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第72話 許嫁と雨の日

「結愛と花森さん?こんな所で何してるんだ?」

「莉音くん……」


 2月の中盤になり、低かった気温もだんどんと上がり始めてきたある日のこと。

 俺が買い出しに行って家に帰ってくれば、玄関の前には結愛と花森さんが座り込んでいた。



「今日は遊びに行くって言ってなかったか?」


 今朝、結愛は放課後は遊びに出掛けると言い、珍しく俺よりも先に家を出たのだが、今は玄関の前にいた。


 その理由も、結愛と花森さんの濡れた髪と服を見たらすぐに分かる。



「その予定だったんですけど、急に大雨が降ってきちゃって。私も美鈴さんも傘持ってなくて……」

「それで近くに雨宿りする場所もなく、ここまで来たんだよね」

「なるほど。通りで濡れてるわけか」


 俺は2人の話を聞きながら、自分のポケットの中から鍵を取り出す。

 何故結愛が家の鍵を開けないのか気になるが、ひとまず中に入るべきだ。



「結愛は鍵を持ってなかったのか?」

「今日は私が莉音くんよりも先に家を出たので、鍵は必要ないかと思って家の中に置いてきてしまいました」


 玄関に入り、結愛達が雨に濡れているのにも限らず家に入らないからもしかしてと思い尋ねてみれば、俺の予感は的中する。

 どうやら結愛は、今日は鍵を家に忘れていたようだった。


 確かに今朝は結愛は用事があるとかで一足先に家を出ていたが、俺からすればまさか鍵を持って行ってないとは思わない。


 俺は放課後は一度家に帰ってから買い出しに行ったが、そのタイミングで結愛達は濡れながら帰ってきたのだろう。


 俺がスーパーに向かった時はすでに空は雨模様で、雨が降り始めていた。



「それなら仕方ないけど、次からはちゃんと持っていくようにな」

「…………はい」


 結愛はしかられた子供のような、少しだけ気を落とした顔をするが、隣に花森さんもいるからか、顔はすぐに明るくなった。


 結愛と花森さんは玄関で濡れたローファーを脱ぎ、びしょびしょの制服から水滴を零す。

 結愛は髪も顔も濡れていたが、それはそれで水を滴らせており、ある意味人目を集めそうだった。



「そのままじゃ風邪ひくし、先リビングに行ってて。タオル持ってくるから」

「八幡くん、私もお邪魔していいの?」

「そのつもりで来たんだろ?」

「バレたか……」


 花森さんもキョトン顔でとぼけていたが、結愛が中に進めばその後を追うようにリビングへと向かっていく。


 俺は拭くためのタオルを洗面台に取りに向かってから、先に行った2人の後を追った。



「てか結愛、俺に連絡くれたら傘持って迎えに行ったのに」

「…………あまりそういう経験がなく、すっかり忘れてました」


 リビングにタオルを持っていき、それを結愛と花森さんに渡す。

 雨で少し透けたシャツが、目線のやり場を無くした。俺はそっと視線を逸らし、話を続ける。



「莉音くんが前に迎えに来て下さったけど、これまでそういった事をしてもらった事がなく、思い付きませんでした」

「まあいきなりは無理だしな。次から少しずつ頼ってくれればいいから」

「そう出来るように頑張ります」


 結愛は決心を見せるようにコクリと頷き、その揺れで濡れた髪から水滴を垂らした。2人は濡れて寒いのか、タオルで拭いた後でも、若干体を震わせていた。



「2人とも雨に濡れたのに家の前で待機してたから体冷えてるだろうし、今からお風呂入ってくれば?」


 俺が帰ってくる前から雨に濡れて扉の前に座り込んでいた2人は、おそらく体温もそれなりに低下しているだろう。


 濡れ具合からみて長時間待ったわけではなさそうだが、この時期だとまだ寒いはずだ。


 一番手っ取り早く、そして楽に体を温められるのはお風呂なので、俺は2人にそう提案した。



「そうしたいところなんですが、私まだ今日は湯を張れてなくて」

「それは気にしなくて大丈夫だぞ。俺が溜めといたから」


 今日は本来なら結愛がお風呂場を掃除してお湯を溜める日なのだが、俺は結愛が遊びに行くと知っていたので、スーパーに行く前にお湯を溜めておいた。


 遊びに行った結愛の帰りが遅くなるのは分かっていたし、もし逆の立場なら結愛も同じことをしただろう。だから俺はあらかじめ行動に移しておいた。


 お湯を溜めてから買い出しに行って良かったと思ったのは、今の2人を見れば言うまでもない。



「…………莉音くんはそういう人でしたね」


 結愛は顔に笑みを浮かべてから小さく呟き、隣に経つ花森さんへと目線を変えた。



「美鈴さん、先お風呂入っていいですよ?私は後から入るので」

「それじゃ結愛ちゃんが風邪引くよ?」

「うっ……でも私から入るわけには……」


