相談役との議論 ― “正当性の捏造”
王子の執務室は、夜の帳に沈んでいた。
分厚いカーテンが月光を拒み、ランプの炎だけが二人の輪郭を浮かび上がらせる。
机の前に侍立した側近は、極薄の羊皮紙を胸に抱え、声を潜めた。
「殿下、彼女は——ユーフェミア殿下は、何もしていません。
罰する材料がございません。どれほど探しても“罪”の形にならないのです」
言った瞬間、側近は自分の指が震えていることに気づいた。
沈黙を拒否する存在ならまだ扱いやすい。
だが、彼女は“何もしていない”。
無辜は鎖のように強固で、権力の刃を跳ね返す。
王子は椅子の背にもたれ、ゆっくりと息を吐いた。
それは諦念ではなく、静かな決意を溜め込む呼吸だった。
「ならば——作る」
側近は反射的に顔を上げた。
王子の目は夜の森の狩人のように冷えていて、言葉の余地を許さなかった。
「彼女を揺さぶる。沈黙を破らせる。
言葉を吐いた瞬間、我々はそれを“材料”とする」
室内がさらに狭くなった気がした。
側近は額に汗を滲ませ、慎重に言葉を選ぶ。
「……殿下、それは……誘導でございます。
罪を求めるのではなく、罪を作るおつもりですか。
それは……善意と政治を結びつける“導線”を——」
言い終える前に、王子は小さく頷いた。
呆れでも反論でもない。
ただ、計画の筋道を確認するような、静かで確信に満ちた頷きだった。
「善意を政治に戻すためだ」
王子は両手を机に置き、指を絡めた。
「人々は善を信じたい。だが今、彼らは対象を失っている。
英雄は不在の哀れを救うことで成り立つ。
ユーフェミアはそれを拒否した。
——ならば、彼女の善を破壊し、再び必要性を生む」
側近の唇から声が漏れた。
それは驚愕なのか、恐怖なのか、自身でも判別できない。
「……殿下、それは……政治に善意を戻す代わりに、
民の善意そのものを焼却する行為に他なりません」
王子は視線をそらさなかった。
焔の光が瞳に映り、暗い輝きとなって瞬いた。
「焼く必要があるのだ」
その声は苦悩ではなく、使命に似ていた。
「民の善意が空虚な信仰として漂うのなら、
それを燃やし、再び“方向”を与える。
英雄へ、救済へ、王家へ」
側近は膝が折れそうになるのを必死に堪えた。
その発想は政治ではなく、もはや儀式だった。
政治的正当性の創造ではなく、正当性の捏造。
人々の心を操作し、理由を後付けして歴史を編む——
「殿下、どうか……」
声は細く、祈りに似ていた。
「その方法は、王子の御身をも穢します」
王子は笑わなかった。
ただ淡々と言った。
「英雄とは、泥を踏む者だ。
泥に触れずして、誰が民を導ける?」
沈黙が落ちた。
側近はそれ以上、何も言えなかった。
王子は既に“道”を選んでいる。
彼の決意は、善意を救うためにまず善意を壊すという、黒い光を宿していた。




