雪の朝、階段で。
カーテンを開け、一面に広がる真っ白な雪に喜んでいられたのは、何歳までだったのだろう……。
社会人になって数年が経った現在、その光景に私がまず思ったのは「電車大丈夫かな……」というロマンチックの欠片もない感想だった。
しかも、積雪を予想して大変になるであろう出勤の事を考えて、早起きまでしている始末。
すっかり仕事に飼いならされている証拠だ。
先週から連日続いていた残業は、昨日の夕方雪がちらつき始めて一旦中断された。
帰宅困難になる前に早く帰るようにとの、上からお達しがあったのだ。
翌日の出勤の心配をしていると、「このまま会社に泊まっても良い」と上司からニヤリと嫌な笑顔で告げられて、みんな一目散に帰宅の途に着いた。
何だかなぁ〜……。
もちろん私だって、純粋に仕事で活躍したいと思っていた。
ロマンチックなオフィス・ラブなんていうのはドラマや小説の中だけで、そうそう現実にあるとはさすがに思っていなかった。
けれど、ほんの少し心の何処かには残っていた「もしかして」……。
そんな予感ですら、まさかここまで皆無とは……。
まぁ、その「もしかして」を綺麗サッパリと捨て去る事が出来たおかげで、仕事は順調なのだけれど。
ふいに、キンと冷たい空気に身震いしてストーブのスイッチを入れた。
雪は積もった朝は、一段と冷え込んでいる。
嫌だな〜。と、心の中で何回も呟きながら出勤の準備。
まだ独り言を口に出さないようには気をつけている。だって、それを気にしなくなったら何だか一気に転げ落ちそうな危機感みたなものが、まだ私の中にかろうじて残っているのだ。
それもあと1年そこそこの問題かもしれないとは薄々思っているけれど……。
雪道を考えて普段のパンプスは紙袋に入れ、変わりにウォーキングシューズを履き、いつもより早く部屋を出た。
こんな日でも、仕事に行かなければならないのだ。
簡単には休めないのが会社員!
しかし一歩外へ出た瞬間、あまりの寒さになけなしの気力はあっという間に萎んでしまった。
雪が止んでいたのがせめてもの救いだったが、憂鬱なまま歩き出す私。
当然足取りは重かった。
そんな雪の日の通勤に、最大の難関が早くも私の前に立ち塞がる。
駅を降りて、会社までの近道である大きな緑地公園。
その下り階段の雪は既に踏み固められおり、見るからに滑りそうな危険な雰囲気に、思わず一歩踏み出すのをためらってしまう。ちなみに、スロープはこれまたスケートリンク並に危険が漂っていて、誰も通っている人はいなかった。
遠回りも考えたけれど、ここを突っ切れば10分は違う。
いつもより早く出たものの案の定、積雪の影響でダイヤは乱れていて回り道する余裕はなさそうだった。
というか、面倒くさくて回り道という選択肢は最初からなかったのだけれど……。
階段には頼みの手すりはあるものの、これまたきんきんに冷えていそうなステンレスパイプ。
ふと、鞄に入れっぱなしの手袋の存在を思い出し、ゴソゴソと探してみたがどうしても片方が見つからない。
はぁ……ツイていない。
ひとまず、見つかった方の手袋を着けて、意を決して手すりを掴み、おそるおそる階段を降りようとしたその瞬間、後ろから声を掛けられた。
「あの……もしよかったら、こちらに掴まりませんか?」
「え?」
声の方に振り向くと、スーツ姿の男性がいた。
パッと見た印象では、私とそう年は離れていなさそうだけど、同年代にはないどことなく威厳みたいなものを感じる。よく見ると上質そうなスーツにコート、それに鞄から靴まで高級品を見事に着こなしているからだろうか。
まさかそんな男性に声を掛けられるとは思ってもみなかったので、一瞬、もしかしたら別の人に声をかけたのを私が勘違いしたのかと思い、きょろきょろとあたりを見回してしまった。
「いえ、階段が滑りそうなので、良かったら僕の肩にでも掴まっていだだければと思いまして……」
ちらりと手袋をしていない方の手に視線を送ってそう言った。
男性は間違いなく私に声を掛けてきたようだった。
「あ、そんなご迷惑ですから……。一人でも大丈夫ですので」
いつもより降りるのに時間が掛かってしまうだろうし、そんな事をしては出勤途中であろうのこの男性の時間をとらせてしまうと思い遠慮したけれど、再度「階段で滑ると危ないので」と言われ、一応もう一回「でも……」と迷ってみせたが、結局は男性の言葉に甘える事にした。
だって、ちょっと素敵だなって思ったんだもん。
親切にそう言ってくれただけで別に何があるというわけでもない。
どうせ階段降りる間だけの事なんだから……。仕事ばかりの乾いた私の日常にほんのちょっとくらい、こんな出来事があったっていいじゃない。と、心の中で言い訳をしている時点で、ほんの少しときめいているのは事実だった。
手袋のないほうの手を男性の肩に乗せた。
けれど、見た目よりも遥かにコートの肌触りが良くて、別の意味で少し緊張してしまった。
「ゆっくりで、大丈夫ですよ」
そう言って、男性は私の一段先を降りながら、その度にこちらを気遣ってくれるのが、何だか妙にくすぐったい。
ふと、肩に乗せている指先を見て安心する。
昨日は早く帰れたので、たまにはと……お手入れをしたばっかりの爪。どうせしばらく残業が続くからとベースコートしか濡っていないけれど、剥げかけたマニキュアに気がつかない状態よりか遥かにマシだ。
もし、いまこの男性に近くで見られてもとりあえず大丈夫。
昨日の私、グッジョブ!