 結愛も結愛なりに気を遣い、客人である花森さんを優先しようとしていた。花森さんも花森さんで結愛のことを思い、自分は客人だからと一歩身を引いていた。


 何とも平和なやり取りだと黙って眺めてみているが、俺からすればどっちでも良いので早く入って欲しい。


 強いて言うなら、髪の長い結愛の方が優先したい。そこに私情はなく、譲り合うくらいなら風邪を引くリスクが高い方に先に入って欲しいだけだ。



「何言ってるの結愛ちゃん、一緒に入ればいいじゃん」

「一緒に、ですか?」


 花森さんはパァッと何か思い付いた顔で結愛の手を握り、眩しい眼差しで結愛を見つめる。花森さんの提案に、結愛は無垢な顔をして首を傾げていた。



「女の子同士なら割と普通だって!」

「そ、そうですか……?」

「そうそう!」


 2人が仲睦まじいのは何よりなのだが、そんな会話を目の前でされては男の俺はどうも居心地が悪い。



「一緒に入ろ?」

「分かりました。そうします」


 俺の存在なんて無視して話を進め、2人は意気投合する。

 深呼吸をして呼吸を整えてから、心を落ち着かせた。



「濡れた床とか鞄とかの荷物は俺が拭いとくから、気にせずゆっくり温まってきて」

「八幡くん、それは流石に……」

「花森さんも遠慮しなくていいから。鞄も中は覗くつもりないし、2人がお風呂入っている間は外に出とく予定だから、覗かれる心配とかも気にしなくていい」


 俺は今出来るせめてもの気遣いを働かせ、自分なりにやるべき事を決める。

 結愛もそうだが、花森さんが男のいる家で安心してお風呂に入るわけがないので、俺は外に出とくべきだろう。


 マンションの廊下なら雨もそこまで入ってこないし、傘を持っていれば大したことはない。お風呂から上がったら連絡してくれれば良いので、俺は全然外で待つ気だ。



「いやそれは別に気にしなくていいというか、、結愛ちゃんと2人で暮らして何も起きてない時点で心配していないというか……」


 花森さんは何か別のことを心配しているようで、あまり俺のことは危険視していないようだった。

 そんな花森さんの表情を見たら胸騒ぎのようなものを感じるが、ただ単に慣れていないだけだろう。


 立ち止まって動こうとしない花森さんを、結愛が引っ張った。



「美鈴さん、早く入りましょう?少し寒くなってきましたし」

「そ、そうだね。結愛ちゃんがそう言うなら、早く入ろうか」


 どうにも腑に落ちない点があるが、2人の濡れた体を体を温めるという一番大切なことが出来ているので、そこまで深く考えなくても良さそうだ。


 俺は胸の中でそう呟きながらも、外に出る準備を始めた。



「…………莉音くんも、別に外に行かなくていいですから。莉音くんがそういう事しない人だって、ちゃんと分かってます」


 リビングから脱衣所まで向かっていた結愛は、ふと思い出したように足を止めて俺の顔を見る。

 


「あのな、男を安全だと認識しすぎるのも良くないぞ」

「本人からの忠告がある時点で心配いらなそうですね」


 俺が善意で忠告しているのだが、結愛は特に警戒することもなく表情を緩めたままだった。花森さんも似たようなもので、これといって鋭い眼差しを向けられることはない。



「はぁ……。それなら2人ともゆっくり入ってくれていいからな。お風呂上がったら温かい飲み物でも淹れるわ」

「ありがとうございます」

「八幡くんありがと〜」


 胸の中に飲み込みそうになった言葉を溜息として出し、お風呂上がりの2人をより良く迎え入れれるような行動を取ることにする。


 安全だと頼られるのが良いに越したことはないのだが、安全だと思われすぎるのも返って毒となる。


 結愛は気掛かりな事がなくなったのか、止めた足をまた動かした。



「結愛ちゃん、八幡くん優しい人だね」

「そうなんですよ、優しい人なんです」


 脱衣所に入った2人は、見つめ合ってそう話す。だがリビングに戻って色々と準備をしようと決意した俺の耳には、その言葉が届く事はなかった。



『ブッブー』


 その後、しばらくしてから俺のスマホはバイブ音を鳴らして震えた。



(…………結愛から?)


 俺はてっきり結愛達がお風呂から上がったとの報告かと思ったが、画面を覗けばそれは違うことに気付かされた。


 そしてそれを最初見た時には、意味を理解するのに少し時間が掛かった。思わず「は?」と口に出してしまいそうになるくらいには、予想もしていなかった。



『莉音くん、着替えを用意し忘れました』


 だって俺に送られてきた結愛からのメッセージには、その一通の文章が送られてきていたから。


 今になって、あの時に感じた胸騒ぎの正体が分かった。

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