王子の焦燥 ― “英雄の役割喪失”
王宮の自室。
陽は傾き、窓の外の石畳に橙の影が伸びている。
机の上は白い紙片の墓場だった。演説原稿は幾度も生まれては潰え、丸められ、床へと堕ちていく。
王子は最後に残った一枚へ目を落とし、震える指で文字を追った。
「民のために寄付した者を称え――」
そこでペン先が止まった。
言葉は続くはずだった。称賛の形容詞、賛美の比喩、観衆の涙を誘う黄金の一文。
だが紙の上は雪原のように白い。何も書き加えられない。
寄付した者がいないのだ。
施しを受ける者も、救う者も、存在しない。
英雄譚は、たとえ物語的虚構であれ、最低限の構造を必要とする。
苦しむ者を抱き上げる英雄、英雄を仰ぐ民——その循環があるからこそ、王子の演説は成立していた。
しかしユーフェミアは、それを根底から拒否した。
彼女は悲劇を嫌悪した。
「誰も救われなくていい」と言ったのではない。
「誰も救われる必要がない」と静かに宣言したのだ。
王子は額を押さえ、椅子に沈み込む。
胸の奥で、理屈の鎖が千切れていくのがわかった。
——英雄は、人々の絶望を背に立つ。
——救う対象がなければ、英雄という役割は空洞と化す。
——そして今、救世者はもう必要とされていない。
喉の奥で、乾いた笑いが漏れた。
自分は英雄ではなく、ただ「英雄の役を演じたいだけの王子」に過ぎなかったのだと。
視線が窓に向かう。
遠くの庭園、噴水の縁に腰掛け、鳩を追う少女の影があった。
陽光を受けた銀髪は、世界そのものから祝福されているかのように輝いている。
ユーフェミア。
悲劇を拒否した存在。
その拒絶は、英雄という舞台装置を破壊し、彼から役割を奪った。
胸の奥に、たったひとつの衝動が生まれた。
それは理性でも使命でもなく、もっと原始的な感情——
「引きずり出す」
彼女を。
もう一度、物語の中心へ。
彼女が拒み、逃れようとする舞台へと。
王子は散乱した原稿を踏みしめ、立ち上がった。
捨てられた英雄譚の死骸を背に、扉へと歩き出す。
それがどれほど不格好で、滑稽で、醜悪であっても構わない。
英雄を演じる者には、英雄を必要とする世界が要るのだ。
ならば——彼が世界を作り直すまで。
扉が静かに閉ざされ、部屋は沈黙の海へと戻った。
床に散らばる紙片だけが、英雄の亡骸のように彼の焦燥を語っていた。