「すみません。お時間を取らせてしまって……雪が降ると通勤が大変ですね」
無言のままというのも……と思い、とりあえず無難な話題を持ち出してみた。
「確かに、電車や出勤を考えると大変ですが……。恥ずかしながら、この歳にもなってやはり雪が降るとワクワクしてしまって、そちらの方が気になって自然と早く目が覚めてしまいました」
その言葉に私は思わず胸をつかれてしまった。
同じように早起きしても、この人は私とは違ってまだ「あの頃」の自分を忘れていないんだなと感じた。
後ろ姿しか見えないのでどんな顔をしているのか分からないが、肩に乗せた手に伝わるかすかな振動で彼が笑いながら言っているのがうかがえた。
「それに……」
「はい?」
男性がふと何か言いかけて言葉を止めたので、聞き返す。
「それに、雪が降ってくれたおかげで貴女に話しかけるきっかけが出来ました」
「えっ……」
思わぬ台詞に驚くと同時に、胸が高鳴った。
二人の足が止まる。
彼の耳が段々と赤く染まっていくのは、寒さのせいばかりじゃないのだろうか……。
かすかな期待が胸の奥で膨らむ。
「あの、実は……前から貴女をお見かけしていて! おわっ……!!!」
ほんの少しの沈黙のあと男性が何か言いかけながら急に振り返ったりするもんだから、つるっと足を滑らせた。
咄嗟に、私は男性の肩に乗せていた手でコートを掴み、その手を男性が掴んだ。
「っ!」
息を飲んだが、何とか転ばずにすんだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「す、すみません。助かりました」
思わず同時にホッとため息をつく。
けれど、重ねられたお互いの手に私の心臓は別の意味でドキドキしたままだ。
「あの、咄嗟に強くコートを掴んでしまって、シワになっていたらすみません」
「とんでもない。こちらこそ手を掴んでしまい……危険な目に合わせてしまってすみません」
謝り合ったきり、次の言葉が見つからず二人とも黙ったまま。
もちろん手も握られたままだ。
「……ふっ、ふふ!」
こんな時、思わず笑いが込み上げてくるのはどうしてだろう。
まさに少女漫画や恋愛小説で出てくるようなベタなシチュエーションに、そのまま笑い転げてしまった私に、目の前の男性も表情を緩ませた。
それだけで、起きてからの憂鬱な寒さがすべて吹き飛んだような気がした。
雪の朝。
階段で。
出会ったばかりの男女と、ほんの少しのハプニング。
いつの間にか、またちらほらと降り始めた雪の粒が、私の唇にあたった瞬間、じゅんと溶けた。
恋に落ちるには、それだけで充分だ。
私は、捨て去ったはずの「もしかして」を、うっかり拾ってしまった。
心の中のもう一人の私が「鏡を見ろ」「有り得ない」「何か裏がある」とさっきからツッコミを入れまくっている。言われなくても、分かってるよ……。
でも、そもそもあれはオフィス・ラブの事であって、ラブ・ストーリー自体はまだ捨てていないと、またまた自分に言い訳をしてみる。
良いじゃない……。
たまには、私の人生にこんな“ときめき”があったって良いじゃないか!
出社時間が刻一刻と迫る中、それでも聞きたい。
雪の朝、階段で、出会ったばかりの貴方の言葉の続きを待つ。
Fin.




