁ……。明らかな運動不足だな」


 まず手始めに、腹筋、腕立て伏せ、背筋をそれぞれ20回ずつ行った。日頃から運動をしていない俺の体はそれだけで悲鳴を上げていて、だらけた体だということを実感させてくる。


 俺は中学の頃から部活には参加していないので、せいぜい体育の時間にしか運動はしない。そんなこともあり、自らの意思で行なうトレーニングはそれなりにキツかった。


 

「とりあえず休憩するか……」


 それでもなんとか同じセットを数回繰り返し、それっぽい事をやっておく。今は基本中の基本だけだが、ある程度筋肉がついてきたらもっと良いトレーニングをネットで調べてみるのも良いのかもしれない。


 まあそこまで筋肉をつけたいわけではないが、女の子1人を安心して守れるくらいには、しっかりと身に付けておきたい。



「もう少しだけやるか」


 俺は1人そう呟きながらも、再び体を動かした。



「莉音くん……?何やってるんですか?」


 それでも現実世界では思った通りには上手く進まず、結愛はリビングに戻ってきた。

 扉を開け、キョトンと驚きを隠せない顔で。



「結愛こそ、何をしに?」

「私は今日の莉音くんの様子が怪しかったので、何かあったんじゃないかと心配になって戻ってきました」


 一歩ずつ慎重に歩み寄せてくる結愛は、そのままソファに座る。



「…………俺、怪しかったか?」

「はい。とても怪しかったです」


 気になって聞いてみれば、結愛からは即答だった。



「だってお風呂には中々入らないし、部屋にも戻ろうとしなかったですもん」

「その時点でバレてたのか」

「もう何日一緒に過ごしてると思ってるんですか。同居人に些細な変化があれば、当然気付きます」

「そりゃそうか」


 隠し事なんて出来ないな、俺はそう思った。たしかに数ヶ月同じ家で過ごした人間がいつもと違う行動を取れば、少なからず気にはなるだろう。


 それも年頃の同じ年の男女となれば、尚更だ。



「莉音くんだって、私にちょっと変化があれば気づくでしょう?」

「多分気づく」

「それと同じです」


 結愛に痛い所を突かれ、俺はぐっと言葉に詰まった。俺は見守ると約束したのだ。些細な変化に気付かないわけがない。



「…………それで、何してたんですか?」


 澄んだ綺麗な瞳を俺に向け、純朴な表情で結愛は首を傾げる。



「見ての通り筋トレだが?」

「また何故急に」

「ちょ、ちょっと筋肉欲しくなって」

「嘘ついても分かりますよ。莉音くんの行動にはちゃんと意味があること、私は知ってますから」


 筋トレを始めた理由を隠すために適当な嘘をつくも、結愛にはすぐにバレる。結愛の言葉にむず痒い気持ちになりながらも、どうしたものかと頭を回す。



「…………言わないと駄目か?」

「出来れば聞きたいです。もちろん無理にとは言わないですけど、、」


 なるべく言いたくはないので話さなくても良いかと聞けば、結愛は前のような悲しげな顔をする。きっと隠し事をされたことで、俺との距離を感じたのだろう。


 そんな顔を見せられたら、もう俺に隠し事なんて出来るはずがない。



「分かったよ。言うから。だからその顔やめて」

「なっ、女の子になんてこと言うんですかっ!」


 結愛に、もうそんな顔をして欲しくなかったのでやめてと伝えるも、選ぶ言葉を間違えたので結愛は語彙を強めた。



「それはすみませんでした。でもそれだけ心臓に悪かったというか、もうそんな顔をして欲しくなかったというか、ともかく悪気はないってことだけは理解してほしい」


 女の子に言う言葉ではなかったと素直に反省し、少しの言い訳だけ添えて謝罪する。



「まあそんなの最初から分かってましたけど」

「…………わざとか?」

「女の子は策士ですので」

「そうかよ」


 俺が頭を上げ、結愛の顔を見たときには、口元は小さく緩んでいた。


 そして深呼吸をしてから心を落ち着かせ、数秒の間を開けてから口を開く。



「…………俺が筋トレを始めたのは、自分に自信を持てるようにするためだよ」

「自信、ですか?」

「そう」

 

 ここまで来たら嘘をつく必要もないので、今日修馬と話して決断したことを、結愛にそのまま伝える。



「今の俺じゃ、友達としても許嫁としても結愛の隣に立つ資格はないからな。だから少しでも自分に胸を張れるように、結愛の隣に立てるように、自信をつけたいんだ」

「それでですか……」


 俺が長々と言葉を発していれば、結愛の頬はだんだんと色付いていった。リビングに来た時の心配そうな表情は見る影もなく、今では嬉しそうな顔を全面に出していた。



「私は、そんなの気にしないですよ?」

「結愛が気にしなくても周りは気にするだろ。それに俺がやるべきだと思ったんだ。結愛のためにも」


 結愛と目を合わせながら自分の思ったことを伝えれば、結愛は下を向き、長い髪で表情を隠した。



「本当、莉音くんのそういう所が私は……」


 ボソッと言葉を呟いた結愛は、それだけ言って途中で止める。

 その後ゆっくりと顔を上げた結愛の表情には、ドキリとしざるを得なかった。



「私はいつも莉音くんに貰ってばかりです」


 結愛は満足そうな、それでいてどこか不満そうな、ちょっぴりと唇を尖らせた顔をする。



「俺の方が貰ってるよ。朝食とか昼の弁当とか、感謝しきれないほどのものを」

「私は莉音くんにお金じゃ買えないものを貰ってます。温かい空気とか、帰るべき場所とか。ありのままの私でいていいと言ってくれたこととか……」

「それなら同じものを俺も貰ってる。結愛の言葉で、自分も前を向いていいんだと思えた」


 お互いに貰ったものや日頃の感謝を述べて、特に意味のない言い合いをする。「私はもう、それよりもずっと前から……」結愛はそっと言葉を発して、その上目遣いと少し瞳孔の開いた瞳、そして俺の胸の奥を覗くような表情をする。


 そんなのを正面から見せられて、胸の高鳴りを抑えられるわけがなかった。



「…………莉音くん、しばらくは私が夕食を作りますよ」


 そこから、結愛はふと思い付いた顔をして俺にそう提案してきた。



「なんで?」

「莉音くんが私のために頑張ってるんです。それなら私も莉音くんのために少しでも出来ることをしたいです」


 結愛の瞳に濁りなく、本心で夕食まで作ろうと考えているらしい。



「あのな、これは俺が自分で勝手にやってることだし……」

「それなら私も勝手にやります」


 結愛に引き下がるつもりはないようで、何を言っても反論してきそうな勢いだった。

 どこか包容力のある顔をしている結愛は、口を開いてそっと自分の胸に両手を添えた。



「私は側で莉音くんを支えます。莉音くんが私のためにキツイ思いをして努力してするなら、私もそれに応えます」

「…………お言葉に甘えてもいいのか?」

「もちろんです」


 今の俺にはそれしか選択肢が残っておらず、結愛の行為に甘えるしかない。その分、より一層結愛のための行動を活発に行おうと、胸の中で固く誓う。



「…………甘えたくなったら、いつでも言ってくださいね?莉音くんの頑張りを、私はずっと見てますから」


 結愛は自分の腿の上をポンッと叩き、ここで甘やかしてあげますと言わんばかりの顔で俺を見つめた。



「これじゃあ、嫌でも筋トレしないといけないな」

「少し強引すぎましたか?」

「いや。むしろ嬉しかった」

「良かったです」


 俺からすれば、結愛がここまでしてくれたのは逆に助かった。結愛が俺のために行動に移してくれたのだ。これなら弱音は言ってられないし、気兼ねなく自分を追い込める。



「けど今日はもうしないぞ。久しぶりに体を使って疲れた」

「そうかもですね」


 まあ初日くらいは良いだろう。結愛はクスッと笑い、上品な仕草をした。



「…………じゃあ、さっそく甘えておきますか?」


 そんな悪魔的な誘いを、俺は初日から受ける。結愛はやる気に満ち溢れていて、いつでも用意は出来ているようだった。



「き、今日はやめとくわ」

「今日は、ですね。かしこまりました」


 果たして俺はいつまで耐えれるのだろうかと心配になる半分、これからは結愛のためだけでなく自分のためにも頑張ってみようと思うのだった。

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